第2話 八年の不義理の告発


 父の葬儀から三日後の昼下がり。蝉の声は相変わらず地上を支配していたが、家の中は水を打ったように静まり返っていた。初七日の法要も昨日で終わり、慌ただしく出入りしていた親戚たちの気配も今はもうない。時折、階下から聞こえる母が食器を片付けるかすかな音だけが、この家にかろうじて生活が残っていることを示していた。俺は、高校時代から何一つ変わらない自室のベッドの上で、ただ天井の染みを眺めていた。本棚には色褪せた参考書や漫画が並び、壁には茜や鈴と三人で撮った写真が、埃をかぶったまま飾られている。八年前で時が止まったこの部屋は、まるで俺自身の心のようだ。何も成し遂げられず、成長することもなく、ただ過去の感傷に浸ることしかできない、空っぽの空間。


 不意に、階下で玄関のチャイムが鳴った。母が誰かと話す声が聞こえ、やがて階段を上がってくる軽い足音が近づいてくる。コンコン、と形式的なノックの音。返事をする前に、躊躇なくドアが開けられた。そこに立っていたのは、涼しげな白いワンピース姿の鈴だった。その手には、母である雅さんからの差し入れであろう、風呂敷包みが握られている。


 「悠希兄、いる?母さんが、これでも食べなって」

 葬儀の席で見た、硬い表情はそこにはなかった。快活で、人懐っこい、昔のままの鈴の笑顔だ。だが、俺がゆっくりとベッドから身を起こし、彼女の顔を正面から見た瞬間、俺は息を呑んだ。短いボブカット、勝ち気そうな少し吊り上がった目元、薄い唇。その姿は、俺の記憶の中に鮮明に焼き付いている、高校時代の茜そのものだった。雅さんが二十代後半と言っても通用するほどの若さを保っているせいか、あの母娘は恐ろしいほど容姿が似通っている。特に、同じ年頃になった時の茜と鈴は、髪型が違うだけの双子と言っても過言ではなかった。まるで、八年前の過去から抜け出してきた亡霊と対峙しているような、倒錯した感覚に襲われる。


 鈴はそんな俺の動揺に気づいた様子もなく、テーブルの上に風呂敷包みを置くと、当たり前のように俺の向かいの椅子に腰掛けた。そして、値踏みするように、じっと俺の顔を見つめる。その視線に耐えきれず、俺は先に口を開いた。

 「……ありがとう。雅さんにも、よろしく伝えてくれ」

 「どういたしまして」

 短い返事。そこから、また長い沈黙が続いた。重苦しい沈黙を破ったのは、やはり鈴の方だった。

 「ねぇ、悠希兄。いつまで、そんな腑抜けた顔してるつもり?」

 その声のトーンは、先ほどまでの明るさを完全に消し去り、硬質で、冷たい響きを帯びていた。それは鈴の声のはずなのに、俺の耳には、まるで茜が俺を責めているかのように聞こえた。


 「お父さんのことは、私も悲しいよ。でも、悠希兄が今すべきなのは、ただ悲しみに暮れることじゃないでしょう?」

 「……何が言いたいんだ」

 「とぼけないでよ。茜姉ちゃんのことだよ」

 核心を突く言葉に、心臓が大きく跳ねた。鈴は、俺から視線を逸らさない。

 「姉さんね、もうすぐ縁談、決まっちゃうよ。相手は大学の先輩で、すごく立派な人。将来のこともちゃんと考えられて、誠実で、優しくて。悠希兄みたいに、大事なものから目を背けて、八年間も逃げ回ってたような臆病な男とは、全然違う」


 それは鈴の言葉だった。だが、俺には、茜が泣きながら訴えているように思えてならなかった。「どうして来てくれなかったの」「どうして私の手を掴んでくれなかったの」と。高校時代の茜の幻影が、目の前の鈴に重なる。


 「姉さん、ずっと待ってたんだよ。悠希兄が『好きだ』って、たった一言、言ってくれるのを。そうすれば、全部捨てて悠希兄のところへ行ったはずなのに。あんたは結局、何もしなかった。雅母さんとの約束?そんなの、本気ならいくらでも乗り越えられたはずでしょう。それを言い訳にして、あんたはただ、自分の臆病さと向き合うことから逃げただけじゃない」

 図星だった。返す言葉など、一つもなかった。俺の沈黙を肯定と受け取ったのか、鈴はさらに言葉を続ける。その声には、姉への苛立ちと、そして俺への失望が色濃く滲んでいた。


 「でもね、一番腹が立つのは、そんな悠希兄に愛されてるっていう『一番』の席を、自分から降りようとしてる姉さん自身だよ。自分の気持ちに嘘をついて、楽な道に逃げようとしてる。あれは裏切りだ。悠希兄の八年間に対する裏切りで、何より、自分の純粋な気持ちを踏みにじる、最低の裏切りだよ」


 「……やめてくれ」

 俺は、か細い声で懇願した。これ以上、聞きたくなかった。鈴の口を通して語られる茜の本心も、俺自身の罪も。だが、鈴は容赦しなかった。彼女はすっと立ち上がると、俺の目の前に仁王立ちした。


 「このままじゃ、誰も幸せになれないよ」

 その声は、静かだったが、部屋の隅々まで響き渡るような、強い意志を持っていた。

 「悠希兄は一生、後悔と罪悪感を引きずって生きていく。姉さんは、愛してもいない男の隣で、心を殺して生きていく。そんなの、誰も望んでない。私も、きっと、雅母さんだって。悠希兄が動かないせいで、みんなが不幸になるんだよ。それでもいいの?」


 最後の言葉は、鋭い楔となって俺の胸に突き刺さった。そうだ、俺一人が臆病者でいることで、全ての歯車が狂い始めている。俺が過去を清算しない限り、誰も未来へは進めないのだ。

 鈴は、呆然とする俺に背を向けると、「よく、考えなよ」という一言だけを残して、部屋から出ていった。一人残された部屋で、俺はただ、唇を噛みしめることしかできなかった。蝉の声が、やけに遠くに聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る