静けさの果てに
@Takuayu999
第1話 純愛の始まり
梅雨が始まった。
湿った風が窓から入り、教室のカーテンをゆっくりと揺らす。
放課後の図書室は、外の喧騒とは別の時間を流していた。
ページをめくる音が、静寂の中に点のように落ちる。
川奈あずさ(かわな あずさ)は、その音に包まれながら机に頬杖をついていた。
目の前の本の文字を追ってはいるが、頭に入ってこない。
時折、視線は窓の外へ流れ夕暮れの空にぼんやりと焦点を合わせた。
――翔平、もうすぐ来るかな。
剣道部の練習が終わるまで、彼を待つのがいつもの日課だった。
幼なじみであり、今は恋人でもある鎌田翔平(かまた しょうへい)。
夕陽の光が差し込むころ、汗を拭いながら現れるその姿を想像するだけで、
胸の奥がじんわりと温かくなった。
中学を卒業してから、二人はようやく想いを言葉にした。
“好き”という一言を交わした瞬間の鼓動を今でも覚えている。
初めて翔平の手を握ったあの日、掌の温度が心臓の奥まで届いたような気がした。
――こんな日々が、ずっと続けばいい。
そう思っていた。
その願いが、永遠の約束のように錯覚できるほどに。
翔平は、いつだって真面目だった。
練習では誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰る。
顧問にも信頼され、後輩にも慕われていた。
中学時代は全国大会にも出場し、その名は剣道部の誇りだった。
けれど、あずさの目に映る翔平は強さよりも優しさの方が印象に残っている。
放課後、一緒に歩くとき彼はいつも傘を持っていた。
「梅雨だから、いつ降るかわかんないだろ」
そのさりげない気遣いに、心がくすぐられた。
翔平の手は固く、ところどころにマメがある。
けれど、その手が自分の頭をそっと撫でてくれるたびに、
不思議と涙が出そうになる。
安心と同時に、何かを許された気がして。
――翔平は、まっすぐだ。
だからこそ、彼の光が眩しすぎて時々目を逸らしたくなる。
六月のある日、中間試験が終わった。
教室の空気はどこか解放的で、みんなが夏の匂いを感じ始めていた。
黒板の隅には「体育祭実行委員募集」の紙が貼られ、
クラスではホームルームの時間に、誰がどの競技に出るかを話し合っていた。
「鎌田、リレー出ろよ!」
「お前しかいねーって!」
男子の声が飛び交い、笑いが起きる。
翔平は少しだけ照れくさそうに笑った。
「わかったよ、逃げても無駄だな」
教室の空気が一気に明るくなる。
その中心に、翔平がいた。
誰かが冗談を言えば、自然に拾って笑いに変える。
真剣な話のときは、空気を引き締める。
――彼は、そういう人だった。
あずさは窓際の席で、静かにその光景を見ていた。
彼の声、笑顔、周囲の信頼。
そのすべてが“特別”に見えた。
翔平の周りにはいつも人がいる。
自分の周りには、本しかいない。
その事実を、寂しいと思う自分がいた。
そして、そんな自分を恥ずかしいとも思った。
「川奈さん、借り物競走どう?」
隣の席の女子が声をかけてくれた。
「えっ……ううん、見る方が好きだから」
「そっか」
会話はそれで終わった。
笑い声の中心では、翔平がクラスメイトと冗談を言い合っている。
「鎌田がアンカーなら勝てるな!」
「やっぱ頼りになるわ!」
その言葉に、あずさの胸の奥が小さく鳴った。
翔平は光の中にいる。
自分はその外側の影の中にいる。
同じ場所にいるのに、まるで違う世界を見ているようだった。
放課後、翔平と一緒に歩きながら、あずさはいつも通り微笑もうとした。
「体育祭、楽しみだな」
「……うん」
言葉は出たのに、声は少し震えていた。
翔平の横顔は夕陽に照らされて、どこまでも真っ直ぐだった。
道端に咲いた紫陽花を見て、翔平が言う。
「きれいだな」
あずさは頷きながら、小さくつぶやいた。
――その“きれい”を、私にも向けてほしい。
その一言を、胸の奥に飲み込んだ。
六月の終わり。
翔平は剣道部の練習でさらに忙しくなった。
放課後の時間は減り、図書室で過ごすあずさの時間が長くなる。
翔平がいない静けさの中で、時間の流れだけが鈍く重く感じた。
そんなある日。
いつもの席で詩集を読んでいると、ふいに背後から声がした。
「それ、いい本だね」
振り向くと、一学年上の先輩が立っていた。
眼鏡の奥の目が穏やかで、笑うと少しだけ目尻が下がる。
「金田……先輩」
「うん。図書委員なんだ。君、よくここにいるよね」
その言葉に、あずさは少し戸惑いながら頷いた。
彼はあずさの持っていた詩集のページを指でなぞりながら言った。
「この詩、好きなんだ。“人の心は、静けさの中で形を変える”ってところ」
あずさは思わず口を開いた。
「私も、そこ……好きです」
自分の声が震えていないか気になったが、金田は優しく微笑んだ。
その笑顔に、胸の奥の小さな氷が少し溶けた気がした。
翔平のような熱ではなく、
ただ静かに寄り添うような温度。
言葉がいくつか交わされるうちに、
あずさは久しぶりに、自分が「誰かとちゃんと話せている」気がした。
――翔平とは違う静けさ。
その静けさが、息をするように心に広がっていった。
そのときはまだ、わからなかった。
その温もりが、やがて自分を壊すほどの熱になることを。
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