第六章:狼の召集
「……別の指揮者が、そこにいる」
藍のその言葉は、温室の湿った空気に重く響き、絶対的な沈黙を連れてきた。ディスプレイの向こうで、慧が息を呑む気配がする。景山の額を伝う汗が、彼の顎先からぽたりと床に落ちた。
「指揮者だと? 神代博士、それは一体どういう意味です」
景山が、かろうじて絞り出した声は震えていた。
「言葉通りの意味よ。私たちとは全く違うルールで、この星を〝調律〟しようとしている存在がいる。カッサンドラが聞いた歌は、生命の多様性も、混沌とした感情も許さない……。完全な秩序と静寂だけを求める、冷たい鋼のような歌」
藍は、まだホログラムの山頂から目を離さずに言う。彼女の脳裏には、先ほど流れ込んできた幾何学模様と数列が、まるで焼き付いたように明滅していた。それは、生命の温かみとは無縁の、あまりにも完璧な論理の結晶だった。
景山は、インカムのスイッチを入れ、震える指でどこかへ報告を始めた。彼の表情からは、もはやポーカーフェイスは消え失せ、未知への畏怖と混乱が浮かんでいた。
数時間後。東京、市ヶ谷。防衛省の地下深くにある、地図もコンセントもない、完全に隔離された一室。壁も、テーブルも、すべてが電磁波を遮断する特殊な素材で作られている。部屋にいるのは、内閣情報調査室のトップと、数人の制服組、そして景山だけだった。
「――以上が、神代博士の見解です」
景山の報告が終わると、重い沈黙が部屋を支配した。誰もが、その報告がSF映画のあらすじにしか聞こえないことに戸惑っていた。
「……にわかかには信じがたい話だな」
最初に沈黙を破ったのは、統合幕僚長の田所だった。
「しかし、水嶋飛行士の観測データと、スーパーコンピュータ『カッサンドラ』の解析結果が一致している以上、無視はできん。最悪の事態を想定して、動くべきだ」
「インカウアシ山へ、人を送るということですか」
「そうだ。だが、通常の部隊ではない」
田所は、手元の端末を操作し、一人の男の経歴書をテーブルの中央に投影した。
コードネーム:ヤヌス。
元陸上自衛隊特殊作戦群。国籍も、本名も、年齢も、すべてがトップシークレット。数々の非公式作戦を成功させ、敵からは「決して顔を見せない双頭の狼」として恐れられている男。
「彼を、呼べ」
田所の低い声が、部屋に響いた。
その頃、ヤヌスは都内某所の地下射撃場にいた。Tシャツ一枚のたくましい背中が、銃声の反動でしなやかに躍動する。放たれた弾丸は、50メートル先の標的の眉間に、寸分の狂いもなく吸い込まれていった。硝煙の匂いが、彼の嗅覚を鋭く刺激する。
射撃を終え、彼が静かに銃口から立ち上る硝煙を吹き消した、その時だった。
背後の暗闇から、一人の男が静かに現れた。
「ヤヌス。……召集だ」
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