第8話 白の雪が夏に溶ける.4
「おい、なんだその言い方は」反射的に僕はそう口にして、雪姫のほうを睨んでいた。「神田さんに失礼だぞ」
そうだ、失礼にも程がある。
自分を貫いて生きている人間を侮辱する言葉ほど、許されないものはない。
雪姫も、僕が本気で怒っていることが分からないような人間ではないはずだが、彼女はそもそもこちらを見向きもせず、まるで水とお話しているみたいに俯いたまま言葉を紡いだ。
「じゃあ、断らないの」
ずれた論点に僕はますます苛立ちを募らせる。
「そういう問題じゃない。失礼だろうと僕は言っているんだ」
「どうせ断るんでしょ」
なぜか、向こうも苛ついているようだった。その証拠に、雪姫の端正な面持ちは痛ましく歪んでいる。
だが、そのときの僕にはそれを気にする余裕もなく、ただ己が内側にある釈然としない気持ちをぶつけることで頭がいっぱいだった。
「話を聞いてるのか、雪姫」
彼女は無言で唇を噛み締めている。
だんまりは、あまりに彼女に相応しくない情けない行為だと思った。僕はそれでさらに苛立ちを加速させ、大きな声を出してしまう。
「話を聞いているのかと言ってるんだ!こっちを向け、雪姫!」
じゃぱっ、と川のどこかで魚がライズしたのとほぼ同時に、雪姫がとうとう顔を上げてこちらを向いた。否――睨んだ、というのがやはり適切だ。
「名前で呼ばないでって言ったでしょ!嫌いなのよ、その名前も、あの子も、あんたも!」
悲鳴みたいにして発せられた彼女の声は、僕の心の内側の一番柔らかい部分を貫いた後、橋の欄干の辺りに溜まっている空気を震わせた。
落雷に打たれたような衝撃に、僕は唖然とするばかりだった。もしかすると、本当に電流が走ったかもしれない。
『嫌い』という言葉がとめどなく脳内でリフレインする。
彼女から初めて受けた明確な拒絶の言葉。それは、僕の心でたぎっていた炎を鎮火させることはなく、むしろ逆に燃え上がらせた。
「お前が僕のことをどう思っていようと、どうでもいいがな…」
聞きたくない、とでも言いたげに顔を背ける雪姫の腕を無理やり取れば、彼女は、「いたっ」と悲鳴を漏らす。
「あの子の生き方を侮辱することは許さない」
至近距離で互いの視線がぶつかる。
どうしてだろう、こんなに近いのにとても遠くに感じる。
バッ、と雪姫が僕の手を払う。
読み取ることのできない感情が、雪姫の瞳に中にはあった。
怒りとも、悲しみとも違う。
まるで、彼女が彼女自身を制御できていない苛立ちを抱えていて、それを投げ捨てようとしているみたいだった。
僕には、雪姫の考えているところがまるで分からなかった。
どうしてそんなことを言うのかも、彼女が何に苛ついているのかも。
「馬鹿みたい…っ!」やがて雪姫はそう吐き捨てると素早く立ち上がり、靴を履き、一切こちらを見ることなく歩き始めた。
「雪姫!」
僕が彼女の名前を呼ぶも、その背中は決して反転することはなく、ただ最後に一言、「馬鹿みたい」と繰り返された響きだけが僕に届くのだった。
雪姫と喧嘩して、数週間。僕たちの関係は修復されることなく、少しずつひび割れていく土壁のように悪化していった。
僕はというと、しばらくの間はあの橋の下に通う日々を繰り返していた。
いつか、唇を尖らせた雪姫が水辺に足をつけて僕を睨む日が来るのではないかと夢想したが、現実はそれほど甘くはなく、やがて孤独の重さに耐えかねて僕の足はそこに通うことをやめた。
元々クラスでは他人同然だったから、実際の学校生活に変わりはなかった。ただ、放課後の過ごし方が変わっただけだ。
それだけのことなのに…世界が一変したみたいだった。
明日も昇るはずだった月と太陽が、忽然として姿を消したみたいな…そんな喪失感が僕の胸にはあった。
だが、人間というのは恐ろしいもので、その喪失にも慣れるのだ。ただし、痛みだけは随分と時間が経っても和らがなかった。
そうして雪姫が隣にいない日々が『普通』に変わっていく過程で、神田樹と過ごす時間は増えてしまっていた。
『しまっていた』と表現したのは、僕が樹との恋愛関係を受け入れなかったくせに、彼女の優しさには甘えてしまっている自覚があったからだ。
神田樹は僕の解答を聞いて、随分と物悲しい顔をした。
『なんとなく、分かってたけどね』と微笑む彼女に僕は、『君が女で、僕も女だからじゃない。それだけは分かってくれ』と薬にもならない言葉を口にしてしまった。
そんなことを言って、慰めにでもなると思ったのか。それとも、自分自身が救われると思ったのか…どっちにせよ、酷く独りよがりで始末の悪い言動だ。
樹は、僕とこれからも友人でいたいと語った。
僕はそれを聞いて、改めて彼女の強さを思い知り、その気高さに報いるために『友人役』ではない本当の『友人関係』を結ぶことを決意した。
そこには多少の勇気は必要であったことは間違いない。少なくとも、僕にとっては。
樹にはたくさんの友人がいた。その波の中に埋もれていると、自分が自分じゃなくなっていくような感覚がして気持ち悪かった。しかしながら、これが『普通の友人関係』だと自分に言い聞かせることで誤魔化し続けた。
僕のことをできるだけ樹に理解してもらえるよう、包み隠さずに話せることは話した。雪姫にすら言えなかった、『脱ダークヒーロー』のことも赤裸々に語った。
すると彼女は、『ふふ、面白いね、それ』と笑った。
僕の大事な選択を笑われたのに、胸は痛まなかった。きっと、樹の微笑みに塵一つ分ほどの嫌味もなかったことが原因だろう。
樹も、色んなことを語ってくれた。
レズビアンだとカミングアウトしたのは、小学生の頃からで、それで酷い目に遭ったこともあること。中学生の頃は実際に女性と付き合っていたこと。そして、その人とは体裁の面で上手くいかなかったこと…。
僕は樹の話を聞いて、あまりに下らないことだと思った。
『個人の主義や自由、それら一切を邪魔するものはこの世から消えてなくなるべきだ』
目くじらを立てて僕がそんなふうに言うと、樹は誰もいない廊下でひとしきり笑ってみせた。それから、小さな笑顔と声で、『ありがとう、ダークヒーロー』と僕をからかった。
皮肉を受けて、僕も笑った。そのときばかりは雪姫のことを忘れてしまえていた。そんな自分が僕は後で恐ろしくなった。
時折、教室で雪姫と目が合ってしまうことがある。
その度に、彼女は酷く冷淡に僕を振り切る。
明確な拒絶の意志に、僕はもう二度と戻らないものがあることを知った。
やがて夏が終わり、秋が暮れ、年末が近づいていた。
雪姫と紡いだ記憶が冬の寒さで氷つき、新しい樹と――その他のクラスメイトとの関係が出来上がりつつあった頃のことだ。
樹の部活動が始まるまでの時間、普段のように彼女と話していると、樹の友だちで…僕にとっては十把一絡げに過ぎないクラスメイトたちが僕らに声をかけてきた。
初めは、他愛もない話だった。流行りのなんとかだ、こうとかだ…宿題がああだ、テストがこうだ…とか。
僕は一生懸命に話を合わせて会話に混じっていた。入学したての僕が見たら腰を抜かすだろう光景である。
不意に一人の生徒が、僕が自分のことを『僕』と呼ぶ理由を尋ねてきた。
僕は返答に窮した。『これが一番しっくりくるんだ』と答えればいいだけだったのに、それが酷く恐ろしくなった。
答えあぐねる僕を庇うように、樹が言った。
『別にいいんじゃない?晶って、中性的だし、似合うじゃん』
それを聞いた刹那、ドクン、と心臓が跳ね、喜びと、それから遅れて鈍い痛みが走る。
こんなふうに僕が『僕』と呼ぶことを認めてくれる人に巡り合うのは初めてだった。雪姫だって否定はしなかったが、肯定もしなかった。そして同時に、こんな善良で公平な人間のことを好きになれない自分のことを欠陥品のように思ってしまった。
それでも樹の友人たちは、納得がいかない様子でああだこうだと反対意見を述べた。
彼女らが吐き出す言葉など、どうでもよかった。僕にとってそれは、いうなれば、ただの二酸化炭素の塊にすぎなかったのである。
ただ、その話が長くなればなるほど、樹の顔が苦しそうに、辛そうに歪んでいくのが僕は耐え難かった。
『それ』には、勇気が必要だった。
『ダークヒーロー』を卒業すると決めたときよりも、大きな勇気だ。
心のなかで、意志の剣を構える。
さざなみ立つ心の表面で、僕は静かに『僕』へと謝罪した。
――貫けなくて、ごめんね、と。
静かに、僕は言った。
「『私』って、僕みたいなやつにも似合うかな?」
一瞬の静寂が辺りを包んだ後、有象無象共の笑い声と、『似合う、似合う』という無意味な言葉が響いた。
樹の瞳が、なにかを恐れるように曇る。
もう、しょうがないんだと思う。
そんなふうに瞳だけで彼女に返すと、僕は口元を歪める。
「じゃあ…『僕』も、『私』に変えることにするよ」
そう言って作り笑いを浮かべたとき、『僕』は死んだ。
殺したのは『私』か、それとも『常識』とか、『社会』とかいう姿形の見えない怪物か。
なんだっていい。
目に見えない骨を拾う者は、どうせいないのだから。
樹の顔が悲壮に歪むのを見て、僕はなにかを間違えてしまったのかな、と力なく苦笑するだけだ。
どうしてだろうか、ふと、雪姫のあの黒い瞳が頭に浮かんだ。
彼女が今もそばにいたなら、僕は『僕』を失わずにいられたのだろうか?
その日、僕は夢を見た。
夢の内容はこうだ。
暗く青い、深海みたいな場所に、僕はぽつんと立っていた。
光のない閉ざされた場所でも、僕は決して恐れや不安を抱くことはなかった。
胸のなかに、自分がここにいることを示すだけの光が灯っていたからである。
しばらくして歩き始めると、その光がふわりと胸の内側から離れ、僕の隣に立った。
光は、白くて美しい肌をした少女に姿を変えた。誰だったかを思い出しているうちに、少女が言う。
『あんたなんて、嫌い』
「そうか」と夢のなかの僕が無機質に答える。
次に、光はまた別の少女の姿に変わった。
今度は、それが誰だかすぐに分かった。神田樹である。どうしてか、とても悲しそうな顔をしていた。
『本当に、これでよかったのかな』
あぁ、これは『僕』が『私』に戻ってしまったときに樹に言われた言葉だなぁ、などとぼんやり考えながら、「たぶんね」と無責任に答える。
やがて、光は目まぐるしく色んな形へと変わった。
それらはずっと遠くにあった記憶の箱から引きずり出されてきたような中身で、僕が憧れてきたダークヒーローたちの姿をしていた。
最後に、僕が一番憧れた『彼』の姿へと変わる。
彼は僕を見て、醜いものでも見るように目を細めた。そして、その目つきにぴったりな軽蔑するような声で言う。
『…随分と酷い有様だな』
「…なにが?」
『なにが、だと?』じろり、と彼が僕を睨む。『それくらい、自分の頭で考えたらどうだ。夕凪晶』
「…考えたよ。もう、十分ね」
彼は僕の気力が削げ落ちたような返答を耳にすると、ちっ、と苛立たしげに舌を打ち、『お前みたいなやつと話をしていると、僕は反吐が出そうになる』と背を向けた。
向けられた背中が、誰とも分からない少女のものと重なる。
彼はやがて、ゆっくりと遠ざかり始めると同時にまた言葉を吐き捨てた。
『今のお前と話すのは、時間の無駄だ。――せいぜい、かつて自分が下らないと罵ったものを抱きしめて生きるんだな』
加速度的に離れていく背中は、あっという間に見えなくなった。
誰もいなくなった。
この深い、光に見捨てられた海底に一人ぼっち。
もう、胸のうちに光はない。
僕は酷く不安になりながら、拳を握りしめて呟きを漏らす。
「それが幸せだと思ったんだ…。本当なんだよ」
呟きは反響することなくみじめに潰え、僕はとうとう、ダークヒーローを卒業することに成功したのだった。
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