8.価値の無い命
気づけば僕は、縁側に座っていた。振り返って和室の時計を見ると、真夜中の二時過ぎを指していた。大叔母は勿論、みそらもすみれ先輩も、眠っている。この家で、僕一人だけが起きていた。簗君に、惣助先生の死の真実を知らされたあの時から、今ここまでの記憶は、正直殆ど無い。何となくご飯を食べ、何となくお風呂に入ったのは記憶にあるが、ハッキリとは思い出せなかった。
「先生……」
夕方に吊るした、先生からもらったガラスの風鈴を見上げて、独り声が出る。あんなに優しくて教育熱心で、教え子達の幸せを願っていた先生が、自ら命を絶つ道を選ぶなんて。しかも、あの先生が『うつ病』に苦しんでいたなんて。僕を支えてくれた代わりに、先生が病んでしまった。言い換えるなら、先生の幸せを挽き潰して、代わりに僕が幸せを得たということ。先生を犠牲にしたということ。そして先生は、「死にたい」という気持ちに抗いきれず、自らこの世を去ってしまった。
僕が、大好きだった惣助先生を、殺した。
「僕は、風鈴にはなれない……」
俯いて、首を振る。周りの『風』を受けて、自分だけの音を奏で、人を変えていく風鈴。あの時、先生は風鈴と僕を重ねて励ましてくれたが、僕は、そんな美しいものではない。もっと惨めで、醜くて、誰からも痰を吐かれて、道端に捨て置かれるような、そんな存在。そもそも、周りの『風』が無くたって、勝手に鳴ってしまう。
自分のことなんて、別にどうだっていい。価値の無いこの身がどうなろうが、知ったことではない。それよりも、自分なんかのせいで、周りに迷惑をかけたり、苦しませたりすることの方が余程嫌。こんなゴミにすらならないような自分のために割く労力や時間なんて、一欠片も無い。割いてもらうだけ、申し訳ない。そして、他人に迷惑をかける、そんな自分が、嫌い。その果てに待つのが「死にたい」という気持ちだった。周りがどんな反応を示そうが、勝手に落ち込んで、勝手に自分を嫌いになってしまう。風鈴なんかよりもずっとやかましい、迷惑な釣り鐘である。
僕は、先生が言うような美しい人間ではない。もっと薄汚れた、灰被りの廃人である。
「先生、ごめんなさい……」
色んな気持ちがない混ぜになって、でも一つの言葉に結びついて、口から漏れ出る。先生が言うような人間ではなくて、ごめんなさい。先生を苦しめて、ごめんなさい。そして。
最後まで生きられなくて、ごめんなさい。
「……」
和室のちゃぶ台の上にあったカッターナイフを持ち、刃を出す。今までは、『自殺』という選択肢が、自分がもっとも忌み嫌ってきた『他人に迷惑をかける』ということの最たる例だと分かっていたから、一回を除き踏み切れずにいた。一番良いのは、何も残さずに『消える』こと。だが、現実にそんな手段は当然存在しない。日本には、合法的に自死を選べる『安楽死』も存在しない。とはいえ、自殺なんて手段は取れない。その結果、悪夢の中で生かされ続けるという『生き地獄』を味わい続けてきた。『生きている』というより『消えられずにいる』と言った方が正解だろう。
だが、もう限界である。生きているだけで害悪どころか、間接的に人を、それも大好きだった恩師を殺したなんて、とても耐えられない。『人殺し』の自分を、滅茶苦茶に壊してしまいたかった。こんな人間、壊れて朽ちてしまえばいい。ゴミが処分されたところで、悲しむ人などいない。寧ろ、ゴミが清掃されれば喜ばれるのが世の常。ならば、もう迷わない。さようなら。誰にでもなく呟き、喉に刃を押し当てようとした、その時だった。
突然、カッターナイフを持っていた手を、誰かに掴まれた。振り返ると、そこにいたのは。
「え……?」
眠っているはずのみそらだった。みそらは、僕の顔を一瞥すると、何も言わずに僕の腕を柔道の要領で絞め上げ、カッターナイフを落とさせた。それを、自由の効く方の手で遠くに払い除けてから、更にキツく絞め上げる。その様子は、さながら犯人を絞め上げる警察官であった。みそらは、僕の腕をガッチリ固めながら、肩越しに僕の顔を覗き込んだ。
「どういうつもり?」
みそらが、僕の目を見つめて言い放つ。その声はひどく冷たかったが、同時に、とても熱くもあった。紫色の瞳に宿っていたのは、怒り、悲しみ、そして、家族として大切に持っていた、温かな気持ち。それらが混ざり合って、凛とした光を瞳に宿していた。
「ぼ、僕は……」
みそらの言葉無き剣幕に気圧されて、言葉が続かなかった。それにしびれを切らしたのか、みそらが改めて僕の顔を覗き込んだ。
「何があったのか、聞かせて。じゃないと、腕、解放しないから」
そう言って、更にキツく絞め上げる。絞め上げられた僕の腕は、骨が悲鳴を上げていた。みそらは小柄で華奢だが、女性にしては力が強い。これ以上絞め上げられては堪らない。それに、先生の死の真実は、みそらにも知ってもらわなければならない。ここは、話さなければ。
「実は……」
僕は、みそらに惣助先生の死の真実を話した。休職して『うつ病』を患い、教師を辞めてまで治療に専念したのに、完治叶わず自ら命を絶ってしまったこと。そして、自分が先生の死に間接的に関与していること。自分が先生を『殺した』こと。僕の話を、みそらは黙って聞いていた。そして、話が終わると、静かに口を開いた。
「そっか、先生が自分で……」
話を聞き終えたみそらは、悲しげに目を伏せた。当然の反応だろう。病死ならまだ諦めもついたかもしれないが、自殺となると、たとえ何もできなかったとしても悔やまれる。
「でもさ、時羽のせいで先生が病んだって言ってたけど、時羽のせいじゃないと思うよ」
「いや、僕のせいで間違いないよ。『介護疲れ』って言うのかな。うつ病患者を支えてた人が疲れてうつ病になるってことはよくあるみたいだし」
うつ病患者を支えていた人が、疲れてしまい、その人までうつ病になってしまう。そんな『うつ病の負の連鎖』が起きることを、僕は知っている。きっと、僕のせいで先生は疲れてしまったのだろう。すると、みそらは小さく頷いた。
「確かに、疲れないって言ったら嘘になるかも。色々と考えることはあるし、気をつけることもあるから」
「やっぱり……」
だが、そこでみそらは首を振った。
「でもね、疲れるから迷惑ってわけじゃないの。寧ろ、嬉しいんだ」
「えっ?」
驚く僕を見て、みそらは僅かに微笑んだ。それから、絞め上げていた腕を解放し、労るように僕の腕を擦りながら話し始めた。
「大切な人の力になれる。大切な人を支えていられる。大切な人が頼ってくれている。それってすごく嬉しいことじゃない? 大切な誰かのためになれるなら、自分の疲れなんて何でもなくなるんだよ」
「えっと、うーん……」
何だかピンと来なくて、首を傾げてしまう。すると、みそらはズイと顔を近づけた。僕達双子で共通の、紫の瞳が僕を捉える。
「なら、こうしようか。時羽にとって、大切な人って誰?」
「チームの、仲間かな」
「その仲間が困っていたから、一緒に頭を悩ませて悩みを解決してあげた。疲れてないっていえる?」
「……いや、全く疲れてないことはないかな」
「じゃあ、仲間の悩み事の相談に乗ったのは、時羽にとって迷惑なこと?」
「ううん、大切な仲間だもん。それくらい――」
僕がそこまで言った時、みそらはそれだよと言って笑顔を浮かべた。
「大切な人のためなら、自分の疲れとか気にならないの。そんなことより、大切な人の力になれた喜びとか嬉しさの方がずっと大きい。少なくとも、私はそうだよ。そして、きっと先生もそうだったんだと思う」
大切な人の力になれるのなら、自分にかかる負担なんて問題にならない。完全に飲み込めたわけではないが、みそらが言わんとしていることは何となく分かる気がした。負荷をかけているから迷惑になっている。それは、自分が勝手に作り出した『檻』に過ぎなかった。僕がそんな事を考えていると、みそらが外に目を向けた。
「それにね、先生、私に言ったことがあるんだ。『時羽が寄りかかっている時よりも、時羽が何も言わない時の方がずっと不安だ』って。時羽が私達に寄りかかること、時羽の言葉を借りるなら、私達に負担をかけることが、逆に私達の安心に繋がることだってあるんだよ。あ、一人で抱え込まずに頼ってくれてるんだって」
その言葉を聞いた瞬間、頬を温かい何かが伝った。僕が確認する前に、みそらが指でそれをそっと拭った。
「だから、これからもどんどん私を頼って。ううん、私だけじゃない。チームの皆を、もっと頼って。『自分なんかのために』じゃなくて、『時羽のためだからこそ』なんだよ。時羽は、他の誰でも代えになれない存在。私の弟は、時羽、たった一人だから」
そこまで聞いた瞬間、瞼が一気に熱くなって、涙がとめどなく溢れてきた。涙が止まらない目を押さえて俯き、嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる。その頭を、みそらがそっと撫でてくれた。
「前に時羽が首を吊ろうとした時も、こんな感じだったね。あの時は、自殺なんてダメとか、生きなきゃいけないんだとかって空っぽな一般論をいっぱいぶつけて力技で止めたけど、時羽が欲しかった言葉は、そうじゃないんだよね。ごめんね、時羽。私、もっと頑張るから」
「そんな、みそらが謝ることなんて……」
嗚咽を堪えながら話そうとするが、耐えきれずにまた涙が溢れてしまう。なぜここまで泣いているのだろうか。申し訳ないからか。安心しているからか。自分を受け入れてくれたからか。明確に言葉では表せない。ただ一つ、みそらの言葉は、僕の心の柔らかい部分にそっと触れてくれるような感覚を覚えるものだったことは確かであった。
「さてと、明日早いし、寝ますか。あ、カッターは戻さないとね」
縁側に放置されたカッターナイフを元の場所に置くと、僕はみそらと共に二階の部屋へと戻った。そして、眠っているすみれ先輩を起こさないように、二人それぞれ布団に入った。
明日、いよいよ先生と最後のお別れになる。僕は、どんな気持ちで臨むべきなのだろうか。
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