最終部 第1章 食卓の向こう ― 味なき子どもたち ―

 春の風が、草原を渡っていた。


 風は穏やかで、どこか懐かしい匂いがした。

 麦の芽吹く音。花粉の舞う音。

 そして、どこかで誰かがパンを焼く匂い。


 ――世界は、確かに生き返っていた。


 だが同時に、その生の中に“空白”があった。

 子どもたちは腹を満たしているのに、笑っていなかった。


 俺は丘の上の小屋で鍋を煮ていた。

 旅の途中、拾った野草と少しの塩。

 ルーファスは翼を休め、エルナは手紙を書いている。


「……ユウタ。外に来て。」


 エルナの声に呼ばれて外に出ると、数人の子どもたちが立っていた。

 薄汚れた服、痩せた頬。だが、目だけは強く光っていた。


「ねえ、おじさん。匂いがする。なに作ってるの?」


「スープだ。飲むか?」


 子どもたちは顔を見合わせた。

 小さな女の子が一歩前に出て、首をかしげる。

「……スープって、なに?」


 その言葉に、俺は息を呑んだ。


「食べたこと、ないのか?」


 少女は首を横に振る。

「学校でね、“味のない栄養水”しか飲んじゃダメって言われたの。

 匂いのするものは、体に悪いんだって。」


 ルーファスが低く唸る。

『……またか。

 “安全”の名のもとに、感情を奪う教育。

 この世界、再生しても愚かさは消えん。』


 エルナが小さく息をついた。

「でも、この子たち、好奇心がある。

 匂いを怖がってない。」


「……なら、教えよう。」

 俺は鍋の蓋を開けた。


 湯気が立ちのぼる。

 草の香り、少し焦げた根菜の香り、そして塩の匂い。

 子どもたちは一斉に目を見開いた。


「わ……あったかい。」


「これが“スープ”。

 飲んでみな。」


 最初のひと口を飲んだのは、小さな男の子だった。

 唇をつけた瞬間、目が大きく開かれる。


「……これ、動く。」


「動く?」


「お腹の中で、あったかいのが広がって……胸の奥が、変な感じ。」


 隣の子が笑う。

「ねえ、それ“おいしい”ってことだよ!」


 その瞬間、丘に風が吹いた。

 子どもたちの笑い声が、空に溶けていった。


 夜。

 焚き火のそばで、子どもたちはスープの作り方を真似していた。

 木の棒で鍋をかき混ぜ、味のない草を入れ、必死に真似る。


 俺はその様子を見ながら、少し笑った。


「教えるって、こういうことなんだな。」


 エルナがうなずく。

「ねえ、ユウタ。

 あの子たち、あなたがいなくなったらどうするの?」


「俺がいなくても、火は残るさ。」


「でも、あなたはもう“神様”じゃないんだよ。」


「だからこそ、伝えられる。

 味は奇跡じゃない。日常の中にある。

 それを誰かに教える。それが人間の仕事だ。」


 その夜、村の老人が訪ねてきた。

 白い杖をつきながら、静かに言う。


「あなたが“銀の食卓”の旅人だと聞いた。」


「昔の話さ。」


「いや、あんたが来てから、子どもたちが笑うようになった。

 どうか、この村に“味”を残してくれ。」


 老人の背後には、灯りのともった家々が見えた。

 どの家も、湯気を上げていた。

 ――人々が再び“食卓”を囲んでいる。


 俺はゆっくりとうなずいた。

「なら、明日、学校に行こう。」


 翌朝。

 校庭には、十数人の子どもたちと、年老いた教師がいた。

 机の上には透明な栄養液のボトル。

 味のない朝食が並んでいる。


「旅人さん。ここで“食の教育”を?」

 教師はやや不安げに言った。


「教えるのは簡単なことだ。――“味わう”ってなんだろう、って。」


 俺は鍋を持ち込み、ゆっくりと火を灯した。

 教師も生徒も、息をのんで見つめる。

 風が揺れ、匂いが広がる。

 ほんのわずかな焦げの香り。


「この匂い、なに?」


「命の匂いだよ。」


 やがて、ひとりの少年が手を挙げた。

「先生……泣きそうです。」


「なんで?」


「わかんない。

 でも、胸の奥が熱くて……このスープ、飲みたいです。」


 教師は少し迷い、やがて笑った。

「……飲みなさい。」


 少年がスープを口にした。

 その目から、一筋の涙がこぼれた。


「……あまい。」


 他の子どもたちも続き、やがて教室中が湯気で満ちた。

 それは、授業でも祈りでもない――

 **世界でいちばん静かな“食卓”**だった。


 昼過ぎ。

 丘の上から街を見下ろすと、家々の煙突から煙が上がっていた。

 誰も命じなくても、人々は火を灯し、何かを煮ていた。

 ルーファスが空を見上げる。

『……これが本当の“再生”だな。』


「そうだな。」

 俺は微笑む。

「奇跡はもういらない。ただ、食べること――それだけでいい。」


 エルナが頷いた。

「食べるって、こんなに優しいことなんだね。」


「ああ。

 戦争も、神話も、全部終わっていい。

 この匂いが続くなら、それでいい。」


 夜。

 焚き火の前で、子どもたちが笑っていた。

 誰かが小さな歌を口ずさむ。

 スープの湯気が星空に溶ける。


 俺は静かに目を閉じた。

 この世界の鼓動が、ゆっくりと胸の奥に響く。


 ――飢えは、まだ終わっていない。

 だが、それは悪いことじゃない。

 飢えるということは、生きている証だから。


 翌朝、旅立ちの支度を整える。

 リゼのパン、リオンの布袋、銀のスプーン。

 全てが、この旅の記憶だった。


「行くの?」

 エルナが問いかける。


「ああ。

 この世界のどこかで、まだ“味を知らない誰か”がいる。」


 ルーファスが翼を広げる。

『その時が来たら、また鍋を火にかけるんだな。』


「もちろん。」


 風が吹いた。

 春の光が丘を染める。


 俺は最後の鍋の蓋を開け、

 香りをひと口だけ吸い込み、静かに呟いた。


「――いただきます。」


最終部・第2章「空の終わり、食卓のはじまり」へ続く


この章でユウタは“旅立ち”から“継承”へ。

物語は円環を描き、最初のスープへと還る。


テーマ:食べるとは、生きた記憶を受け継ぐこと。

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