第4話 虹の団地
第4話 虹の団地
目を開けた瞬間、世界の色が変わっていた。
周囲はセピア色の光を帯びている。
そんな光にさらされるのは、すべて同じ形のコンクリート造り、壁は虹色に塗られた団地だった。
「……ここは?」
風は吹かず、空気は重い。
コンクリートの匂いだけが生々しく漂っている。
隣で小さな声が答えた。
《データ構造、確認完了。記憶の残留領域のひとつです》
REMの声は、静かな部屋に落ちる雨音のように穏やかだった。
残留領域。つまり、削除しきれなかった記憶の残骸だ。
「……人は?」
《観測されません。でも、音が残っています》
耳を澄ますと、確かに“誰か”の音がした。
鍋が煮える音、椅子を引く音、子供の笑い声。
テレビのアナウンサーが天気予報を告げる声も、遠くから微かに響いてくる。
だが、どの窓も閉ざされていた。
カーテンの向こうに、影はひとつもない。
団地の廊下を進む。
コンクリートの壁はくすんだ虹色で、ところどころに塗り直した跡がある。
足音が響くたび、上の階や隣の棟からもわずかな音が返ってくる。
生きている建物のように、音が層を成して絡まり合っていた。
ふと、壁の一部に目を留めた。
うっすらと黒い影が染みのように浮かんでいる。
小さな子供の手の跡──いや、動いている。
手が壁の中で、ゆっくりと食卓の器を掴むように形を変えた。
その瞬間、どこからか湯気の立つ味噌汁の匂いがした。
「……幻覚?」
《記憶の視覚化です。音声と匂い情報が同時に展開されています》
「誰の、記憶?」
《不明です。けれど、かなり古い。あなたの記憶ではありませんか?》
そう言われて、少し不安になった。
でも足は止まらない。
この団地の奥に、何かがある気がした。
二階、三階と昇るたびに、音の種類が変わっていく。
洗濯機、電話のベル、怒鳴り声。
笑いと泣き声が混ざり、廊下を満たしていく。
どの扉も開かず、どの窓も外を映さない。
見えない住人たちは、まるで録音を繰り返しているみたいだった。
《……ここ、少し異常です》
REMが小さく首を傾げる。
《データが循環しています。記憶が終わらず、ずっと再生されている》
団地そのものが、再生機のようだと思った。
だとすれば──この音のどれかは、誰かの“最後の瞬間”かもしれない。
廊下の突き当たり。
錆びついたドアが、ひとつだけ半分開いていた。
中を覗くと、誰もいない六畳ほどの部屋。
畳の上に、古いカレンダーが落ちている。
『七月二十六日 海へ行った』と子供の字で書かれていた。
鉛筆の線が、まだ消えていない。
そのとき──
団地の中にある開けた共有広場から、金属の軋む音が響いた。
何かが、動いている。
「……REM」
《感知しました。地下方向にアクセス経路があります》
階段の手すりを掴みながら降りていく。
コンクリートの隙間から水が滴り、湿った風が頬を撫でた。
階下へ降りるほど、生活音は遠ざかり、代わりに低い唸りが混じってくる。
その音は、耳の奥で徐々に形を変えていった。
──ゴォォン……ガタン。
「……電車の音?」
《そのようです。下層に軌道が存在します》
最後の踊り場を降りると、錆びた標識が見えた。
【避難通路】【出口】【←】
矢印に従い歩くとぽっかりと口を開けたコンクリート作りの入口が見えた。
どうやら地下鉄のようだ。
経路通りに進むと奥には、薄暗いホームが広がっていた。
蛍光灯が半分だけ点滅している。
線路の上に、無人の電車が停まっていた。
ドアが開いて、冷たい風が流れ出る。
「……行ってみようか」
《この路線を使えば、次に進めます》
一瞬だけ振り返る。
団地の廊下は遠く霞み、そこに誰かの笑い声が残っていた。
それは、どこかで聞いたことのある声。
でも、思い出そうとした瞬間にはもう消えていた。
静かに電車へ足を踏み入れる。
ドアが閉まる音と同時に、世界がまたひとつ、遠のいた。
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