1.故郷再訪

日笠惣助が永眠致しました。

葉書には、そう書かれていた。滝のような豪雨が降る夏の日の午後、部屋のポストに届いた、一通の葉書。そこに書かれていたのは、嘗ての恩師の訃報であった。日笠惣助先生。僕達姉弟が中学生だった時に、かわいがってくれた先生である。特に、中学生で既にうつ病を発症していた僕のことを常に気にかけてくれ、卒業まで支えてくれた。そんな恩師が、亡くなった。双子の姉であるみそらと二人で葉書を見つめ、それから、お互いに顔を見合わせる。しかし、言葉は一切出てこなかった。その代わりに、頬を温かい何かが伝った。それはみそらも同じであり、僕が目尻を拭った瞬間、嗚咽を漏らしながら咽び泣き始めてしまった。みそらの嗚咽に涙を更に誘発されそうになりながら、何とか葉書の続きを読むと、僕達姉弟に、惣助先生の葬儀に来て欲しいと書かれていた。何度も救いの手を差し伸べてくれ、支えてくれた恩師の葬儀。僕の心は、決まっていた。

そこからは、本当に目まぐるしかった。仕事先への休暇の連絡、それから、同じ中学だった先輩、鈴風すみれ先輩への連絡など。すみれ先輩は、僕達姉弟より二つ上の先輩であり、東京に出て路頭に迷っていた僕達に、ダンスを教えてくれた先輩である。電話すると、彼女も惣助先生の訃報を受け取っていたとのことであり、一緒に先生の葬儀に出ることになった。そして、今に至る。

「まさか、二人とこんな形で会うことになるなんてね。活躍を聞いてたからこそ、もっと楽しい形で会いたかったよ」

故郷へ向かうバスの車内。すみれ先輩が、僕とみそらの顔を見て複雑な表情を浮かべる。僕達姉弟は、世界的に活躍するパフォーマンスチーム『シプソフィラ』で、和楽パフォーマーとして活動している。幼い頃から日本舞踊を習っていた経験を活かし、みそらが踊りを、僕が和楽の演奏を行って、観客を魅了している。散々迷った末に、今のチームに落ち着いたことは、すみれ先輩には教えていた。そして、いつか会って話そうと言って、長らく会えていなかったのだった。それが、恩師の葬儀という決して楽しくない機会に顔を合わせることになるとは。先輩の言う通り、せっかく会うならもっと楽しい形で会いたかった。

「ええ、本当ですよ。それにしても……」

そう言って、みそらが窓の外に目を向ける。

「もうここには二度と来ないと思ってたんですけどね」

窓の外は、古ぼけた住宅と、手入れのされていない荒れた雑木林、そして、青い稲が風に吹かれて靡く水田が広がっていた。廃れゆく田舎町、鶯町。嘗て、僕達が幼少期を過ごした故郷である。だが、僕もみそらも、この町にいい思い出がなく、もう来ないと思っていた。それが、こんな形で戻ってくることになるとは。

「そうだよね。特に、時羽君は酷い目に遭わされてたもんね。時羽君は何も悪くないのに」

そう言って、すみれ先輩が僕を見る。先輩の言う通り、僕は小学校にあがってからもれなくいじめの標的になり、散々な目に遭った。持っていた鉛筆を折られる、ランドセルを池に放り込まれる、給食のスープに掃除用の洗剤をこっそり入れられる、トイレに入っている時に、上からバケツで水をかけられる、など。僕が気弱で何も仕返しをしなかったため、いじめはエスカレートしていった。時には、濡れ衣を着せられて、教師に罵倒されながら、クラス全員の前で土下座させられたり、本当は池に突き落とされたのに、僕が自分から飛び込んだと嘘の告発をされて反省文を書かされたり、しまいには、階段から突き落とされて骨を折ったこともあった。散々な小学校時代を過ごし、やっとの思いで中学校に上がったが、状況は良くなるどころかさらに悪化した。

「時羽のうつ病を、誰かが言いふらして、今度は差別が始まって……もう、最悪でした」

みそらがそう言って俯く。膝の上に置かれていた手は、強く握りしめられていた。そう、中学に上がってから、僕が『うつ病』を発症していたことが発覚したのだ。診てくれたお医者さん曰く、小学生の時から既に患っていたのではないかとのことだったが、真相は分からない。ともあれ、僕は精神疾患を抱えて中学校生活を過ごすことになったのだった。

だが、精神疾患以外に、二つのことが僕を苦しめた。一つは、中学校のメンバーが、小学校の同級生とほぼ同じであったこと。都会ならまだしも、田舎になると、小学校から中学校へはほぼ同じメンバーで繰り上がることが殆どである。それは、僕の中学校も同じであり、学校が変わっただけで、教室で見る顔ぶれは小学校とほぼ変わらなかった。つまりそれは、僕をいじめていた連中もそのまま上がってきた、ということである。僕を苦しめたもう一つのことは、僕がうつ病患者であることが周囲に知られたことである。何処から漏れたのか、僕がうつ病を抱えているという話が、町中に、そして学校中に広まっていった。この二つのことが重なった結果、何が起きたのか。

『差別』と『いじめ』の二重苦である。

「学年違ったのに、私のところまで噂が聞こえてきてたからね。それで、アイツをいじめにいこうぜって上級生まで時羽君いじめに乗り出して。ホント、なんであそこまで酷いことになったんだろう……」

すみれ先輩が力無く首を振る。先輩の言う通り、同級生だけでなく、上級生、果てには教師まで、よってたかって僕を蔑み、徹底的に打ちのめした。ある時は、まだ教えていない範囲の問題を僕に解かせ、出来ないからと散々罵詈雑言を浴びせて、『出来損ないへの治療』だと黒板消しで頭を叩かれ、ある時は理由も無しに僕だけ体育のランニングの周数を増やされ、挙げ句『おかしい頭』を治してやるからと金属バットで頭を殴られ、ある時はいきなり上級生複数人に囲まれ、そのまま体育館裏に連行されて集団リンチに遭い、本当に散々であった。何度も行われたリンチやカツアゲの中で、気づいたみそらが身を挺して助けてくれた時もあった。みそらは、僕と違って極真空手を習っていたため、上級生の攻撃に応戦することも出来た。しかし、数的不利は流石に覆せず、そんな時は、みそら共々立てなくなるまで暴行され、金品を巻き上げられた。

出来損ない、死に損ない、クズにも失礼なクズ、腐ったもやし、根性無し、価値の無い馬鹿、失敗作、人の皮を被ったゴミ。よくもそこまで出るなと思うほど、不名誉なあだ名をつけられた。事あるごとに「貴様は普通に生きることも出来ないとんだ出来損ない」とか「死んだ方が世のためになるのに何故か生きてる死に損ない」とか、色々言われてきた。確かに、うつ病なんて患って、色んな人に迷惑をかけて。僕は、とんだ『出来損ない』だし、生まれなければ良かった『死に損ない』かもしれない。味方など殆どおらず、当たり前のように存在そのものを否定され続けてきた中で、僕はそう思うようになっていった。

しかし、そんな僕を変えてくれた人がいた。

「でも、こんな僕を先生は認めてくれたんです」

そう、惣助先生であった。惣助先生が担任になったのは二年生からであった。クラスは、表向きは普通だったが、みそら以外全員僕の敵であった。二年生になってからもいじめは続き、ある日の昼休み、クラスメートに給食をひっくり返され、通りかかった先生に何故か僕が怒られ、泣きながら掃除をさせられたことがあった。その時、後からやって来て、涙を流しながら雑巾で床を拭いていた僕を見た惣助先生は、こう言った。

『掃除、手伝うぞ。一人だと大変だろ?』

それから、用具入れから雑巾を取り出すと、先生は僕と一緒に床を拭いてくれた。あらかた掃除が終わると、今度は本来先生の分であるはずのご飯をラップにくるんで握り、おにぎりにして僕に手渡してくれた。

『これしか渡せなくて悪いな。午後の授業が終わったら、屋上に来てくれ』

先生のくれたおにぎりで午後をしのぎ、放課後に言われた通りに屋上に行くと、惣助先生が待っていた。その手には、何故かお弁当箱があった。

『まぁ、座ってくれ。腹、減ったろ? これ、家内の弁当なんだけど、俺給食で腹一杯だから、俺の代わりに食ってくれ』

なんでも、先生は糖尿病を患っており、奥さんが健康に配慮してお弁当を作ってくれているらしい。しかし、給食を残して調理員さんに怒られる方が怖いらしく、かと言って残せないので、代わりに食べてくれとのことだった。お腹の減っていた僕は、お弁当箱を受け取ると、おかずを口に入れた。すると、途端に頬を何かが伝った。拭うと、それは涙であった。それに気づいた瞬間、胸の奥から何かがこみ上げてきた。そしてそれは、嗚咽となって口から出てきた。咽び泣く僕を見て、先生が僕の頭を撫でる。

『文姫時羽。担任に決まった時に、お前のことについて色々言われたんだけどさ、やっぱり、全部嘘だったんだな。お前は、周りが言うような人間じゃない。誰よりも優しくて、繊細で、だからこそ摩擦に苦しめられる。お前は何も悪くない』

先生はそこで、僕の顔を見つめた。顔を上げると、涙で歪んだ視界の中に、先生の顔が映った。

『俺は日笠惣助。しがない社会科の教師だ。改めて宜しくな、時羽』

春も終わりに差し掛かった、暖かな夕方のことであった。僕は本当の意味で先生と『出会えた』。

「惣助先生、ホントに時羽のことかわいがってたよね。まぁ、私も気にかけてもらえてたんだけどさ。でも、いくら気になるからって、普通好きな女子のタイプとか訊く? それも、双子の姉に。あれは流石にドン引きしたよ」

そう言ってみそらが微笑む。家を出てからみそらが笑ったのは、これが初めてであった。僕のことを気にかけていた惣助先生は、みそらに、僕のことについてあれこれ訊いていたらしい。性格、趣味、何が好きで何が苦手なのか、何にストレスを感じるのか、そして、何故か好きな女子のタイプまで。明らかに最後の一個は要らないが、他は、僕が苦しまないようにするために知っておくべき必要な情報だったのだろう。そうして、先生との思い出話に花が咲き始めた、その時だった。

「間もなく、鶯中学校前です」

バスのアナウンスが聞こえた。目的地はすぐそこである。

「話の続きは学校に着いてからかな。降りよう」

すみれ先輩の声と共に、僕とみそらは立ち上がった。数年ぶりの故郷、負の記憶ばかり残された、忌まわしき故郷。そこに、降り立つ。

悲しみだらけの中で、たった一つ光る思い出に、別れを告げられるだろうか。

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