2.懐かしの学び舎
バスから降りると、見覚えのある校舎がすぐに見えた。三年間通った、懐かしく、しかし忌々しい中学校。あの頃とほぼ変わっておらず、僕の記憶の中にあるままの姿であった。変わったとすれば、賑やかさだろうか。僕達がいた頃ですら廃れ気味だったのに、今は部活に励む中学生の声が殆ど聞こえない。あれから、更に子供が減ったのだと思い知らされる。だからといって、寂しく思うことはないのだが。
「変わらないね。敢えて言うなら、より寂しくなったかな」
校舎を見て、みそらがため息をつく。みそらの目にも、廃れているように映っているようである。それもそうだろう。今は夏休みの時期で、部活が盛んになるはずなのに、部活の声がまるでしないのだから。僕達がいた頃は、ランニングのかけ声とか応援の声とか、もう少ししていた。そうして僕達が懐かしの校舎を見ていた、その時だった。
「折角だから、校舎を覗かせてもらわない?」
すみれ先輩が、突拍子もないことを言い始めた。思わぬ言葉に、僕とみそらと、二人同時にすみれ先輩の顔を見る。
「え、どうしてですか?」
みそらがそう言うと、すみれ先輩は、水田の向こうにある住宅街の方を見つめた。
「このまま、二人の大叔母さんの家に行ってもいいけどさ、その、仲がよろしくないって聞いたし、あまり顔を合わせたくないかなって」
その言葉に、みそらと二人で顔を見合わせる。すみれ先輩の言っていることは本当である。僕達の祖母の妹、大叔母の文姫洋子さんは、僕達姉弟のことをひどく嫌っている。今回も、最初は僕達を泊めるつもりなど毛頭なかったらしいが、老人ホームにいる祖母、つまり大叔母の姉が頼み込み、やむ無しということで泊めてもらえることになったのだった。因みに、惣助先生の訃報を知らせる葉書も、本当は祖母の家に届いていたのだが、それを大叔母がわざわざ僕達の家に転送してくれたのであった。それも祖母の頼みらしい。
僕達のことを嫌う大叔母。彼女とできるだけ顔を合わせたくないのは、すみれ先輩の言う通りであった。確かに、家に行くのを遅らせるのも手かもしれない。
「……それも、そうですね」
僕とみそらが頷くと、すみれ先輩も頷き返してくれた。この町が嫌で思い切って東京に出て、右も左も分からない中、日本舞踊をやってた二人ならできるはずだよと、稼ぐスキルとしてダンスを教えてくれたすみれ先輩。数少ない、昔から僕達姉弟を理解してくれている人である。
「なら、行こう」
すみれ先輩の後について、苔だらけになった石の校門を潜る。それから、僕達以外に誰もいない、真夏のグラウンドを歩く。時折吹く風に巻き上げられた砂の香りが、僕の奥深くに眠った古ぼけた記憶に色をつけていく。夏休み直前の、丁度こんな感じの暑い日に、体育でこのグラウンドを何周もさせられたことがあった。そんな中、何故か僕だけ周数を増やされ、クラスの嘲笑に耐えながら一人走り続けた。意識が飛びそうな中、何とか走り終えた時、みそらが真っ先に駆け寄ってきてくれた。そして、水筒を差し出してくれた。だが、その水筒は体育教師によって取り上げられ、遠くに投げ捨てられた。
『どうせ出来損ないなんだ。熱中症で運悪く死んだ、とかならみんな幸せだろ?』
あの時の体育教師の嘲笑うような声と、悔しそうなみそらの瞳、そして、その瞳から零れ落ちた涙は、今でも忘れられない。時間の流れと共に、奥底に封じ込められたと思っていた、忌まわしき記憶。しかし、いくら奥深くに閉じ込めていても、些細なことで簡単に蘇ってしまう。
「時羽、どうかした?」
みそらの声で我に返る。気づくと、みそらもすみれ先輩も、僕よりずっと前にいた。どうやら、過去の記憶に触れ、立ち止まっていたらしい。
「いや、なんでもない。行こうか」
誤魔化すように首を振って、みそら達についていった。グラウンドの端まで行き、学校の正面入口へと辿り着く。この入口は、学校の来賓や教職員などが使うものであり、生徒は別の入口を使っていたため、あまり馴染みがない。ここを潜るとなると、何だか緊張してくる。
「こんにちはー……」
すみれ先輩が、先陣を切って扉を開ける。すると、途端に覚えのある空気が鼻を満たした。言葉で表すとなると難しいが、この空気、間違いなく三年間を過ごした嘗ての学び舎であった。そうして僕が辺りを見渡していた、その時だった。
「あのー、どちら様ですか?」
ふいに横から声がした。見ると、小窓から、事務員さんらしき中年の女性が、僕達のことを不審そうに見つめていた。それを見て、すみれ先輩が女性の方へと歩く。
「突然すみません。私達、この学校の卒業生でして……」
それから、しばらくすみれ先輩と女性のやり取りが続く。すみれ先輩が卒業年度まで言ってくれたお陰で、向こうも嘗ての在校生名簿から確認が取れたようであった。女性は、すみれ先輩に、首から提げるタイプの名札を三人分手渡した。
「校舎内を歩かれる際は、そちらのゲスト証を首から提げて下さい。今は夏休み期間ですので、授業はやっていませんが、特別教室などにはみだりに立ち入らないで下さい」
女性の言葉に頷くと、僕達はゲスト証を首から提げ、スリッパに履き替えて校舎内へと踏み込んだ。それから左右を見ると、途端に記憶の奥底が刺激された。幾度となく通った、正面玄関前の廊下。僕が通っていた頃と、何も変わっていない。
「さて、何処から行こうか?」
すみれ先輩がみそらと僕を見る。何処を最初に見るべきか。直感だが、決まっていた。
「教室から見ませんか? 一番馴染みのあるところですし」
「なるほどね。みそらちゃんは?」
先輩の言葉に、みそらは構いませんと頷いた。
「じゃあ、行こうか。って、そういや、何年生の教室を見るの?」
「二年生、ですかね。一年生はロクな思い出が無いですし」
僕の言葉に、すみれ先輩はそっかと申し訳なさそうに俯いた。一年生の時期に、いい思い出など一つもない。当事者がおらずとも、一年生の大半を過ごした場所には行きたくなかった。
「……行こう」
すみれ先輩に先導されて、階段を上がっていく。三階まで上り、廊下を歩くと、見慣れた空間が広がっていた。特に個性の無い、似たような部屋がズラリと並んだこの空間。僕達が二年生の一年間を過ごした空間であった。
「時羽君達は、何組だったんだっけ?」
「ここです」
そう言って、嘗て過ごしたクラスの教室の戸を開ける。あれから数年の時を経て、戸の建て付けが若干悪くなっていたが、難なく開けることが出来た。途端に目に入ってきたのは、もう長いこと忘れていた、学びの空間であった。机が規則正しく並べられ、チョークの白い粉が擦り込まれた黒板が等しくその机達を見下ろしている、飾り気の無い空間。僕達は、学生時代の大半を、この部屋で過ごした。懐かしいといえば懐かしいのだが、同時に、仄暗い何かが、胸の奥から込み上げてきていた。
「あっ、これ……」
みそらがそう言って、教室後方にある掲示板に顔を近づける。つられて傍に寄ってみると、みそらが指でなぞる先に、縦長の小さな穴が空いていた。それを見た途端に、頭に鈍い痛みが走る。そうだ、この穴、忘れもしない。
「この穴が、どうかしたの?」
すみれ先輩が首を傾げる。僕達が二年生になった時には、先輩は卒業していたので、知らなくても当然だろう。あの『事件』のことは。
「実は……」
みそらが、何も知らないすみれ先輩に話し始める。だが、僕の中ではとっくに鮮明に思い出されていた。
あれは、午後の数学の授業の時であった。その日、数学の先生はひどく苛立っていた。どうして苛立っていたのかは分からない。職員室で別の先生と言い合いになったのか、それとも生徒に楯突かれて気に入らなかったのか。とにかく、先生は初めからあからさまに不機嫌な様子で授業を進めていた。その日扱っていたのは、難易度の高い単元であり、正直理解が追いついていなかった。しかし、そういう時に限って悪いことというのは起こるものである。
『文姫、この問題を解け』
なんと、分からない問題を板書で解くように言われてしまったのである。
『私ですか?』
『違う、知恵遅れの方だ』
大勢のクラスメートの前で『知恵遅れ』呼ばわりされたことも悲しかったが、突っかかると却って面倒な事になる気がしたので、僕は何も言わずに前に出て、黒板の前に立った。とはいえ、相手は分からない問題である。すぐに答えは書けない。
『チッ、こんなのも分からねぇのか。知恵遅れのグズ如きが、健全な連中の貴重な時間を奪っていいと思ってんのか?』
苛立った先生の心無い言葉に、胸の奥にある大切な何かを傷つけられながらも、問題と向き合う。と、そこで閃くものがあった。そうか、この問題なら、こう解けば。そう思った僕は、板書に式と答えを書き、先生に目配せをして席に戻った。
しかし、事件は席に座りかけた時に起きた。
『おい! 間違ってるぞ!』
突然、先生が大声を出して、教科書を床に叩きつけた。いきなりの出来事に、教室が凍りつく。座りかけた姿勢のまま様子を見ていると、先生が、鬼のような形相で僕を睨んだ。
『文姫! 貴様、どういうつもりだ! あれだけ健常者の時間を奪っておきながら、答えを間違えるなど、俺達を馬鹿にしているのか!』
『そんな、馬鹿になんて……』
『黙れ! 出来損ないが!』
弁明しようとした僕を一喝すると、先生は持っていたチョークを乱暴に振り回しながら怒鳴り始めた。
『大体、貴様のような異常者がどうして平気なツラさげてここにいるんだ! 貴様みたいな知恵遅れの死に損ないは、精神病棟の檻に放り込んでおくものだろうが! 生きる価値の無いゴミ虫が、健常者の邪魔ばかりしやがって!』
先生の罵詈雑言を、僕は黙って聞いていた。異常者、知恵遅れ、死に損ない、生きる価値の無いゴミ虫。どれも、正解だった。普通の人とは違って、普通に社会の中で生きていくのが難しい『異常者』で、考える力も大きく後退した『知恵遅れ』で、周りに迷惑しかかけない、さっさと死んでおくべきだった『死に損ない』で、そして、文字通り『生きる価値の無いゴミ虫』。先生の言葉に、僕は何一つ反論しなかった。だが、先生の怒りはそれだけでは収まらなかった。
『二度とここに来るな! 死ね! このクズが!』
棚に置いてあった裁ち鋏を手に取ると、なんと先生はそれを僕の顔に向かって投げてきた。力任せに投げられた鋏は、真っ直ぐ僕の方に飛んできた。このままでは、顔に鋏が突き刺さる。身の危険を感じた僕は、咄嗟に避けた。だが、裁ち鋏は僕の頬を掠め、頬から血が流れ出た。
『貴様……なぜ避けた!』
僕が裁ち鋏を避けたのを見て、先生がさらに怒り狂い、今度は教卓からカッターナイフを取り出した。それを見た瞬間、抑えつけていた恐怖心が一気に溢れ出た。このままでは、取り返しのつかない致命的な大怪我を負うことになる。そう思い、顔から血の気が一気に引いた、その時だった。
『いい加減にして下さい! これ以上、時羽を、私の大切な弟をいじめないで!』
前の方にいたみそらが立ち上がって教壇へと上がり、カッターナイフを持った先生を羽交い締めにした。体格差は歴然だったが、それでも、みそらは、己の危険を顧みずに僕を守ろうとしてくれた。だが、それが仇になった。
『貴様、あの出来損ないを庇う気か!』
『出来損ないじゃない! もうこれ以上、時羽を傷つけさせない!』
『なら、貴様もこうだ!』
先生は、みそらの拘束を振りほどくと、カッターナイフでみそらの右腕を切りつけた。白いブラウスが裂けて、腕から血が滴り落ちる。腕を切りつけられたみそらは、切られた箇所を手でおさえ、苦しそうに肩で息をしていた。だが、怒りに燃えるその目は、先生を確かに捉えていた。
「……というわけです。その時刺さった裁ち鋏の跡が、この穴なんです」
みそらの説明に、すみれ先輩は、何も言わずに口元を手で押さえていた。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「ひどい……ひどすぎる! どうしてそんなことができるの!」
そう言った直後、すみれ先輩はハッと目を見開いて、僕とみそらを交互に見た。
「って、二人は大丈夫だったの? その後は?」
「まぁ、流石に騒ぎになりましたね」
そこからは、非常に慌ただしかった。尋常でない大声と物音を聞いた隣のクラスの先生がやって来て、事件が発覚した。授業は自習となり、当事者であった先生と僕、みそらの三人は、校長室に連れて行かれ、事情聴取された。無論、僕とみそらは手当をしてもらってからだが。事情聴取の結果、生徒相手に傷害を起こしたということで、数学の先生は処分を受けた。
しかし、僕達姉弟まで怒られた。
『どんな理由があれど、先生に逆らうなど言語道断。先生の言葉や指導は、どんなに厳しくても甘んじて受け入れること。良薬は口に苦しというだろう。恩師の言葉は、ありがたく聞きなさい。特に、普通の生徒に後れを取っているのならな』
事情聴取をした教頭は、僕達にそう言った。僕のことを散々罵倒し、果てには裁ち鋏まで投げつけてきた教師を、あくまで『恩師』とし、その指導なら全て受け入れなければいけない。ならば、あの時、僕は裁ち鋏を避けずに顔面に受けていれば良かったということなのだろうか。それに、家族を庇ったみそらを切りつけた教師の傷害も、ありがたい『恩師の指導』だというのか。僕は、何が正しいのか分からなくなっていた。教師の指導なら、どんな罵詈雑言も暴行も、正当化されてしまうのだろうか。傷つけた教師が正しくて、傷つけられた僕達が悪い。特に、うつ病を抱えている僕は、何を言われてもされても当然。そういうことになってしまう。
健常者の時間を奪うつもりか。あの言葉が、耳から離れない。確かに僕は、精神疾患を抱えている『異常者』である。なら、健常者に迷惑をかけないように、生きなければいけないということなのだろうか。異常者如きが、健常者の足を引っ張るな。きっと、そういうことなのだろう。僕には、権利など一つもありはしない。異常者は異常者らしく、底辺を這いつくばって生きていくしかないのだろう。その時、僕はそんな絶望を抱いた。
『ごめんね、時羽。私、時羽のこと、守れなかった……』
教頭に散々怒られ、やっと解放された後、みそらはそう言って僕に頭を下げた。その姿に、僕は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。『出来損ない』で『死に損ない』で、何より『異常者』の自分如きのせいで、みそらにとんでもない負担と迷惑をかけてしまった。それどころか、深い傷を負わせてしまった。その罪の意識が、冷たい鉄の鎖となって、僕の心を強く締め付けた。
こんなに迷惑をかけてしまう、迷惑しかかけない存在なら、いっそ、消えてしまった方がいいのかもしれない。僕如きのせいで、みそらを悲しませるなんて、とても許されない。そんな、無力感にも似た強い絶望が、静かに押し寄せていた。
「そんな怪我をさせられて、二人とも大丈夫だったの?」
「時羽は大丈夫ですよ。ほら」
すみれ先輩の問いに、みそらがそう言って徐ろに僕の頬を指でなぞった。裁ち鋏で切れたのは左頬だったが、切れた跡はすっかり消えていた。みそらが触れた場所を見たすみれ先輩は、良かったと言って頷いた。
「みそらちゃんは?」
「それは……」
みそらは渋っていたが、覚悟したように頷くと、羽織っていた夏用カーディガンの袖を捲った。顕になった白い右腕には、うっすらとだが、鋭利な刃物で切られたような長い切り傷が残っていた。それを見て、すみれ先輩が息を呑む。
「そんな……まだ傷が残ってるの? こんな深い傷を子供に負わせるなんて、ひどいよ!」
みそらの右腕に残された傷跡をなぞりながら、すみれ先輩がしきりに首を振る。だが、僕達が負ったのは、刃物による傷だけではなかった。目には見えない、この心に深く深く刻まれた傷。身体の傷は、時間が経てば治るかもしれないが、心の傷はそうもいかない。何年経とうが、この傷は全く癒えてなどいない。
「そうだ、日笠先生は? あの先生は何か言ってくれなかったの?」
すみれ先輩が顔を上げて僕達の顔を見る。そう、この事件には、もう少しだけ続きがある。
「あの日の放課後、僕達は惣助先生に呼び出されました。職員室に行くと、続きは中庭で話そうってことになって、三人で中庭に行ったんです」
中庭に行くまでの間、惣助先生は一言も喋らなかった。だが、ガーゼの貼られた僕の頬や、包帯の巻かれたみそらの腕をしきりに気にしていたのは分かった。微妙に気まずい空気のまま、三人で中庭のベンチに腰掛けると、そこでようやく惣助先生は口を開いてくれた。
『あのさ、お前達に何から言うべきか考えてたんだが……』
そう言うと、先生は勢いよく頭を下げた。
『本当に申し訳ない! 俺がもっと目を光らせておけば、こんなことには……』
『やめて、くださいよ』
僕達は揃ってそう言っていた。惣助先生に、責任は無い。先生は悪くないのだから、謝ってほしくなどなかった。だが、先生は、そうはいかないと力強く首を振った。
『あの先生は、元から問題があると言われていたんだ。ただ、教師としての指導力だけは確かで、異を唱えられる人間がいなかったんだ。学年主任は勿論、教頭でさえ、強くは出られなかった』
そこで惣助先生は、僕達の顔を交互に見た。
『今回の事件、みそらも時羽も悪くない。悪いとすれば、火種を見過ごしていた俺だろうな』
『やめてくださいって!』
耐えられなくなったのか、みそらが大きな声を出した。潤んでいたその目は、縋るように惣助先生の顔を捉えていた。
『先生は何も悪くない! 悪いのは、私達を傷つけたあの先生です! お願いだからこれ以上背負わないで下さい……』
そこまで言うと、遂に限界を迎えたのか、みそらは俯いて涙を零し始めた。嗚咽を漏らしながら震える小さな頭を、惣助先生が撫でる。
『ありがとう、みそら。だけどな、俺は腐ってもお前達の担任だ。何より、子供を守るべき大人なんだ。それくらい、背負わせてくれ』
そこまで言うと、先生は僕の顔を見た。
『さてと、お前達それぞれに伝えたいことがあるんだ。まずは時羽』
そこで、ようやく落ち着いたのか、みそらが先生から離れた。その目は真っ赤に腫れていたが。
『言うまでもない事かもしれないが、あの先生の言っていた言葉は、全部聞き流せ。相当ひどい事を言われたみたいだが、全部無視していいからな。前にも言ったが、お前は周りが言うような人間じゃない。お前は、今のままでいい。いや、今の優しい時羽のままでいてくれ』
惣助先生の言葉に、僕は黙って頷くことしか出来なかった。今まで、根性が無いとか弱いとか言われて否定されることはあっても、繊細な僕がいいと受け入れてくれる人は殆どいなかった。先生の言葉は、確かに僕の心に染みた。
『次にみそら。時羽を庇って、先生から時羽を守ったらしいじゃないか』
『ええ……』
『その気持ちは大切だ。大切な家族を、弟を守りたい。みそらのその優しさと強さは、これからも大切にしてくれ』
でもな、と先生がみそらの顔を覗き込む。
『みそら、お前もまた、誰かにとって大切な存在なんだ。俺とか時羽とかにとって、な。お前が傷つくことで悲しむ人だっているんだ。誰かを守りたい強さも大切だが、みそらもまた、大切な存在であることを忘れないでくれ』
先生の言葉を、みそらもまた黙って聞いていた。僕への言葉より少し遠回しで分かりにくかったが、先生が何を言わんとしているのかはすぐに分かった。自分を大切にしなさい。そういうことだろう。確かに、みそらが僕を守ってくれるのは本当に嬉しいことだが、そのせいでみそらが傷つくと悲しい。みそらには、自分を大切にしてほしかった。
『とにかく、二人とも大変だったな。もしまた何かあったら、俺を頼ってくれ。俺は、お前達の味方だからな』
そう言って、先生は僕達の頭を撫でてくれた。夏も終わりの、緑が眩しい日のことであった。
「……そっか。そんなこと言ってくれたんだ」
僕の話を聞き終わったすみれ先輩は、目尻を拭って顔を上げた。その目は微かに潤んでいた。
「日笠先生はさ、私が部活で悩んでいた時にも話を聞いてくれたんだ。本当に、日笠先生がいてくれて良かった」
すみれ先輩のその言葉に、僕達が揃って頷いた、その時であった。
「貴様、どうしてここにいるんだ?」
ふと、入口の方で声がした。振り返ると、そこにいたのは。
「えっ、簗君……」
嘗ての同級生であった。
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