第十六話:価値観の再定義(語り手:アオイ)

土を耕し始めて数週間。僕の体は痛みに慣れ、手の水ぶくれは硬い皮膚に変わった。ケンジとの関係は「信頼」とは程遠いものだったが、言葉を交わす代わりに、畝の深さや水路の引き方で意思疎通をするようになった。

彼は効率的だった。それは、AIの計算に基づく効率ではなく、**「最小限の労力で、確実に成果を出す」**という、サバイバルの中で磨かれた現実的な効率だ。

ある日、作業の休憩中、ケンジが唐突に言った。「あんたたち富裕層は、**『無駄』**を極度に嫌う。だから、この土を耕す作業も、あんたの頭の中では、まだ非効率なコストなんだろう?」

僕は正直に答えた。「そうだ。僕が設計したシステムでは、食料は工場で自動生産され、ここで泥まみれになる必要はない。これは最も非効率な行動だ。」

ケンジは地面に唾を吐いた。「そうだろうな。あんたの言う**『効率』は、全てが計画通りに進む、ガラスの箱の中の論理だ。だが、俺たちの言う『効率』は違う。それは、『今日生き延びるため、明日も腹を満たすため』**の、たった一つの答えなんだ。」

彼の言葉は、僕たちの間に横たわる深い断絶を示していた。僕たちの世代は、**「将来の利益」のために現在の不効率を許容したが、ケンジの世代は、「不確実な未来」のために今日の労力を無駄にすることはできなかった。彼らが「静かな消滅」を選んだのは、まさに、努力が「無駄なコスト」**に終わる未来しか見えなかったからだ。

僕が土を耕すのを見て、集落の人々の反応も少しずつ変わり始めた。遠巻きに見ていた人々が、水汲みや木の枝集めといった**「非効率」な手伝いを始めるようになったのだ。彼らは僕を信用しているわけではない。しかし、彼らが失っていた「自分の行動が、直接、自分の生存に繋がる」**という感覚が、ゆっくりと再起動し始めていた。

この変化は、僕がタワーマンションに残してきた富裕層との対比で、より鮮明になった。

彼らは依然として、僕に「いつ電力が回復するか」「いつ元の生活に戻れるか」と尋ねてきた。彼らの望みは、「システムの修復」であり、「自らの再起動」ではない。彼らは、手を汚すことを拒み、知識や地位が物理的な現実を解決できると信じ続けている。彼らの無力さは、彼らが排除した貧困層の「無気力」とは、性質の違う、**「特権による無力さ」**だった。

僕は、ケンジが耕した畝の上に、最後の種を蒔きながら決意した。

この社会を立て直すには、「AIの再起動」を待つのではなく、人間が「非効率」な行動を許容することから始めなければならない。水道を直す作業は続くだろう。だが、それ以上に重要なのは、僕が持つ「知識」と、ケンジが持つ「生存の経験」を対等に結びつけ、「不信」と「無気力」によって崩壊したコミュニティを、最も非効率な方法で、一つずつ再構築していくことだった。

僕たちの目標は、かつてのような**「超効率的なエリート社会」ではない。それは、「混乱なき、持続可能な、人間のための最低限の生活」**を、自らの手で守れる社会だ。

僕たちは、ガラスの箱の外で、泥と不信の中で、静かな再スタートを切った。

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