第二部 第1章 無味の都アセリア

 世界は、静かに変わっていた。


 あの日――神々の晩餐で“饗宴の神”の称号を得てから、半年。

 俺は再び地上を歩いていた。

 だが、風の匂いが違っていた。

 世界のどこかが、確かに“味を失っている”。


 その理由を探るため、俺たちは東の海を渡り、新大陸アセリアへとやって来た。


「……ここが“無味の都”か。」


 目の前に広がるのは、灰色の都市だった。

 高い建物が立ち並び、整然とした石畳が続く。

 だが、そこには香りがない。

 屋台も、煙も、パンを焼く匂いもなかった。


 エルナが眉をひそめる。

「変だね……人はいるのに、みんな無表情。」


『匂いが薄い。空気の中から“感情”が抜けている。』

 ルーファスが低く唸る。

『これは自然現象ではない。……何者かが、味覚そのものを封じている。』


 俺は通りを歩く人々を見た。

 彼らは黙々と同じ道を行き来し、顔には一切の喜怒哀楽がない。

 市場では整然と並ぶ合成食糧のパック。

 誰もそれを“味わう”ことなく、ただ口に運ぶだけだった。


「……この国、食べてるのに、生きてない。」


 宿を見つけ、俺たちは情報を集めることにした。

 街の酒場――と言っても、酒の匂いのしない場所だ。

 客たちは無言で透明な液体を飲み、視線を交わすこともない。


 俺がカウンターに座ると、無機質な声が返ってきた。

「ご注文を。」


「……料理を。できれば、この国の名物を。」


 店主は首を傾げ、金属の音を立てた。

「名物、とは?」


「人が好きで食べるもの。心が喜ぶもの。」


 その言葉に、周囲の客たちが一斉にこちらを見た。

 まるで、“禁句”を口にしたかのように。


 店主が冷たい声で言う。

「感情を刺激する食事は禁止されています。“味覚罪”に該当します。」


「……味覚罪?」


「百年前、神々の干渉で世界が混乱した。

 ゆえに我々は“無味”を信条とし、均衡を保つ。

 味は争いを生む。――だから、廃したのです。」


 夜。宿の窓から街を見下ろすと、同じ光が等間隔に灯っていた。

 均整の取れた都市。

 それは美しいはずなのに、胸の奥が冷たかった。


「……皮肉だな。俺が神になったせいで、世界が味を失ったのかもしれない。」


『ユウタ。』

 ルーファスの声は静かだ。

『お前の料理は“感情を呼ぶ”。それを恐れた誰かが、味を封じたのだろう。』


 エルナが膝を抱えて言った。

「みんな、泣くことも笑うこともなく生きてる。

 ……そんな世界、絶対に間違ってるよ。」


 俺は頷いた。

「取り戻すさ。“味”ってやつを。」


 翌朝。

 市場の片隅で、小さな子どもが座り込んでいた。

 手には乾燥パンの欠片。

 だが、それを食べずに、ただ見つめていた。


「どうした?」


 子どもは俺を見上げ、小さな声で言った。

「……味が、わからないんです。」


 その瞬間、胸の奥が締めつけられた。

 食べても、何も感じない世界。

 その痛みは、飢えよりも深い。


 俺は膝をつき、子どもの手を包んだ。

「大丈夫。思い出させてやる。

 食べるってことは、“生きてる”ってことだ。」


 その夜、俺は宿の裏庭で小さな火を灯した。

 風除けの板を立て、鍋を置く。

 ルーファスが眉をひそめる。

『見つかれば、処罰されるぞ。』


「構わない。

 誰かが一口でも“味”を思い出せば、それでいい。」


 エルナが手伝いに加わり、乾いた野菜を刻む。

 塩は最小限。火も弱く。

 味を取り戻すには、まず“記憶”を呼ばなきゃならない。


 ゆっくり煮立つ音。

 湯気の向こうで、香りがわずかに広がる。

 その瞬間――風が止まった。


 振り向くと、十数人の人影が立っていた。

 衛兵か、と思った。

 だが、違った。


 彼らはただ、香りを嗅いでいた。

 目を見開き、涙をこぼしていた。


「……この匂い、懐かしい。」

「昔、お母さんが作ってくれたスープに似てる……」


 静かな声が、次々と漏れる。


 だが、すぐに鋭い金属音が響いた。

 通りの向こうから、黒い鎧をまとった兵士たちが現れた。

 兜の額には“無味省”の紋章。


「味覚刺激物を使用した違反行為を確認。拘束する。」


 エルナが立ち上がる。

「やめて! これはただの料理よ!」


「料理は禁止だ。」

 兵士が無機質に答える。

 その瞬間、ルーファスが前へ出た。


『ユウタ。構うな、走れ。』


「でも――」


『今は生きろ。神は死ねばただの人間だ。』


 俺は歯を食いしばり、エルナの手を引いた。

 鍋を抱え、裏通りへ駆ける。

 背後で金属の音と叫びが交錯する。


 廃れた地下道に逃げ込む。

 息を整えながら、鍋の蓋を開けた。

 まだ温かいスープの香りが残っていた。

 その香りだけが、この街で唯一“生きている匂い”だった。


「……奪われたんじゃない。忘れただけだ。

 だったら、思い出させる。」


 俺は炎の残り火を見つめた。

 瞳の奥に、わずかな怒りが燃えていた。


「この街に、“味”を取り戻す。」


 その夜、アセリアの空に一筋の煙が上がった。

 誰かが、何かを“煮る”匂いがしたと、人々が囁いた。

 それが、長い“無味の時代”に初めて香った、“反逆の匂い”だった。


第二部・第2章「味覚罪 ― 香りの地下街 ―」へ続く


地下に隠れた“違法料理人たち”と出会うユウタ。

だがその中に、神を憎む元信徒の少女がいた――。

「お前が“神の料理”を作ったから、人が味を失ったんだよ。」

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