第2話 静脈の回廊

第2話 静脈の回廊


夜の病棟は、眠りのための色に沈んでいた。

天井の間接照明が淡いピンクを灯し、空気までもやわらかい。

それは、AIが定めた「最適な安心感」の明度と温度。

呼吸の音さえ、静かに調整されている。


やがて、低く澄んだ電子音が鳴った。

睡眠信号の送信を告げる音。

脳内チップを通して微弱な波が送り込まれ、身体の芯がゆっくりとほどけていく。

思考は薄い膜に包まれ、夢と現実の境目が曖昧になっていく。


──それでも、その夜は眠れなかった。


オルゴールの旋律が遠くで止む。

それが“眠りの開始”を意味するのに、

胸のざわめきは、どうしても消えなかった。

ベッド脇のモニターがゆっくりと起動する。

薬の影響で少しモニターの文字が滲んで見えた。


【ID-3315さん】

【安静プログラムを起動します】

【続けて投与します】


小さく表示された選択肢。

〈はい〉〈いいえ〉


ほんの気まぐれだった。

眠るのが怖かっただけかもしれない。

指先が、いつもは選ばない「いいえ」に触れる。

一瞬、光が揺らぎ、モニターの文字が消えた。

室内の照明がほんのりと色を変え、

薄いピンクの脈動が静まっていく。


耳の奥で、AIの声が微かに囁いた。


【ID-3315さんの思考異常を検知】

【続けての安静プログラムを推奨します】

【睡眠信号を強化します】

【睡眠行動を行ってください】


けれど、身体は勝手に動き出していた。

床のラインライトが白く足元を照らし、

機械の息のような低い音が続いている。

夜の病棟は、どこまでも静かだった。

薄いカーテン、並ぶドア、誰もいない受付。

昼間に見た、あの長い廊下が現れる。


歩くほどに照明が遠のき、

光の粒がゆらゆらと宙に浮いた。


そのとき、廊下の突きあたりが音もなく崩れ始めた。

壁がボロボロと粒子になり、

風に溶けるように消えていく。


―――そこに、あの時の扉があった。


錆びついた蝶番、パステル色の剥げた塗装。

まるで、長い間“待っていた”かのように。

手を伸ばし指先が触れた瞬間、けたたましい危険信号音に混じるザザッというノイズ混じりのAIの声が響いた。


【安静プログラムを再起動します】

【安全が確認出来ません】

【ID-3315さん、病室への速やかな帰還を推奨します】


だが、その声はもう遠かった。


扉は、音もなく開いてしまったのだ。

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