10.最後の言葉

翌朝、早めに起きた僕達は、仕度をしてそのまま葬儀場に向かった。みそらは、昨晩あんなことがあったにも関わらず、まるで何もなかったかのように、ごく普通に振る舞っていた。きっと、何も知らないすみれ先輩を混乱させないためだろう。そうして僕達は、葉書に書かれていた葬儀場へと入った。

「お悔やみ申し上げます」

先生の親戚らしき人達に、頭を下げる。それから、葬儀場の奥へと向かう。後は、お葬式が始まるのを待つだけである。そうして、三人で隅の椅子に腰掛けた、その時であった。

「おい、なんで障害者が来てるんだよ?」

聞き覚えのある忌まわしい声に、思わず顔を上げる。そこには、案の定、簗君がいた。また、その後ろには、昨日中学校で出会った同級生三人もいた。出くわすことになるだろうとは思っていたが、やはり見つかってしまったか。

「ここは精神異常者の来るところじゃないわよ」

「そうよ。先生のお葬式を台無しにしないでちょうだい。出来損ないは今すぐ帰って」

守宮さんと草取さんの二人が、畳みかけるように言ってくる。この二人は、こうしていつも二人で僕に嫌がらせをして来ていた。だが、ここで言い返して騒ぎになると、先生の親族や葬儀場のスタッフさんに迷惑をかけてしまう。それに、言葉の弾切れを起こせば、その内黙るはず。だから僕は、言い返さずに、ただ黙って聞き流していた。だが、嫌がらせはそこで終わらなかった。

「黙ってないで、今すぐ出ていけって言ってんだよ。動かないなら、俺が叩き出してやる」

女子二人の背後で仁王立ちしていた松蝉君が、ふいに僕の方に近づいてきた。元柔道部主将の彼に、非力な僕が敵うわけがない。そう思い、立ち上がって離れようとしたその時、みそらが僕の前に立った。

「チッ、また邪魔するつもりか。女のくせに、男の俺に歯向かうんじゃねぇ」

「女だから何? 大事な家族を守るのは当然でしょ。私の弟に手を出さないで」

そう言って、みそらが厳しい目で松蝉君を見据える。みそらは、僕よりは力が強く、空手の心得もあるが、流石に松蝉君には敵わないだろう。みそらには、無理をしないで欲しかった。

「うわー、出た。家族愛的なヤツ。イタすぎて寒気すらするわ」

松蝉君はそう言うと、蔑むような目をみそらと僕に向けた。だが、それもほんの一瞬のことで、彼はすぐに目つきを変えた。敵を見据えるような、鋭い眼光。その目が見据えていたのは、みそらであった。

「もういい。……失せろや」

低い声でそう言い、一気に距離を詰める。一方のみそらも、姿勢を低くして身構えていた。まずい、このままではみそらが痛い目に遭ってしまう。そう思った、その時だった。

「やめなさい」

ふと、凛とした声が響き渡った。その声に、松蝉君もみそらも固まる。その場にいたみんなにつられるようにして、声がした方を見ると、そこにいたのは。

「響子先生!」

初老の女性であった。響子先生。僕達姉弟が小学校高学年だった時に学年担任をしていた先生であり、僕とみそらは勿論、簗君達も知っている先生である。その先生が、どうしてここに。僕が困惑していると、先生はこちらに歩いてきた。

「私が夫のお葬式に呼んだのは、みそらさんや時羽君、すみれさんといった夫の一部の教え子だけです。あなた達は呼んでいません」

その言葉に、一瞬思考が止まる。今、響子先生は『夫のお葬式』と言った。このお葬式は、日笠惣助先生のお葬式である。ということは。

「響子先生、惣助先生と結婚してたんですか?」

みそらの言葉に、響子先生が頷く。

「ええ。だから今は『日笠響子』なのよ。って、あなた達、知らなかった?」

首を傾げる響子先生に、三人揃って首を振る。まさか、僕達をお葬式に呼んだのが、小学校時代の恩師だったとは。思わぬ繋がりに、戸惑うしかなかった。

「さて、簗君、松蝉君、守宮さん、草取さん。あなた達を、夫のお葬式に参加させるわけにはいきません」

響子先生が、凛と言い放つ。その姿は、小学生の時に見た、厳しくも優しかった響子先生そのものであった。

「どうしてですか! 俺達、日笠先生の教え子ですよ。恩師にお別れくらいさせてもらってもいいじゃないですか」

簗君が食らいつく。しかし、響子先生は全く動じなかった。

「恩師。果たして、本当にそう思ってる?」

「勿論です」

松蝉君が頷く。だが、響子先生は首を振った。

「いいえ、あなた達の言葉は、真っ赤な嘘です。生前の夫が言っていたんです。『クラスに問題児が何人かいる』と。話を聞いたら、あなた達の名前が出てきました。授業をサボったり、悪戯を繰り返したり。そんなあなた達が、夫のことを『恩師』呼ばわり? 冗談も大概にして下さい」

先生の言葉に、松蝉君が黙り込む。どうやら、彼の裏での悪行は、惣助先生にはお見通しだったようである。また、女子二人も、黙っていた。だが、一人だけ観念しない人間がいた。

「ま、待って下さい!」

そう、簗君だった。彼は、焦っているのか、かなりの早口で話し始めた。

「俺、先生に日笠先生の死因のこと、訊きに行きましたよね? それって、先生のことを想っていないと出来ないことだと思うんですけど」

ここまで来ると、最早悪足掻きの領域である。かなり苦しい反論だと思っていると、案の定、響子先生は首を振った。

「時羽君を貶めるネタ探しでしょう? あなたが、時羽君を執拗にいじめていたことは夫から聞いていました。夫の休職を何処かで聞いて、時羽君を貶めるネタになるのではないかと下心を持って訊きに来た。違いますか?」

「そ、それは……」

簗君が遂に言葉に詰まった。響子先生は、簗君のことも知っている。当然、彼が情報操作や根回しなど姑息な手段を得意としていることも知っているはずである。だからこそ、彼の真意を見抜けたのだろう。

「さて、話は終わりです。去りなさい」

「嫌です。先生のお葬式に出ます」

「……なら、警察を呼ぶしかありませんね」

響子先生の言葉に、四人ともたじろぐ。だが、簗君が目配せすると、四人とも式場を後にした。その背中を見送ってから、響子先生を見る。

「まったく、大人になってもあの有り様なんて、どうしようもない人達ね」

そう言って先生がため息をつく。一方の僕とみそらは、顔を見合わせていた。恐らく、想いは同じだろう。互いに頷くと、みそらが口を開いた。

「あの、どうして私達を信じて助けてくれたんですか? 私も時羽も、先生にクラス担任をしてもらったことなんて無いのに……」

そう、響子先生とは、実は殆ど接点が無かったのだった。先生はあくまで『学年担任』であり、そもそもクラスを持っていなかった。にも関わらず、どうしてそこまで信じてくれたのか。すると、響子先生は僅かに微笑んだ。

「六年生の時の宿泊学習で、あなた達がいい子だってことを知ったからよ。って、いい歳した大人に『いい子』って言うのも変かしら」

「何かありましたっけ?」

首を傾げる僕とみそらに、響子先生が口を開く。

「みそらさんも時羽君も、常に色んな人のことを気にかけてくれてたじゃない。みそらさんは皆の交流を円滑にしてくれたし、時羽君は皆の輪に入れていない子に話しかけてあげたり。それを覚えていたから、迷わず助けたし、訃報の葉書を出して招待したのよ。何より、夫がいつもあなた達の話をしてたからね」

そう言って響子先生が優しい眼差しを僕達に向ける。たった一回の行事でのことを、数年経っても覚えているとは。教師という職業は、毎年沢山の生徒と触れ、送り出すものであると思っていたため、特別親しかったわけでもない自分たちのことを覚えているとは思わなかった。

「夫がよく話をしていたのは、すみれさん、あなたも同じよ」

「私も、ですか?」

ええ、と響子先生が頷く。

「ダンス部の部長として頑張ってたってね。部活に馴染めない子にも声をかけて、部を盛り上げてたってよく聞いてたわ。顧問として、やっぱり心配だったんでしょうね」

「先生……」

すみれ先輩がそう言って俯いてしまう。惣助先生は、すみれ先輩が部長を務めていたダンス部の顧問でもあった。先輩と先生との間に、どんなやり取りがあって、どんな想いが交錯していたのかは、想像するしかない。だが、先輩がこうしてお葬式に呼ばれたことと、惣助先生が響子先生に部活の話をよくしていたことから、浅くない絆が築かれていたことは分かる。僕がそうして想いを馳せていると、響子先生がそうだと声を上げた。

「時羽君に渡すものがあったのよ」

先生はそう言うと、ポケットから何かを取り出した。見ると、それは封筒であった。

「先生、それは……」

「夫の遺書よ」

その言葉に、声が出ない。惣助先生の遺書。そんな大事なものを、僕なんかが読んでもいいのだろうか。そう思った時、ふと記憶が脳裏を過った。

『時羽に宛てた『あれ』は、どうか読んでくれ』

不思議な夢で惣助先生が言っていた言葉である。夢の中では何のことか分からなかったが、先生が僕に遺したものとは、まさか。

「それって、まさか、僕宛ての……」

僕がそう言うと、響子先生は目を丸くした。

「その通り。よく分かったわね。そう、夫が遺した遺書は二つあったの。一つは、私をはじめとした周囲の人に向けてのもの。そしてもう一つは、時羽君、あなた個人に向けてのものよ」

先生はそう言うと、封筒を僕に差し出した。

「あなたに向けてのものだから、あなたが読むべきだと思ってね。だから、どうぞ」

差し出した封筒をそっと受け取る。先生が、死の間際に僕に向けて記した言葉。一体、何が書かれているのだろうか。

「あの、先生。惣助先生の葬儀が先では? 時羽も、先生の顔、見たいでしょうし」

みそらがそう言うと、響子先生は首を振った。

「申し訳ないけど、夫の顔は、とても他人に見せられるような状態じゃないのよ。死に方が死に方なだけにね。だから、最後の対面は無し。代わりに、遺書を読んでもらいたいの」

「見せられないって……しかも『遺書』ってことは、まさか!」

口元を押さえて絶句するすみれ先輩に、響子先生が静かに頷く。だが、どちらもそれ以上先生の死について深く掘り下げることはしなかった。

「時羽君、読んであげて。夫があなたに向けて遺した、最期の想いを」

「……分かりました」

先生の言葉に頷くと、僕は封筒の封をそっと開けた。それを見て、みそらが僕から少し離れる。あくまで僕に向けて書かれたものだから、自分は読むべきではないと思っての行動だろう。みそらに一瞬視線を向けてから、封筒の中身を取り出して広げる。そこには、惣助先生らしい、決して綺麗とは呼べないが誠意のこもった字が並んでいた。


文姫時羽へ

お前がこれを読んでいるということは、俺はすでにこの世にいなくて、死因も知っていることと思う。まずは、申し訳なかった。教師だからとそれらしい御託を並べて、教え子を無責任に励ましておいて、自分は早々に生きることを放棄してしまって。それについては、一切弁解しない。どんな批判も、甘んじて受け入れよう。

さて、こうしてお前宛てに別個に手紙を遺したのは、お前に伝えたいことがあったからだ。中学生の時のお前は、自分は何の役にも立たない、生きている意味なんて無いと繰り返し呟いていたな。自分で覚えてるか。その度に俺は、色んな言葉でお前を励ましてきた。受験で煮詰まっていた夏には、風鈴もあげたな。あの時は、それらしいことをあれこれ言ったが、お前が支えになっている人間が、想像でも何でもなく、ちゃんといた。

他でもない、この俺が、そうだった。

最初は、繊細な教え子をサポートできればくらいの気持ちだった。でも、お前は、俺にない色んなものを持っていた。話す度に、お前は俺に沢山の新しいことを教えてくれた。もっとも、お前に教えた自覚は無いと思うが。そんな、無限の未来を秘めた教え子が、逆風に晒されている。俺は、担任としてだけでなく、一人の大人としてお前を守らなければと思うようになった。そして、気づけば、お前を守り支えることが、俺の喜びになっていた。そう、時羽、お前を支えるつもりが、気づけば立場が逆転していたんだ。時羽の存在が、俺の支えになっていた。きっとこう書くと、お前は重荷に感じてしまうだろうが、その必要は無い。寧ろ、お前が欲していた、自分の生きる意味が一欠片でもあったことを、喜んでほしい。そうしてお前は、高校に受かって、中学を出ていった。お前が卒業した時、嬉しい気持ちも当然あったが、不安な気持ちもあった。俺の知らないところで、またツラい目に遭うのではないか、と。だが、お前には、みそらという最大の理解者がいる。アイツがいる限り大丈夫だろうと思うことにした。おっと、これはみそら本人に言うなよ。

お前達を送り出してからのことは、省略する。おおまかなことは、家内辺りから聞いただろうからな。それに、うつ病が見せる絶望の景色は、お前が一番知ってるはずだからな。そんなことよりも、お前に伝えたいありったけの想いを、最期にここに綴ることにする。

まず、お前は、無限の未来と可能性を秘めている。繊細ということは、些細なことにも傷つきやすいということ。だが、言葉を換えれば、些細なことにも気づけるということ。お前にしか見えない景色、聞こえない音、感じ取れない感情があるはずだ。弱みだと言っていた『繊細さ』を光に変えて周りを見渡せば、きっと道が見えるだろう。もっとも、その『光』をどう活かすのかは、お前次第だけどな。ただ、小さなことから大きなことまで、活かし方はいくらでもあるだろう。

そして、一番伝えたかったこと。それは、お前は絶対に独りなんかではない、ということだ。今これを読んでいる時羽が、どんな大人になって、どんな仕事をしているのかは分からない。もしかしたら、上手く仕事を見つけられていないかもしれない。だけど、これだけは断言できる。お前には、味方がいる。もし今それらしき人がいなくても、この先絶対に出来る。無論、お前の性格を気に入らない人間もいるだろう。だが、お前の優しさと誠実さは、ホンモノだ。そして、それを見ている人が、必ずいる。お前は、お前を認めて受け入れてくれる人を、大切にしていけばいい。お前にとって、その『味方』が替えの効かない存在であるように、相手にとっても、お前は替えの効かない存在だ。俺みたいに「消えたい」と思った時は、これを思い出してくれ。きっと、お前をこの世に繋ぎ止めてくれるだろう。

すまない、色々と書いていたら長くなってしまった。さて、そろそろこの手紙も終わりにしないといけない。ならば、それらしく締めくくろう。

生まれてきてくれて、ありがとう。俺の教え子になってくれて、ありがとう。俺の支えになってくれて、ありがとう。そしてどうか、幸せになってくれ。俺の大切な文姫時羽、元気でな。

日笠惣助


手紙は、そこで終わっていた。遺書というから、悲しみや苦しみが綴られていると思っていたが、いざ読んでみると、まるで違った。そこに綴られていたのは、僕が先生の支えになっていたという事実と、先生なりの不器用ながらも力強いエール、そして、僕の幸せを願う言葉であった。これまで、僕は色んな人から忌み嫌われ、蔑まれてきた。死を願われたことや、生まれたこと自体を呪われたことも数え切れないほどある。だが、僕という人間が生きていることを認め、それどころか幸せを願われたことは無かった。夢の中で見た先生に、僕の知っている先生の面影は無かったが、先生は、最期の最後まで、僕の知っている優しい先生の片鱗を持ってくれていた。僕が慕い、感謝している恩師は、その命が尽きる瞬間まで、確かにいた。

「……時羽?」

無言で手紙を封筒にしまい、ポケットに入れた僕に、みそらが声をかける。だが、その声は、殆ど僕に届いていなかった。先生は、確かに僕のことを想ってくれていた。うつ病という病に心を蝕まれようと、その心は失わなかった。先生は、僕の応援者であった。そして、その先生は、もういない。温かな現実と、氷より冷たい現実が、この胸に浸透し、心の奥底から感情が一気に湧き出る。それは胸を一瞬で満たし、すぐに溢れ出てきた。

「うぅっ、先生……」

視界が滲み、膝から力が抜けて崩れ落ちてしまう。こうなると最後、涙がとめどなく溢れ、嗚咽混じりに咽び泣くしかなかった。まるで、宝物を失くしてしまった子供のように。周りの目も気にせず、僕は泣きじゃくった。どうして、いなくなってしまったの、と。僕だって、先生に伝えたいことがあった。僕だって、先生にありがとうと言いたかった。でも、その願いはもう叶わない。

「時羽……」

みそらの声と共に、背中を擦られる感覚が伝わってくる。みそらが僕の名前を呼ぶその声もまた、震えていた。みそらは、先生の遺書を読んでいない。しかし、気持ちは同じだろう。

「替えの効かない存在って言ってたのに……惣助先生だって、他の誰でも替えになれない。僕達にとって、ただ一人の恩師。なのに、それなのに、どうして……」

相手にとって、替えの効かない存在。遺書にそう綴ったのなら、先生だってそのことは分かっているはず。ならば、僕達にとって、惣助先生が他の誰でも替えになれないことだって、分かったはずである。なのに、どうして。なぜという気持ちは尽きないが、これ以上悔い続ける気にもなれなかった。きっと『生き地獄』の苦しみに耐えきれずに、この選択をしたのだろう。どうしてと悔い続けるのは、先生を責めることと同義に思えて、あまりに酷な気がした。

「時羽君……」

僕の名前を呼ぶすみれ先輩の声もまた、明らかに震えていた。惣助先生を『恩師』と思っているのは、先輩も同じである。先輩と先生の間に、どんな物語があるのかは分からない。しかし、先輩のたったのその一言で、深い絆が築かれていたことは分かった。僕、みそら、すみれ先輩。少なくとも、僕達三人にとっては、先生は他の誰でも替えになれない、たった一人の『恩師』である。先生が埋めていた心の穴は、もう、埋まらない。

人は、生きている。生きている以上、いつかは死が訪れる。しかし、その人がいなくなっても、周りの時は止まらない。そのまま進んでいく。もし、死んだ人が、誰かの心の中の歯車の一つになっていたとしたら。その『誰か』は、二度と埋まらない穴を抱えたまま、その先を生き続けることになる。当たり前のことのはずなのに、ひどく残酷に思えた。僕も、みそらも、先輩も、先生が埋めてくれていたはずの『穴』を抱えたまま、この先も生きていかなければならない。

「まったく、夫も罪な人よね。大切な教え子を三人も泣かせて。本当、どこまでも馬鹿な人……」

響子先生が、ため息をつきながら呟く。しかし、その先生の声もまた、微かに震えていた。嘗ての教え子の前でみっともない姿を見せたくないのか必死に堪えているようだが、それが却って、響子先生の悲しみの深さを表していた。響子先生にとっては、誰よりも近しい存在だったのだ。僕達より抱える『穴』ははるかに大きいだろう。それなのに、気丈に振る舞っている先生は、本当に強い人である。そうして僕が悲しみに暮れていると、響子先生がふと声を上げた。

「そうそう、時羽君が遺書を読んだら伝えたいことがあったのよ」

「伝えたいこと、ですか?」

顔を上げて、首を傾げる。すると、響子先生は大きく頷いた。

「夫の遺言……に近いものよ」

「遺言……」

またしても俯く僕に、響子先生が首を振る。

「だから、遺言『に近いもの』よ。実際に夫が死の間際に言い遺したわけじゃないわ。ただ、夫が最後にあなたについて言及した時の言葉を伝えないと、と思ってね」

「先生は、何と?」

僕がそう言うと、響子先生は僅かに声を詰まらせた。それから、力強い口調でこう言った。

「『時羽は、最高の教え子だ。出会えて本当に良かった』って」

その瞬間、僕の時が止まった。あれだけ激しく動いていた鼓動が止まり、あれだけ回り続けていた頭が真っ白になり、あれだけ沢山の感情と言葉が渦巻いていた心が、空っぽになった。僕が、惣助先生の最高の教え子。その言葉は、最初はすぐに入ってこなかった。しかし、その一言に込められた想いや過去の記憶が胸に染み込み、一気に浸透していった。そして、先生の言葉がすっかり僕の中に染み渡った、その時。

「せ、せんせぇ!」

胸の奥に溜め込んでいたものが、一気に爆発した。もう抑えることなど出来ない。感情が噴き出すままに、僕は床に伏せて大声で泣きじゃくった。それはもう、大人としてはあまりにもみっともないくらいに、大切なおもちゃを壊して泣き叫ぶ子供のように。今この瞬間、僕は、八年前の思春期の少年に戻っていた。周りから散々馬鹿にされ、何度も哀れな道化師に仕立て上げられ、生きることすらも当たり前のように否定され続けてきた。そんな中、暗闇の奈落で座り込んでいた僕に、一つの淡い灯りをくれた、大切な先生。先を生きる者として教え導いてくれただけではない。同じ目線に立って話を聞き、自分のことのように悩み、不器用ながらも力強いエールを送ってくれたり、助言をくれたりした。先生が僕のことを『最高の教え子』と言うなら、僕は惣助先生のことを『最高の恩師』と言おう。だが、その先生は、もうこの世にいない。僕だって、叶うなら先生に伝えたかった。

惣助先生に出会えて、本当に良かった、と。

「ときは……!」

床に伏せて大泣きする僕を、みそらが起こしてそっと抱きしめてくれた。小さい頃、泣いている僕をみそらが抱きしめてくれたことは何度もあった。泣きじゃくる僕を、もう大丈夫だと安心させるために。だが、今は違う。涙で霞む視界の中に映ったみそらの顔は、今まで見たこともないくらいに涙で滅茶苦茶になっていた。双子の姉として、僕を慰めるために半ば反射的に抱きしめてくれたのは間違いないが、それだけではない。僕がどうかではなく、みそらが寂しいのだ。みそら自身が、悲しくて、寂しくて、仕方ない。血の繋がった双子の弟として、みそらの『ただ一人の弟』として、その気持ちは手に取るように分かった。みそらは、僕を支えてきてくれた。ならば、僕も『ただ一人の姉』を、支えよう。

「え、時羽……?」

みそらを抱きしめ返すと、みそらが少し驚いたように顔を上げた。涙で光るその瞳を見つめて、小さく頷く。

「……僕も、同じ気持ちだよ」

そう言った瞬間、みそらの顔が一気に歪んだ。そして、聴く者の心を揺さぶるような激しい慟哭の声をあげた。そう、それでいい。みそらばかりが苦労を背負い込み、感情を飲み込む必要は無い。みそらが僕を支えてくれるのなら、僕だってみそらを支えてみせる。

それが、先生の言う『替えの効かない存在』の意味だと、信じて。

「時羽君、強くなったわね」

響子先生の言葉に、首を振る。

「強くなんかないですよ。今も僕はあの時のまま、弱いままです。でも……」

でも。

「僕は『僕』として、生きていきます」

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