第3話 白い風の丘
第3話 白い風の丘
──パチッ。
古いレコードの針が跳ねる。
どこかで流れている旋律は、少しずつ歪みながもなお優しかった。
音が止むたび、世界が息をひそめる。
目を開けると、そこは草原だった。
白い草花が一面に咲き、風にそよいでいる。
空はパステルピンクに染まり、無数の白い風船がゆっくりと昇っていた。
風船たちは静かに空へと溶け、やがて空の一部になっていく。
足元には、大小さまざまな白いクマのぬいぐるみが落ちていた。
誰かに抱かれていたはずのそれらは、今はただ草原に抱かれている。
「……ここは?」
自分の声が、驚くほど遠くに聞こえる。
音も影も、輪郭を持たない。
まるで、夢の中の夢のようだった。
そのとき、かすかな足音がした。
振り向くと、茶色いクマのぬいぐるみが立っていた。
黒く丸い瞳の奥が、柔らかく光っている。
《こんにちは》
少し掠れた声。
けれど、不思議と安心する響きだった。
《僕はRapid Eye Movement Sleep――通称REM。サポートAIです。色々なことをお手伝いします》
「……迷子なの」
そう言うと、クマは小さくうなずいた。
《迷子ですね。大丈夫。帰る道を一緒に探しましょう》
その声は、風よりもやさしかった。
REMは、遠くを見やりながら言った。
《この先の丘に、使われていない家があります。
昔、誰かが暮らしていたみたいです。
そこまで行ってみましょう》
視線の先、丘の上に淡い影が見えた。
ピンクの空の中で、赤く揺れる何かが、こちらを見ている。
風が一度だけ、草原を撫でていった。
──パチッ。
レコードの音が、再び跳ねた。
*
丘を登りきると、そこには古びた家があった。
外壁はひび割れ、窓には白いカーテンが垂れ下がっている。
どの素材も現実の記録データにない旧式構造──
電脳空間の中では、もう再現されないはずの“閉鎖型住居”だった。
「……こんな造り、今はもう使われていないのに」
自分の口からこぼれた言葉が、やけに懐かしく響いた。
足元で、REMが小さく頷く。
《データベースには登録されていません。》
壁をなぞる。
ざらりとした手触りがあった。
風のない空気。閉ざされた匂い。
どこかで嗅いだことがある。
けれど、いつの、どこの記憶かは思い出せない。
そのとき──
キイッと金属が回る音がした。
玄関の鍵がひとりでに回ったのだ。
「……誰か、いるの?」
返事はない。
代わりに、風のような声が聞こえた。
『おかえり』
そこに立っていたのは、ウサギの着ぐるみだった。少し薄汚れたピンクの毛、黒くて丸い目。
手には赤い風船の紐をいくつも握っている。
風船はふわりと浮かび、天井すれすれを漂っていた。
ウサギはゆっくりと首を傾げ、笑ったように見えた。
『海に行ったの覚えてる?』
「……え?」
ウサギの声は、遠い記憶を擦るようだった。
けれど、思い出そうとした瞬間、胸の奥がざらついた。
風船のひとつが、ふと頬をかすめる。
その瞬間、乾いた音が弾けた。
──パァンッ。
風船が割れ、赤い破片がふわりと床に散った。
その音を合図に、空気が一変した。
世界が、ひとつ深く沈む。
*
目を開けると、周囲はセピア色の光を帯びていた。
虹色の壁、同じ形の建物がいくつも並ぶ。
団地のような光景──けれどどこか、静かに歪んでいる。
REMが傍で言った。
《……転移しました》
彼の声は変わらず穏やかだった。
けれど、風船の破裂音が、まだ耳の奥に残っている。
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