虚像の観測者
クソプライベート
第一話:不可能な犯罪
午前6時47分。東京湾岸エリアにそびえ立つ「神無月美術館」の静寂は、一人の警備員が発した短く、甲高い悲鳴によって破られた。
事件現場は、美術館の心臓部とも言える特別展示室『パノプティコン』。四方の壁から天井まで、おびただしい数の液晶モニターが埋め込まれ、そのすべてが部屋の中央に置かれた一脚の椅子と、そこに座る人物を映し出していた。椅子に座る男――この美術館の館長、雨宮宗介(あめみや そうすけ)は、首をだらりと垂れ、完全に動きを止めていた。
警視庁捜査一課の田中健太(たなか けんた)が現場に到着したとき、すでに鑑識の慌ただしい活動が始まっていた。だが、その活動はどこか空虚なものに思えた。なぜなら、この事件の状況は、あまりにも「不可能」だったからだ。
「どういうことだ、これは……」
田中は、セキュリティルームで再生される映像を睨みつけ、呻いた。そこには、昨夜23時15分から今朝6時半までの映像が映し出されている。映像の中の雨宮は、椅子に座って静かに目を閉じている。そして午前0時ちょうど、彼の身体がゆっくりと傾き、そのまま動かなくなった。ただ、それだけだ。
部屋は内側から電子ロックで施錠されていた。緊急時用の物理キーは、館長の執務室の金庫の中。こじ開けられた形跡はない。換気口は人が通れる大きさではなく、監視カメラの死角も存在しない。360度、あらゆる角度からの映像が、雨宮が「一人きり」で死んでいった事実を証明していた。
「状況から見て、急性心不全による病死。事件性はないかと」
部下の報告に、田中も頷きかける。どう考えても、他殺の線はあり得ない。完璧な密室。完璧な監視記録。これ以上の証拠があるだろうか。
「――その結論を出すのは、少し早いかもしれませんね」
不意に背後からかけられた声に、田中は驚いて振り返った。そこに立っていたのは、ツイードのジャケットを着た、どこか学者のような雰囲気を持つ男だった。年齢は30代半ばだろうか。眠たげな目をしているが、その奥には剃刀のような鋭さが宿っている。
「あなたは……?」
「紹介が遅れました。影山悟です。今回はアドバイザーとして呼ばれました」
影山悟。田中はその名を噂で聞いたことがあった。大学で認知心理学を教える傍ら、その特異な視点から数々の難事件解決に貢献してきた、警察の「最終兵器」とも呼ばれる民間コンサルタント。
「影山さん。ですが、この映像を見れば……」
「ええ、見ましたよ」
影山はあっさりと田中の言葉を遮ると、巨大なメインモニターに歩み寄った。彼は鑑識官のように指紋や遺留品を探すのではない。ただじっと、そこに映る「虚像」だけを見つめている。
「田中刑事。この展示室のコンセプトは何ですか?」
「『パノプティコン』。一人の看守がすべての囚人を監視できる、という監獄の仕組みです。ここでは、我々鑑賞者自身が看守であり、囚人でもある、という皮肉めいたテーマが……」
「素晴らしい。つまり、ここは『すべてが見える』ことが前提の空間なわけだ」
影山は口の端を微かに上げた。
「だとしたら、面白い。なぜなら、完璧な監視とは、完璧な欺瞞(ぎまん)の舞台にもなり得るからです」
その時、田中の携帯が震えた。検視官からの速報だった。
「……なんだって?」
田中の声が裏返る。受話器を耳から離し、呆然と影山を見た。
「影山さん……信じられない。雨宮館長の体内から、毒物が検出されました」
静まり返るセキュリティルーム。全員の視線が、再びモニターに注がれる。そこに映っているのは、相変わらず「一人きり」で椅子に座る男の姿だけだ。
「毒物……?」田中は呟いた。「なら、どうやって?この密室で、誰にも見られずに、どうやって毒を盛ったんだ……?」
影山はモニターから目を離さずに、静かに言った。
「だから言ったでしょう、刑事さん」
彼の指が、映像の中の雨宮が身につけていた腕時計を、そっと指し示した。
「目撃者は、嘘をつく。そして時には――カメラも、嘘をつくんです」
時計のデジタル表示が、午前0時を回った瞬間に、ほんの一瞬、コンマ数秒だけ、映像が乱れたのを、この時、影山だけが見抜いていた。
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