第十話:制御を失ったコード(語り手:コウ)

兄のケンジは、泥と錆の匂いのする世界で生きた。僕の世界は、無菌室と静かな冷却ファンの音に満ちている。

2050年代。僕は都市特区の地下深くに位置するデータセンターで、AI補助オペレーターとして働いている。僕の仕事は、社会のすべての機能を管理するAIシステムを監視し、エラーが出たときに上位の技術者に報告することだ。僕自身がコードを修正する権限はない。僕たちは、高スキル層が生み出した**「完璧なシステムの番犬」**だった。

このシステムは、富裕層の生活を維持し、そして僕たち低スキル労働者層を**「混乱なく機能させる」**ために設計されている。僕のモニターには、ケンジたちのデジタルウォレットの残高、健康状態のデータ、そして彼らの行動傾向を示すリスク予測値が流れている。すべてが完璧に制御されていた。

しかし、僕は知っていた。この**「管理された静寂」**が、どれほど危険な上に成り立っているかを。

僕たちの社会は、**多様性と冗長性(バックアップ)**をすべて切り捨て、効率という名の細い一本のコードに依存している。AIは極めて複雑で、システムは階層化されすぎている。指導してくれるベテランの高スキル層は、年々減り続けていた。彼らが設計した仕組みは、僕たち補助オペレーターには全貌が理解できない、ブラックボックスだった。

ある夜、富裕層が利用するエネルギー管理モジュールで、小さな数値の異常が検出された。AIはそれを「通常範囲内のノイズ」として処理し、僕の端末には緊急警報は出なかった。だが、僕は違和感を覚えた。その数値の変動パターンが、過去に一度だけ見たことのある、システム連鎖崩壊の予兆を示すコードの動きに酷似していたからだ。

僕は、上位の高スキル層に報告を試みたが、応答は遅かった。彼らの多くは、グローバルな資産運用や、さらに新しい技術開発に忙しく、国内インフラの「安定しているはずの」監視など、優先順位は低いのだ。彼らにとって、僕たちの世界は**「解決済みの問題」**だった。

「どうせAIが直すだろう。お前はAIの判断を信じろ、コウ」

ベテラン技術者からの冷たい返答に、僕は絶望した。

この時、僕は悟った。僕たち低スキル層が「消滅すること」を選べなくなったように、富裕層もまた、「自分たちのシステムが制御不能になること」を想像できなくなっているのだ。彼らの傲慢さと、僕たちの無気力は、社会の崩壊を静かに加速させていた。

僕は、兄ケンジの言葉を思い出した。「僕らは道具だ。壊れるまで捨てられない」。だが、もしこのシステム全体が壊れたら、僕たちは道具としてすら存在できなくなる。

僕は、自分の目の前のコードに、この社会の緩やかな死の進行を見ていた。貧困層の静かな消滅は、社会の足腰の筋肉を奪った。その結果、残された骨格(AIシステム)も、自力で立ち続けることができなくなりつつあった。

外の光の世界が、内部から崩れ始める。その制御不能な静寂こそが、この二極化社会の最終的な結末なのだと、僕は確信した。

【次の語り手:アオイ(富裕層の子ども)】

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