最終章:地球からのアンコール

『――貴艦の発した信号は、極めて独創的かつ力強いものであったと観測します』

神代藍からの通信は、まさに奇跡的な事象であった。4.2光年という時空の隔絶を超えて到達したのである。その言葉は人間的特性が強く、また場違いとも言える賞賛であった。

神々の交響詩が終結したブリッジは、荘厳な静寂に満たされている。藍からの通信はそこへ、鮮やかなインクのように染み渡った。

慧は、ゆっくりと意識を回復させた。疲労で霞む視界の中、スクリーンに表示される短いテキストを、彼は何度も再読する。隣席でオラクルが、息を呑むのが分かった。その気配が合図であったかのように、ブリッジの凍てついた時間が、再び流動を開始する。

それは、感情の爆発的な発露ではなかった。ある者は、静かにその場に崩れ落ちる。またある者は嗚咽を漏らしながら、天井を仰いだ。

副長は自らの目を固く覆い、その肩を微かに震わせている。彼らは、孤立していなかったのだ。この広大で、無慈悲な宇宙において、自らの信号を受信する者がいる。その事実だけが、彼らの精神を、かろうじて繋ぎ止める要因となっていた。

「……いかなる原理で……」

慧は、かすれた声で疑問を呈した。

「この通信は、いかにして此処へ……?」

彼は意識を失いかけている身体に鞭打ち、オラクルと共に、コンソールの解析に着手する。そして彼らは、自らが引き起こした、もう一つの奇跡的な現象を理解した。

彼らが奏でた、神々のフーガと人間のカノン。それは、単なる推進力として機能したのではなかった。秩序と混沌、そして神と人間という、二つの相反する概念。それらが生命のパルスによって、一つの音響信号として束ねられた瞬間。その矛盾から生じたエネルギーは、時空そのものに、安定した「共振経路」を生成したのである。

それはワームホールとは原理が異なる。宇宙の異なる二地点を、共振現象によって、瞬時に接続する通信路であった。彼らの魂の発露が、宇宙の基本構造を書き換え、地球への通信線を創り上げたのだ。

その頃、地球。

プロジェクト・オルフェウスの総司令部。中央スクリーンには、アルゴ号が奏でた、壮絶なソナタが観測されていた。

スクリーンを見上げる神代藍の表情には、深い安堵と、そして同様の疲労が刻まれている。アルゴ号が出航してから、数年の歳月が経過していた。

その間、彼女は、スーパーコンピュータ「カッサンドラ」と共に、慧の残したデータを解析し続けた。彼女は知っていた。宇宙の深淵に潜む、二つの絶対的な存在を。そしてアルゴ号が、孤独な闘争を強いられているであろうことも。

彼女にできることは、理論的な支援と、祈ることであった。だがアルゴ号が、あの狂気の演奏を開始した瞬間。カッサンドラは、巨大な時空の共振を、明確に検知したのである。それはアルゴ号からの、声なき、悲鳴であり産声であった。

藍は、理論的可能性に賭けた。その共振の揺らぎの中に、地球から信号を重畳させられるのではないか、と。彼女は自らの声を、人類の声を、その奇跡的な波動に乗せたのであった。

アルゴ号のブリッジ。

慧は、震える指で通信コンソールを操作した。

「……こちら、アルゴ号船長、水嶋慧。……通信可能か、藍」

数秒間の、永遠とも思える静寂。そしてスクリーンに、数年ぶりに見る、彼女の姿が投影される。以前より幾分か成熟し、しかし、変わらない、強い光を宿した瞳であった。

『帰還を歓迎します、慧』

藍の、静かな声が、スピーカーから再生される。その一言に慧の、張り詰めていた精神の緊張が、ふっと弛緩した。彼の目から、熱いものが、静かに流れ落ちる。

短時間ではあったが、濃密な情報交換が行われた。地球の現状と、プロジェクト・オルフェウスの進捗。そしてアルゴ号が入手した、完璧な「沈黙の歌」の設計図について。

『……故に、私は言説したのです』

全ての報告を聞き終えた藍は静かに、しかし力強く微笑んだ。

『貴艦の信号は独創的であった、と。その不完全性こそが、あなた方の、そして我々人類の最強の戦略的優位性なのです。神々の完璧な設計図は、あくまで、一つの理論体系に過ぎません。それをどう解釈し、自らの言葉で表現するか。それこそが、重要なのではありませんか?』

藍の言葉は慧の、そしてクルーたちの心中の疑念を、払拭した。

『帰還してください、慧』

藍は言った。

『全人類が、待っています。……あなた方の、新たな演奏を、聴くために』

通信が、終了する。

慧は、ゆっくりと、立ち上がった。そして仲間たちの顔を、一人一人、確認するように見渡す。彼らの目には、もはや、絶望の色はなかった。

慧は再び、船長席に着席する。目の前のコンソールに、新たなる、白紙の設計図を表示させた。神々のフーガと、人間のカノン。その二つの理論を、さらに、高次元で融合させるという挑戦である。

「帰還する」

慧の、静かな、しかし鋼の意志を込めた声が、ブリッジに響いた。

「我々の、音楽と共に。……我々の、地球へ」

人類による、真のアンコールが開始された。

アルゴ号は、再び、虹色の時空流にその身を投じる。それはもはや、無秩序な混沌ではなかった。神々の完璧な設計図を、人間の不完全な魂で再解釈する、新しい航行理論。慧の指揮が、ヤヌスの激情が、そしてスペクターの理性が、一つの音楽を紡いでいく。

その航行は時に不安定な挙動を示し、時にシステムが臨界点に達しかけた。だがその度に彼らは、互いを信頼し、互いを補完し、新たな航行パターンを生成していったのである。

高次元の彼方で、コラールは、ただ、静かにその航行を観測していた。

その傲慢な庭師の心に、初めて、自らの庭にはない花の美しさが、確かに記録される。そしてサイレンスもまた、その予測不能な響きの前では、ただ、沈黙するしかほかなかった。

長く、しかし、一瞬のようでもあった旅の果て。アルゴ号は、見慣れた青い惑星の、その衛星軌道上に帰還した。

地球から観測された空には、新しい星が一つ、力強く輝いていた。

それは、神々の支配する宇宙で、自らの歌を見出した、人類という名の星であった。これにより、プロジェクト・カッサンドラはその主要な目的を達成し、一つの区切りを迎えた。しかしそれは新たな旅の始まりでもあったのである。



この物語はフィクションです


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【小説】78.7Hzの鼓動:プロジェクト・カッサンドラ 文人 画人【人の心の「穴」を埋める】 @yamadahideo

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