治癒術師エルネスト・ユルフェの800の嘘

ばつ森

プロローグ




 嘘は、なじむ。

 纏っているうちにまるで自分の香りのように、その身に染みついてくる香水のようなものだ。

 嘘をつこうなどと思わずとも、体は毎日の習慣を覚えている。

 

(ああ……来たな)

 

 毎晩ひらかれる貴族の夜会には、陰謀がひしめいている。今日も標的の姿を確認し、話していたレディに会釈をしてから俺は歩き出した。夜が深まるほどに華やぐ貴族たちの波、逸る気持ちがその間をすり抜ける速度を上げていく。


 俺の容姿に目を奪われてる者たちに微笑み、ところどころから飛ぶ「!」という声に手を振りながら、俺は廊下へと続く扉を目指していた。

 

 ピカピカの革靴で踏み出す音は、夜光絹の糸で刺繍のされた血のように赤い絨毯にすわっと吸い込まれ、同じ色のソファセットがいくつも置かれた広間で、そこかしこから大げさな笑い声が響く。

 中央のシャンデリアは、大きいばかりで光源が弱く、薄気味悪い。

 

(悪いことをするときの顔は醜いから、隠したいんだろうな……それ、多分正解)

 

 明るい魔道灯の光ではなく、わざわざそこかしこに置かれた燭台から炎がくゆる。いろんな香水やパイプの煙の匂いが混ざって、濃密な夜に絡みつく。

 俺は、いつも顔の半分を隠している前髪をうしろに流し、貴族のような高価な服に身を包んでいる。垂れてきた前髪を指先で整えながら思う。

 

(悪いことをするときだけ顔を出してる俺と、正反対ってかんじ)

 

 広間の奥には大きな螺旋階段があり、壁際をぐるりと囲んだ中二階につながる。上から今晩の相手をねっとりした視線で物色しているものもいれば、ソファセットで誇らしげに人を笑わせようとしている者もいる。

 

(楽しみ方はそれぞれ。だけど、こんな夜会に参加するやつらの気が知れない……)

 

 あと数秒でたどり着く扉の前には、今、到着したばかりの恰幅のいい初老の男、グルモンティ侯爵の姿が見える。

 今にも弾け飛びそうなシャツのボタンを見ながら、俺は歩調をゆるめ、深く呼吸をした。

 

(〝ルール1〟――出会いは鮮烈に)

 

 ちょうどすれ違った給仕の銀色のトレイから、飲み物の入ったゴブレットを手に取る。中身が赤い葡萄酒であることを確認し、そして、ちょうど伯爵が振り返る瞬間を狙い、迷わず横をすり抜けた。

 予想通り、ドンッと侯爵の腕がゴブレットに当たり、俺のフリルシャツが真っ赤に染まる。

 目を瞬かせていると、状況を理解した侯爵がゆたかなヒゲを触りながら口をひらいた。

 

「ああ、すまないな……ええと、君は」

「まあ、シリル。大丈夫?」

「これはこれは、ランパール夫人のお知り合いでしたか。大丈夫かね。申しわけないな、素敵なシャツが台無しだ」

 

 都合よくおしゃべりなランパール伯爵夫人が近くにいることは把握済みだった。日ごろから俺の容姿が好きだと言っている彼女が話しかけてくれるだけで、安易に、俺の身もとの証明になる。

 巻いた赤毛をぶわりと手で払ってから、夫人は羽の扇子で口もと隠しながら言った。

 

「ええ、仲よくさせていただいてますの。かわいい坊やでしょ」

 

 その目の先を追うように、侯爵の視線が俺の体を舐めるように這い上がっていく。

 にこっと小首をかしげながら微笑むと、侯爵の目が値踏みをするように細められた。

 侯爵の従者が、顎の肉に埋もれそうな耳になにかを囁き、途端、侯爵の顔色が変わった。おそらく、俺のことで流れている「隣国の王のご落胤らしい」という噂を耳にしたんだろう。

 

「どうかそのシャツの代金を支払わせてもらえないでしょうか」

 

 そう侯爵が口にするのを聞きながら、俺は眉尻を下げる。

 

(〝ルール2〟――真実よりも、噂の裏づけを)

 

 都合のいい噂に感謝しながら、俺は世間に慣れていない『箱入りの坊ちゃん』のふりをしながら、軽い口調で答えた。

 

「ああ、気にしないで。金銭のやり取りには不慣れなんだ。これがいくらしたのかもわからないよ」

「しかし、そういうわけには……」

「でもこれではもう帰らなくちゃいけないから、玄関まで見送ってくれると嬉しいけれど」

 

 そう言いながら、隣国の王家の紋章……に似たようなものが刺繍された白いハンカチでシャツを拭ってみせる。

 ハッと息を呑む侯爵に、あえて「あ」と小さくつぶやいてから、人差し指を口に当てて、俺は嘘がバレた子どものような顔で笑った。

 洗練された立ち居振るまい、上品な笑い方、金銭に頓着しない世間知らずのような会話。すべてが作られた完璧なものである。一人称は『僕』――〝シリル〟と呼ばれている男は、そうして人の心に忍び寄る。

 自分の生まれ持った美しい顔が、こんな風に役に立つなんて不思議だ。

 

「おともいたします」

 

 そう口にする侯爵の瞳は好色を滲ませている。

 

(〝ルール3〟――密談は二人きりのときに)

 

 俺はその下卑た視線に満足する。

 暗い廊下は相手の好奇心を刺激して、俺のことをより謎めいて魅せてくれるのに、衛兵があちこちに立っていて安全が確保されているから都合がいい。槍を持ち、銀の甲冑に身を包んだ衛兵たちが並ぶ廊下に、燭台が吊るされたアーチ上の天井が続く。光と影が入り交じる石造りの回廊を歩きながら、伯爵が訊いた。

 

「その黒髪にオリーブ色の瞳、隣国の高貴なお方に似ていると言われませんか?」

 

 意味深な笑みを浮かべながら、俺は優雅に微笑んだ。

 

「……申しわけない、侯爵。子どものころ命を狙われて以来、素性は伏せろと言われていて……」

 

 濡れたシャツの首もとのボタンを外す俺のことを、盗み見ている侯爵の視線に気づきながら、俺は続けた。

 

「――グルモンティ侯爵、そういえばご体調はよくなられたのかな?」

「え? あ、ああ、ご存知でしたか。いい治癒術師に診ていただくことができて」

「ずいぶん深刻な状態だったと聞いていたんだ。顔色もよさそうで、安心したよ」

「あはは、いやいや。あなたのシャツを汚してしまって、真っ青になりましたよ」

 

 そう言う伯爵の言葉に、俺も同じように「あはは」と笑いながら、続けた。

 

「それにしても、本当にすばらしい腕の治癒術師が見つかったんだね。実は僕も今、治癒術師を探しているんだ。紹介してもらうことはできるだろうか?」

「え、ああ……それは……その」

「――ああ、気にしないでくれ。いい治癒術師は、きっと引く手数多だ」

 

 相手が会話から逃げる素振りを見せたときは、それ以上の速さですぐにこちらから引く。そして、あなたのことを愛していますと言わんばかりの残念そうな笑顔で、名残惜しそうに指先で伯爵のぱつぱつのフロックコートを撫でた。

 

「侯爵とふたりきりで、ゆっくりと話を聞いてみたかったけど」

「……あ」

 

 俺の身分を勘違いしている侯爵は、どちらにしろ俺に葡萄酒をかけたという負い目のある立場だ。

 俺が「ではまたお会いできたときに」と口にしながら、廊下の角を曲がろうとすると、すぐに伯爵が声をかけてくる。

 

「……あの……どなたのご病気かは存じませんが、もし病状が深刻ならば、を訪ねると……いや、ただ、なにも知らずに近づけば、あなたが傷つくことになるかもしれないので……それが」

 

 グルモンティ侯爵の口から出たその名前を聞くだけで、全身が凍りついたように冷たくなる。

 予想通りの名前だったのに、華やかに笑う浮ついた男の顔を思い出すだけで、はらわたが煮えくり返りそうだ。

 思わず、ギッと噛みしめてしまった奥歯をなんとか緩めながら、とぼけた声で俺は言った。

 

「ああ、ヴァロワ公爵の治療院の先生なのか。行ってみようかな」

「待って。やっぱりきちんとお話を。あなたが治癒術師を探している理由も、ゆっくりお聞きしてから……」

 

 そう言った侯爵が、不躾にも俺の腕を掴んだ。

 そのとき――。

 ざわっと廊下の先のほうでどよめきが起きた。俺はその瞬間を見過ごさなかった。

 侯爵が「おや?」と、顔を上げたとき、俺は侯爵の脂ぎった額に手を当てながら言った。

 

忘却の水レーテ・メモリア

「え?」

 

 俺の手から淡い白い光が一瞬だけ放たれる。だけど、周りの衛兵たちは、玄関のどよめきに意識を向けていて気がつかない。

 俺は、ふたたび歩き始めると、廊下の角を曲がった。

 

 すぐにすれ違った男が、ヴァロワ公爵と仲のいい〝アルマン卿〟だと気がつき、眉間に皺を寄せる。

 黒い長めの前髪を真ん中分けにした鋭利な印象の男だが、無造作に生えた顎ひげのせいか、どことなくずる賢さを感じさせる。まだ四十才前後だというのに、大きな宝石のついた杖をついているのがわざとらしい。

 さっきのざわめきは、アルマン卿の到着に対するものだったようだ。

 

「おや? 侯爵、こんなところでなにを呆けておいでです?」

「んん! いやはや、アルマン卿。私も今着いたばかりでして……」

「従者もつけずにおひとりで? 玄関に向かっているように見えましたが、もしやまだご体調が優れないのかな? ふふ」

「あ、いや? いえいえ、アルマン卿とヴァロワ公爵のおかげですっかり回復しましたよ……しかし、本当ですね。私は一体ここでなにをしていたのだったかな⁇」

 

 角を曲がったところで、その会話を聞きながら俺はほっと胸を撫で下ろした。

 

(〝ルール4〟――秘密を知ったあとは、相手の記憶をぼやかすのを忘れずに)

 

 この高度な魔法は資格がないと存在すら教えてもらえないものなので、俺みたいな者が使うとは疑われない。

 でも、アルマン卿が出向くなんて珍しい。焦ってグルモンティ侯爵に声をかけてしまったけど、もう少し滞在したなら、アルマン卿と話すことができただろうか。

 少し残念に思いながら、俺は前を向いて歩き出す。

 だけど――。

 

 一歩踏み出したところで、前方から淡いグレーのフロックコートを着た背の高い男が歩いてくることに気がついた。

 うしろにいるアルマン卿と侯爵の会話に耳をすましながら、足を進める。

 

「場内に向かうのならば、一緒に参りましょう。今夜は〝連れ〟がいるんですよ。今話題の――」

「ほう、話題の?」

 

 ひらかれた扉の外から流れてくる夜風が肌を撫でた。月明かりが、夜の海を裂くように斜めに差し込んでいる。かつん、かつん、と硬質な足音が響き、俺は視線を上げた。

 アルマン卿の声が続けた。

 

「ルキシア大公国から訪問してる、〝ソアン・アズライール〟殿と一緒なんです」

 

 なぜかゆっくりと時が進むような不思議な感覚だった。

 玄関にたまっていたらしい貴族たちが、口をぽかんと開けて、彼のうしろ姿を見ているのがわかる。

 長い脚をゆったりと動かしながら、男は歩いてくる。月の光を背負い、その輪郭だけが白銀に縁取られていた。

 その顔は――見間違いかと思うほど整っていて、視線を向けるのが躊躇われるほどだった。

 

 まずその空色の瞳に目を奪われた。

 吹いてきた夜風に前髪がそっと乱れて、彼の睫毛をかすめる。その光景が美しくて、見惚れてしまった。

 目が合った気がした。

 だけど俺は――気にしたそぶりを見せずに、平然と彼とすれ違って外へと向かった。

 なぜか彼の足音が止まり、背中に視線を感じた。

 自分の容姿に自信がある者は、逆に〝無関心〟に興味を抱くことも俺は知っている。相手が俺に興味を持ってくれているのだとすれば、葡萄酒まみれの今夜、わざわざ会話をしないほうが得策だろう。

 

 ルキシア大公国はこの国よりもずっと進んだ文化があると聞く。一瞬だけ、もし正直に、を伝えたらなにか起きないだろうかと考えた。だけど、そんな考えはすぐに打ち消す。

 誰かに頼ろうだなんて、そんなことを考えてどうにかなるような問題ではないんだった。

 それに、俺にはもっとも大切なルールがある。

 たとえ相手が誰であろうとも、初対面だろうと何回目だろうと――。

 

(〝ルール5〟――誰にも本心は見せない)

 

 そうして俺は、夜会をあとにした。

 待機している適当な馬車に乗り、平民街と貴族街の境目の公園を指定する。そしていつも通り「酔ってしまったから」と言って、公園で降りるのだ。

 

 夜の公園には誰もいない。

 俺は大股で公園を横切り、周辺の廃屋に迷いなく突き進むと、隠してあったボロボロの茶色いローブを頭から被った。

 バカみたいに高級なエナメルのコートシューズを脱ぎ、汚れたワークブーツに履き替える。上着のフロックコートと靴を麻袋に詰め込みながら思い出す。

 

(あいつが……ルキシア大公国から期間限定で来てるっていう賓客の一味か。アルマン卿と仲がいいってことは、どーせヴァロワも繋がってる。ルキシア大公国も結局、敵かよ)

 

 苛立ちが抑えきれず、廃屋の床をぶち抜きそうな勢いで、ドスドスと歩く。

 

(ソアン・アズライール……)

 

 たしか令嬢たちが「ひと晩の情けでもいいから〜!」と、色めき立っている大公国の貴公子だ。クレヴァン王国と古い盟約のあるルキシア大公国から、半年だけ〝交流〟という名目の騎士団の遠征が行われているのだ。

 たしかにびっくりするほど顔はよかったけど、でもアルマン卿の連れである限り、敵にほかならない。

 

(グルモンティ侯爵は瀕死だったんだ。絶対にあの回復の裏には、〝犠牲〟がある……)

 

 爪が食い込むほど手を握りしめていると、廊下に置かれていたひび割れた鏡に自分の顔が映っていた。

 月明かりに照らされた自分の顔が、悪魔のように歪んで見えた。

 

(……師匠の仇は絶対に打つ……この命に換えても)

 

 うしろに流していた髪に指をつっ込み、わしゃわしゃと混ぜて顔の半分を隠す。

 ギィッと鈍い音を立てて、廃屋の扉がひらく。春の夜風はまだ冷たくて、師匠はそんなことを望んでないんじゃないかっていう気持ちが、弱った心を撫でた。

 

 運よく、隣国の王のご落胤だという噂にあやかってきたけど、容姿だけで回していくのにも限界を感じてる。

 きちんとした身分のある協力者を作ることができれば――。

 

(あの男にどうにかして取り入ることはできないかな……)

 

 大公国からの客ならば、どちらにしろ、あと数ヶ月でいなくなる。なにかボロを出してしまったとしても、他国の人間であれば多少は融通が利くんじゃないだろうか。

 はじめて見たけれど、思っていたよりも善良そうな顔つきの男だった。

 いや、一度見ただけでなにを考えているんだろう。そんな発想が浮かぶことこそが、自分の限界を示していた。

 

「くそ……」

 

 人に出会えばそんなことばかりを考える毎日に、心が疲れているのかもしれない。

 永遠に師匠を失ったこの季節は、眠れない夜も続く。

 平民街のほうに足を向けながら、小さくつぶやいた。

 

「貴族なんて全員くたばっちまえ……!」

 

 


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