――――第2話――――

「時間の無駄だったな」


 執務室の机の前で、ゼノルは呟いた。

 片手で先ほどの小瓶をもてあそんでいる。中の液体は、少しだけ紫色に戻っていた。


「今し方、下着姿の商人が逃げていきましたが」


 執務室には、もう一つの人影があった。

 背筋の伸びた、理知的な顔立ちの青年だった。角張った眼鏡の位置を指で直しながら、やや呆れたようにゼノルへ言う。


「やはり偽物だったのですか」

「ああ。裁判にかけるのも商材を没収するのも面倒だったため、有り金と一張羅いっちょうらを置いていかせた。今頃オレの寛大さに泣きながら感謝していることだろう。奴の衣服は売却しておけ。オレの趣味ではない」

「……だから言ったでしょう」


 溜息でもつきたそうな声音で、青年が言う。


「あんなもの、詐欺師に決まっていると」

「万が一ということもある。本物だったなら儲けものだ。新たな神器が手に入れば、都合がいいことに変わりはないからな」

「そうであるとしても、私が対応すれば十分だったかと存じますが」

「ふん」


 ゼノルは鼻を鳴らして言う。


「貴様には他にすべきことがいくらでもあるだろう、スウェルス」


 スウェルスと呼ばれた青年は、年若いながらもゼノルの補佐官として、ロドガルド辺境伯領における政務の大部分を取り仕切っていた。

 過去に、ゼノルが自ら見出した人材だ。

 ゼノルは椅子の背もたれに身を預けながら言う。


「教会建設の手配に、海賊討伐に向けた諸々の下準備など、仕事は山のようにある。つまらん雑務は任せておけ。臣下の能力が十全に発揮できるよう取り計らうのも、当主の務めだからな」

「そう言って、面倒な仕事から逃れたいだけでは? すべきことがあるのはゼノル様も同じでしょう」

「ほう?」


 ゼノルはスウェルスを鋭い目つきで睨む。


「貴様、このオレがいったいどんな責務から逃げていると?」

「婚約の申し入れがまた届いております。二件」

「ぐっ……!」


 一切怯むことなく即座に言い返してきたスウェルスに、ゼノルは表情を歪ませた。


「ま、また適当に断っておけ……!」

「そうはおっしゃいますがゼノル様。婚姻の検討こそ、ご自身の責務かと存じますが」

「……」


 無言を返す主に、スウェルスは正論を述べる。


「他家との関係をどのように保つか。どこと手を結びどこと手を切るのか。そういった物事の判断は私の身に余ります。断るにしてもご自分で返答をお考えください」

「……今までは貴様に任せていただろう」

「今回のお相手は伯爵家と侯爵家です。いずれも、当家に歴史こそ劣るものの名家。さすがに当主自ら返事をしたためるべきかと」

「ついにそんなところからも縁談が来るようになったか……」


 ゼノルは悩ましそうにこめかみを押さえる。

 今のロドガルド辺境伯家は、よほど息女を嫁がせるのに都合がいいようだった。もっとも、家格や当主の現況を考えれば無理もないのだが。

 ゼノルはスウェルスへ億劫おっくうそうに告げる。


「仕方ない。申し入れの手紙を置いていけ。断りの書面はオレがしたためておこう」

「……やはり、今回も断られるのですか」


 スウェルスが、軽く眼鏡を直しながら言う。


「家の存続や所領の安全をかんがみるならば、そろそろ力のある家と姻戚いんせき関係を結ぶのが定石かと存じますが」

「不要だ。このオレが、そのような弱者の戦術など採るものか。愚鈍な貴族連中と姻戚になどなればかえって足枷あしかせとなる。それに、以前にも言ったはずだぞスウェルス」


 ゼノルが、自らの補佐官を睨んで言う。


「オレは当分、結婚する気はないと……!」

「……あのう、ゼノル様」


 その時、執務室の扉がわずかに開き、メイド服姿の少女が恐る恐るといった様子で顔を覗かせた。


 亜麻色の髪を垂らした、あどけない顔立ちの少女。先ほど商人との応接中に酢を持ってこさせたメイドだった。今はその片手に、茶杯とポットの乗った銀盆を乗せている。

 少女が遠慮がちに言う。


「お茶をお持ちしました、けど……」


 スウェルスは少女にちらと目をやると、開封済みの封書を二通、ゼノルの机に置いて言う。


「では、私はこれで。恐れ入りますが、以後求婚への返答はすべてご自身でお願いします。正直なところ、自分の結婚がいつになるかという忙しさの中、ゼノル様への縁談話の後始末まで任されるのは非常に腹立たしかったので」

「はあ? 貴様……」

「政務に戻るため、失礼します」


 スウェルスは早口で言い切ると、つかつかと執務室を退室していった。

 ゼノルはぼそりと呟く。


「……あの男、結婚願望なんてあったのか」


 補佐官の退室を待って、メイドの少女が入室してくる。

 少女はゼノルの机に茶杯を置くと、ポットから茶を注ぎ始めた。

 その目は、まるで誰かが来ないことを確かめるかのように、時折執務室の扉の方をうかがっている。


「ご苦労」


 やがて紅い茶が満ちた茶杯を、ゼノルが手にしようとしたその時。


「ていっ」


 少女の手刀が、ゼノルの肩に食い込んだ。


「痛っ。なんだ、ユナ……!」


 非力な少女の手刀には欠片ほどの威力もなかったが、危うく茶杯を取り落としそうになったゼノルはメイドの少女を睨む。

 しかしユナと呼ばれた少女は、まるでひるむことなく軽い調子で言う。


「もう、ダメだよゼノ君。また商人さんを怖がらせてたでしょ」


 少女はつい先ほどまでとは打って変わって、くだけた口調でそう言った。

 本来は大貴族の当主に対し、一介のメイドがそのような口を利くなど許されない。

 しかし、当のゼノルも特段とがめる様子もなく、あらためて茶杯を手に取りながらユナという名のメイドに答える。


「このオレをたばかろうとしたのだ。当然だ」

「もう。そんなんだから領民の人たちからも怖がられるんじゃん。ただでさえ顔も怖いのに」


 ユナが銀盆を持った手を腰に当てて、呆れたように言う。


「ねえ、わかってる? ご当主様になってからゼノ君、〝冷血卿〟って呼ばれてるんだよ? 冷血だよ冷血。ヘビとかトカゲと同じってことだからね?」

「以前におまえ、ヘビもトカゲもかわいくて好きだと言っていなかったか?」

「わたしは好きだけど。でもみんなはそうじゃないでしょ」

「……ふん」


 ゼノルは茶杯を口に運びながら言う。


「有象無象に好かれたところで益もない」


 ゼノルは椅子の背もたれに身を預ける。

 少年当主の態度も、商人や臣下に接する時と比べ、幾分いくぶんかくつろいだものになっていた。


「それに領主たる者、領民には恐れられているくらいでちょうどいい」

「そうかなぁ……。ねえあの商人さん、ゼノ君がおどした後なんであんなに瓶振ってたの?」

「蓋の裏に残った石灰を懸命に溶かそうとしていたのだ。努力の甲斐あってかわずかに色が変わったようだがな。なかなか笑えただろう?」

「笑えないよ、趣味わるー。あの人、本気でゼノ君が首ちょん切ると思ってたからね」

「ほう。オレが本気でないなどといつ言った」

「そんなことしたことないじゃん。ゼノ君、時々しれっと嘘つくよね」

「斬首すると言ってしないのだから、優しい嘘ではないか。神器と言ってガラクタを売りつけようとする詐欺師よりずっと善良だ」

「そうだけどさー」


 ユナが溜息をつきたげな口調で言う。


「行商人なんて半分詐欺師で一人前みたいなものなんだから、大目に見てあげなよ」

「……身も蓋もないことを言うな」


 思わずゼノルの口から苦笑が漏れる。

 ユナの言うことは一理あった。


 信用を勝ち取り、長く安定した商いを続けようと考えるのは、街の商人や大商会の幹部だけだ。

 大多数の行商人は、その限りではない。ほとんどの客が一期一会である彼らは、一度の商いでどれだけ多く儲けられるかが勝負になる。偽神器を馬鹿正直に玩具だと言って売るようなお人好しは、なかなか生活が楽にはならないだろう。


 厄介な面はあるものの、それでも王国の流通は多数の行商人によって支えられている。

 ゆえに、あまり無下にするなというユナの主張は、一考の余地があるものではあった。


 ゼノルが頭を掻きながら言う。


「それでも詐欺を仕掛けようとしたのだ、お咎めなしとはいくまい。あの程度で済ませてやったのだから十分仁君ではないか。オレのどこが冷血卿だ」

「やり方がまずいんだって。普通に法律どおり罰金代わりに手持ちの商材を没収すればよかったでしょ。脅かすから怖がられるんだよ」

「そちらの方が損になるはずなのだがなぁ」


 いまいち納得できないかのように、首をかしげるゼノル。

 そんな少年の様子を見て、ユナは仕方なさそうに笑って言う。


「……ゼノ君のお嫁さんになる人は大変だね。結婚したら、ちゃんと優しくしてあげないとダメだよ? ここで働いてる人たちみたいに、ゼノ君の性格をわかってるわけじゃないんだから」

「む……聞いていたか」


 ゼノルはややばつの悪い顔になりながら、スウェルスの置いていった封書をつまみ上げる。


「例によって、婚約の申し入れが来ただけだ。これまでのように断るつもりでいる」

「ゼノ君、ほんとモテるよね。顔は怖いのに」

「オレの顔など連中は知らん。ただ姻戚になる相手として、ロドガルド家が今狙い目というだけだ」


 貴族の結婚とはそういうものだ。

 当日まで花嫁と花婿が互いの顔を知らないことも珍しくない。


「でも……ゼノ君いいの? 貴族なら、普通は子供の頃から婚約者がいるものなんだよね? ゼノ君もう十七歳だけど……」

「オレを有象無象の貴族連中と一緒にするな。他家の力になど頼らずとも、我がロドガルド領は磐石だ。縁談を受けるつもりはない」


 ゼノルが再び、茶杯を口に運びながら小さく呟く。


「……まだ、結婚などするわけにはいかないからな」

「ふーん……そっか」


 ユナは銀盆を胸に抱えて、にへへと笑う。


「ねえ、覚えてる? わたしたち昔……」


 ユナが言いかけた、その時。


「ゼ、ゼノル様!」


 執務室の扉が勢いよく開き、スウェルスが駆け込んできた。

 ユナはゼノルからぱっと離れると、背筋を伸ばして真面目な顔になる。

 ゼノルは不機嫌そうに眉をひそめ、スウェルスを睨んで言った。


「なんだ、慌ただしい。何事だスウェルス」

「ま、また婚約の申し入れが」


 スウェルスは、主の機嫌など大した問題ではないかのごとく、焦った様子で言う。


「今度は、アガーディア公爵家です!」

「……ついには公爵家まで出てきたか」


 ゼノルは思わず顔をしかめる。

 王族に次ぐ上級貴族だ。アガーディア公爵家は、公爵家の中では序列が低いものの、決して辺境伯が軽く扱える家ではない。縁談を持ち込まれたこと自体、驚くべきことだった。

 ゼノルは溜息をついてスウェルスに告げる。


「わかったわかった。封書を置いていけ。断りの返事はオレが書いておく」

「そ、それが……来ています」

「は?」

「ご本人が今、お見えになっています」


 聞いたゼノルは唖然とする。


「来てるって……まさか当主がか? 事前連絡もなしに?」

「い、いえ……」


 スウェルスが、息を整えながら告げる。


「その、ご令嬢本人が」

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