9.南風の泣き声

ふと、目を覚ます。そこは、見覚えのある教室であった。僕が三年間を過ごした中学校の教室のどれか。僕は、机の上で突っ伏して眠っていた。思わず自分の姿を見ると、今の大人のままであった。これは、一体。そう思い戸惑っていると、ふと階上から扉の開く音がした。この上は、屋上である。

「(誰か、いるのかな?)」

椅子から立ち上がり、教室を出て階段を上る。見えてきた屋上への扉は、少しだけ開いていた。その扉を、そっと押し開ける。すると、途端に夏の熱い風が吹きつけてきた。真夏の照りつける太陽の日差しに、思わず目を細める。それからゆっくりと横を見ると、そこに『その人』はいた。

「せ、先生……」

そう、惣助先生であった。思わず漏れ出た僕の声に気がついた先生は、僕の方を見ると片手を上げた。昔から変わらない、先生の軽い挨拶である。

「おう、時羽か。久しいな。ま、座りな」

先生に促され、隣に座る。この感覚も、久しぶりである。

「それにしても、本当に久しぶりだな。卒業以来だから、えっと、八年ぶりか?」

「そうですね」

頷く僕に、先生がそうかと深く頷く。改めて数字にすると、本当に昔のことであると実感する。僕が一人でしみじみしていると、ふいに先生が僕の身体をじっくり眺め始めた。

「……先生、どうかしました?」

「いや、立派になったと思ってな。順当に大人になったようで何よりだ。教師冥利に尽きるってもんよ」

「そんな……僕は、胸を張れる大人ではありませんよ」

首を振る僕の顔を、先生が覗き込む。

「いや、俺には分かる。ちゃんと生きてきたってことがな。何も、いい会社に入ってキャリアを築くことばかりが立派ではない。どんな道だろうが、歩いて今そこにいるなら、立派に生きてきたってもんだろうよ」

先生の言葉に、俯いてしまう。いい会社、よりよいキャリア。精神を病み、まともに就職活動すら出来なくなった僕とは縁遠い言葉である。だが、確かに僕は、僕なりの道を歩いて、今ここに生きている。これでも立派に大人として生きていると言ってもいいのだろうか。

「ところで、みそらはどうだ? 元気か?」

先生に言われて、反射的にポケットを探る。すると、奇妙なことに一枚の写真が入っていた。見ると、それは今年のロンドン公演最終日に、仲間に舞台上で撮ってもらった、みそらと僕とのツーショット写真であった。着物姿のみそらの笑顔が眩しい。それを覗き込んで、先生が何とも言えないため息をつく。

「ほぉ、昔から容姿端麗だとは思ってたが、こんな美人に成長していたとはな。美男美女の双子の姉弟、写真映えするなぁ」

そう言って先生が笑う。豪快、とまではいかないが、かなり派手な笑い方である。細かいことを気にせず、生徒のために真っ直ぐ向き合って共に走り抜ける先生。そんな先生が、好きだった。今でも好きだ。迷いなく恩師と呼べるくらいには、尊敬している。

だからこそ、絶望も大きかった。

「あの、先生……」

そこまで言いかかって、その先が出てこない。どうして自ら命を絶ってしまったのか。訊きたかったが、訊けなかった。その理由を訊くということは、自殺という選択をしたことを責めることも自ずと含んでしまうからである。何も、好きで自ら命を絶ったわけではあるまい。弱りに弱って、耐えきれずにその選択をしてしまった。ならば、追い討ちをかけるような真似はできなかった。そうして僕が言葉に詰まっていると、先生の方が静かに口を開いた。

「中学の時にあげた風鈴、今もあるか?」

「あります」

「なら、その時にした話、覚えてるか?」

「……まぁ」

僕が曖昧に頷くと、先生はふと遠くを見つめた。澄み渡った夏空に、綿飴のような白い雲が浮かんでいる。

「周りの『風』を受けて、自分だけの音を奏でる。周りが喜んでいるならそれに共鳴して、逆に悲しんでいるなら、その『風』を感知して、周りを癒す音を奏でる。お前は、そんな人間なんだと話したな。でもな……」

そこまで言うと、先生は力無く首を振った。

「現実はそんなに綺麗じゃなかった」

「……と、言うのは?」

僕の言葉に、先生は俯いてしまった。その横顔には、影がかかっていた。こんなに暗く落ち込んだ先生は初めてである。

「お前と同じ病を抱えて、分かったよ。ほんの些細な感情でさえ、胸に深く突き刺さる。何でもないような言葉や光景でさえ、奥底に封じた嫌な記憶の封を簡単に解いてしまう。楽しい風なんて感じ取れない。この心を揺らすのは、怒りや悲しみ、苦しみの風ばかり。そんなものに揺られて、明るい気持ちに共鳴したり、まして周りを癒す音を奏でる、なんてことは出来ない」

そう呟く先生の横顔に、僕の知っている先生の面影は全く無かった。うつ病という病が、あんなに明るかった先生をここまで変えてしまったのか。

「この胸に響くのは、聞きたくない不協和音ばかり。その音は、一つの例外もなく、全部俺の心に突き刺さる。その先に待っていたのは『死にたい』って気持ちだった。いや、正確には『消えたい』か。人に気にかけてもらったり優しくされたりしても、全部「自分なんかのために申し訳ない」に変わって、そんな自分が嫌になる。不協和音を聞いて、負の感情を溜めて、吐き出すことも出来ずにまた溜まる。抜け出せない負のループの誕生ってわけだ」

その言葉に、僕は何も言えなかった。先生の抱えた苦しみに絶望したからではない。その絶望が、手に取るように分かるからであった。誰かに優しくされる度に「こんな自分なんかのために申し訳ない」と思い、次に「他人に手間をかける自分が嫌い」となってしまう。だが、この気持ちを普通の人に伝えても「その考え方は間違っている」と否定されるだけなのである。そうなると、今度は「間違っている、未熟で無知な自分が嫌い」となってしまう。そうやって、色んな道を辿って積もった「自分が嫌い」という気持ちが、いつしか「こんな自分を壊してやりたい」という、自分への破壊衝動に変化する。他人に迷惑をかける自分さえいなくなれば、直後に大きな迷惑をかけてしまうものの、周りの人にかかる負担は最終的に減る。消えたい自分と、自分に迷惑をかけられている他人。自分が消えれば、万々歳ではないか。そんな、狂いに狂った、壊れに壊れた、しかし止まらない論理と衝動に頭を支配されるのである。

「自殺はダメ」とか「生きなきゃいけない」とか、そんな陳腐な一般論は、耳に届かない。唯一繋ぎ止めるとすれば、「お前が死ぬと他人に迷惑がかかる」という言葉だろうか。少なくとも僕は、他人に迷惑をかけるという事を何より恐れてきた。それを自ら行おうなど、何という愚行だろうか。そう思い、一線を超えずに済む事はある。実際、僕が一度首を吊りかかった時、みそらがそう言ったおかげで、僕は思い留まった。ただ、僕を繋ぎ止めたのは、『自分のせいで他人に迷惑がかかる』という部分だけであり、自分の命がどうなるかに関してはまるで響かなかった。当然だろう。自分のことなどどうだっていい、寧ろ壊してやりたいくらいの気持ちなのだから。

「先生……」

自分が首を吊りかかった時のことを思い出し、言葉に詰まってしまう。僕は思い留まることが出来たが、先生は思い留まれなかった。僕と先生、一体何が違ったのだろうか。うつ病の重さか。希死念慮の波か。周りの環境か。少なくとも、今の僕には全く分からない。

この胸の奥底に吊るされた風鈴を鳴らすのは、吹き抜ける南風。しかし、その南風は、泣いていた。啜り泣く『南風の泣き声』ばかりが、風鈴を鳴らし、悲しい音を奏でる。そんな風にばかり吹かれて、不協和音を聞き続けて、生きていくことは容易ではない。きっと先生は、泣く風に吹かれ続けたことで、心をすり減らしてしまったのだろう。そして、限界を迎え、自ら命を絶ってしまった。勿論、自殺が許されないことなのは分かっている。だが、否定する気にもなれなかった。自殺を否定することは、生き地獄を生き続けろと、死より辛い現実を強いることになるから。

「時羽、ごめんな。無責任なことを言って。ツラい思いをさせたよな」

「そんな……」

慌てて首を振る。少なくとも僕は、先生の言葉に救われた。僕には、僕なりの生き方がある。真っ暗な闇の中で、一つの光る道標を置いてくれた。だが、この想いもきっと、先生には届かないのだろう。今の先生には、何も届かない。そうして、必死に先生にかける言葉を探していた、その時であった。ふと、南風が吹いた。それと同時に、意識が溶け出す。

「……そろそろ刻限か」

先生がそう言って、顔を上げる。何か言おうとしても、言葉にならない。まだ話したいことはあるのに。そうして、南風が更に強く吹いた、その時。

「言い訳はしない。ただ、時羽に宛てた『あれ』は、どうか読んでくれ」

先生は、静かに、しかし強い口調でそう言った。そして、瞬きした瞬間、先生はそこにいなかった。代わりに、そこにいたのは。

「やぁ、また会ったね」

「青喜田君……」

謎多き青年、青喜田君であった。彼は、呆気に取られている僕を見ると、静かな口調で話し始めた。

「あの時は、嘘をついてごめんね。僕は、君の同級生ではないんだ」

「なら、君は一体……」

僕が消え入りそうな声でそう言うと、青年は深く頷いた。

「僕はアオギタ。君たち人間の言葉を借りるなら『あやかし』になるのかな」

あやかし。その言葉に、軽く目眩がする。実は人間ではないと言われても、そう簡単には受け入れられない。だが、彼は構わず続けた。

「文姫時羽君。僕は、役目に従って確かに『つないだ』よ。後は、君次第だ。君の心で、未来へ繋がる希望を紡ぐんだ」

彼がそう言った瞬間、風が強く吹き、意識が吹き飛んだ。謎多きあやかし、アオギタ君。彼が、僕のために何かしてくれたのは分かった。僕が話した先生が何なのかはハッキリしないが、それでも構わない。

明日は、いよいよ先生のお葬式である。僕は、僕のこの心を、未来へ繋ぐことが出来るだろうか。

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