電脳の庭で眠る
鉢
第1章 夢の庭の微睡
第1話 接続静域〈ネクサ〉
第1話 接続静域〈ネクサ〉
朝の光は、規定値の明度で部屋を満たしていた。
カーテンが自動で開き、淡い白がパステルピンクの壁をなぞっていく。
天井のスピーカーからはオルゴールの旋律が流れる。
その音は毎朝八時に始まり、二分三十秒で終わる。
演奏のわずかな乱れさえ、アルゴリズムにより修正されている。
規則正しく静かに動くこの場所は、電脳空間にある接続静域〈ネクサ〉精神安定を目的とする病院だ。
ベッドの上で身体を起こすと、シーツが滑らかに波を打つ。
皮膚の体温に応じて、布の温度が自動調整されていた。
壁面のモニターが点灯し、淡い青の文字が浮かぶ。
【おはようございます。ID-3315さん】
【睡眠スコアは 97/100】
【本日の精神状態は 安定】
【処方:散歩15分/外気浴エリアB】
「はい」と答えると、モニターが微かに脈動して光る。
それが「了解」の合図だった。
*
外気浴エリアは、リゾート施設を思わせる人工庭園だ。
動物を模した彫像、草木は全てホログラムだが葉の一枚ごとに温湿センサーが入っている。
風は無いが、風音のデータが空調に混ぜられて流れてくる。
庭園のベッドに横たわる患者たちは、皆、同じ白い病衣をまとっていた。
眠る者、笑む者、動かぬ者。
どの顔も穏やかで、苦痛の痕跡はなかった。
看護AI〈ミナ〉が近づく。
薄いホログラムの輪郭を持つ半透明の人影で、
声だけは、なぜか人間に似せすぎている。
「おはようございます。ID‐3315さん。今日の気分はどうでしょう?」
「……変わらずです」
「はい、了解しました。感情値の乱れも、検知されていませんね。ゆっくりお過ごしください」
朝、すでに精神安定の確認をされてデータに残っているはずなのに質問される。
それは、まるで“心”を測るような言葉だった。
足元のタイルがわずかに光り、呼吸のリズムを合わせてくる。
すべてが穏やかで、痛みがない。
けれど、何かが欠けている。
それが何なのか、誰も思い出せない。
*
昼食の時間。
自動配膳機がベッド脇まで滑り、
栄養最適化スープとニュートラルブレッドが置かれる。
香りはある。だが味は、どこまでも均一だった。
昼食後はプログラムが始まる。
【推奨行動:散歩/読書/瞑想】
【会話は必要ありません、自己領域調整を行ってください】
*
散歩を選んだ、午後の廊下。
私は静かな機械音の中を歩いていた。
壁面は定期的に光を変え、方向誘導を行っている。
すべてが制御され、どの角にも「偶然」は存在しない。
──はずだった。
突き当たりの壁に、ノイズが走る。
薄い黄色のタイルが一瞬だけ揺れ、波のように歪む。
そこには、本来存在しない“光の綻び”が現れていた。
規定色ではない。
AIシステムが使うどのスペクトラムにも登録されていない“白”だった。
近づくと、オルゴールの音が不自然に途切れる。
その一瞬の無音に、心臓が跳ねた。
「……ミナ?」
看護AIを呼んでも応答はない。
光はまるで呼吸するように脈打っている。
そこだけが、病院の秩序から外れていた。
手を伸ばしかけた瞬間、警告音が小さく鳴った。
【進入禁止領域】
【システム干渉を検知】
【該当記録を消去しますか?】
私は息を呑み、首を横に振った。
だが次の瞬間、光は消えた。
波打っていた壁は、何事もなかったように平らに戻っている。
ただ、そこに残った違和感だけが確かだった。
──“見えてはいけないもの”を見た。
*
夜。
オルゴールの音が再び流れ始める。
その旋律は完璧で、乱れひとつない。
けれど、私の耳には確かに聞こえた。
その奥で、何かが囁いている気がする。
私は毛布を握りしめた。
何故だか昼間見たノイズを思い出したのだ。
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