第三十章:墓標のアーカイブ
アルゴ号は、再び死の惑星の周回軌道上にあった。
通常エンジンによる、数時間にも及ぶ慎重なアプローチ。船内は、ゴースト・プロトコルが発令されたまま、生命維持装置以外の全てが沈黙している。クルーたちは息を殺し、自らの心臓の鼓動さえもが、あの無音の捕食者を呼び寄せるのではないかと、息を詰めていた。
メインスクリーンに映し出される、青く美しい、しかし完全に死んだ惑星。その姿は、もはや乗組員たちの目に、希望の象徴としては映らなかった。それは、人類の未来を暗示するかのような、巨大な髑髏だった。
「これより、降下作戦を開始する」
ブリッジに、慧の静かな声が響く。
「メンバーは、私と、ヤヌス少佐、スペクター、そしてオラクル情報士官の四名。我々は、あの塔の内部へ侵入し、データを回収する」
「キャプテン自らが!?」
副長が、驚愕の声を上げる。
「危険すぎます!」
「この目で確かめなければならないことがある」
慧は、静かに言った。
「それに、あの塔が、科学者である私にだけ、反応する可能性もある。これは、私が行かねばならない任務だ」
彼の決意は、固かった。
小型降下艇「カローン」は、アルゴ号の船体を離れ、音もなく、死の都市へと降下していく。
眼下に広がる、滅びた文明の骸。ヤヌスとスペクターは、前回とは比較にならないほどの緊張感で、周囲を警戒していた。オラクルは、自らのコンソールを叩きながら、絶えず周囲のエネルギー反応を探っている。だが、探査機が示すのは、完全な「無」だった。
「……静かすぎる」
ヤヌスが、ヘルメットの中で呟いた。
「嵐の前の静けさ、でなければいいがな」
降下艇は、塔から数キロ離れた、巨大なビルの残骸の影に、音もなく着陸した。
四人の降下部隊は、武装した探査車両に乗り込み、ゴーストタウンの中心、黒い塔へと向かう。ひび割れた道路、風化し、崩れかけた摩天楼。かつて、ここにも生命があり、歌があったのだ。その痕跡が、今はただ、物悲しく広がっているだけだった。
やがて、彼らの目の前に、黒曜石の塔が、その巨大な姿を現した。
前回訪れた時と、何も変わらない。ただ、そこに在るだけで、周囲の空間から生命力を吸い上げているかのような、圧倒的な存在感。
「……どうやって、入る?」
スペクターが、銃を構えながら尋ねる。
塔には、扉も、継ぎ目さえも見当たらない。完全な、一つのオブジェだった。
慧は、探査車両を降り、一人で塔へと歩み寄った。
「キャプテン!」
ヤヌスが、慌てて後を追う。
慧は、塔の数メートル手前で立ち止まると、おもろにヘルメットの通信機を外部スピーカーモードに切り替えた。
そして、彼は、静かに「歌い」始めた。
それは、音楽の授業で習うような、美しい歌ではない。
78.7ヘルツ。
アンデスでヤヌスが奏で、調律者との対話の扉を開いた、あの「音」。慧は、自らの声帯を震わせ、その純粋な周波数を、塔に向かって、そっと投げかけた。
すると、塔の表面が、微かに、青白い光で脈動した。
そして、目の前の壁が、まるで水面のように揺らぎ、音もなく内側へと開いていく。
それは、拒絶ではなく、明確な「招待」だった。
四人は、息を呑み、顔を見合わせた。
そして、覚悟を決め、光の通路へと、足を踏み入れた。
塔の内部は、彼らの想像を絶する空間だった。
そこには、床も、壁も、天井もなかった。無限に広がる、光の粒子が舞う、幻想的な空間。まるで、銀河の中心に迷い込んだかのようだった。
「……これは……」
オラクルが、呆然と呟く。
「……情報だ。この光の粒子一つ一つが、膨大な量の情報を内包している。ここは……図書館だ。この星の、全ての記憶が眠る、アーカイブ……」
慧が、ゆっくりと前方へ手を差し出す。
すると、彼の指先に、一つの光の粒子が、吸い寄せられるように触れた。
その瞬間、四人の精神に、直接、膨大な情報が流れ込んできた。
それは、あの滅びた文明の、「戦闘記録」だった。
彼らは、見た。
「無音の捕食者」――彼らが「サイレンス」と呼ぶ存在が、どのようにしてこの宇宙に現れ、どのようにして生命の「歌」を喰らってきたのかを。
サイレンスは、単一の個体ではない。それは、高次元に存在する、一種の「現象」であり、生命が放つ秩序だった情報(エントロピーの減少)を感知し、それを食らうことで、宇宙全体を無秩序(エントロピーの増大)へと回帰させようとする、宇宙の免疫システムのような存在だった。
そして、彼らは、この星の科学者たちが、最後の抵抗として、何をしようとしていたのかを知る。
彼らは、ハーモニック・ドライブの原型とも言える技術で、サイレンスから身を隠すための、特殊な「歌」を作り出そうとしていたのだ。
それは、生命の気配を完全に消し去り、宇宙の背景放射に溶け込むための、「沈黙の歌(サイレント・ソング)」。
「……これだ……」
慧は、確信した。
「これこそが、我々が生き残るための、唯一の鍵だ!」
オラクルは、携帯端末を操作し、必死にその膨大なデータをダウンロードしようとする。
だが、その時。
キィィィィン……!
塔の内部で、甲高い警告音が鳴り響いた。
光の粒子が、激しく明滅し、空間そのものが不安定に揺らぎ始める。
「どうした!」
ヤヌスが叫ぶ。
「……エネルギーが、尽きかけている……!」
オラクルが、悲鳴に近い声を上げた。
「この塔は、60年間、たった一人で、この情報を、宇宙の墓場で守り続けてきたんだ! もう、限界なんだ!」
光の図書館が、崩壊を始めていた。
そして、ヤヌスは、感じていた。
塔の外で、あの冒涜的な「気配」が、急速に、こちらへと近づいてくるのを。
「慧! 急げ!」
ヤヌスは、慧の肩を掴んだ。
「奴が、来るぞ!」
ダウンロードの進捗バーが、絶望的なほど、ゆっくりとしか進まない。
光の空間が、端から、闇に呑まれていく。
彼らは、崩壊する墓標の中で、宇宙で最も恐ろしい墓守の、足音を聞いていた。
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