第9話 時祷書(じとうしょ)泥棒
図書館の蔵書は増える一方だ。冬が来るたび、ノーデが常連の声を無視して休館期を設け、書籍収集の旅に出るからだ。
1646年1月、オランダのアムステルダム、南仏とイタリアから驚異的な量の書籍が収められた。さらにアンヌ・ドートリッシュ太后がマザランに360冊の写本を贈り、モロッコ革の豪華なコレクションが図書館に加わった。
ノーデとミカは目録作成に明け暮れ、開館日は盛況を極めた。
テュブフ館はマザラン宮殿と呼ばれ始めた。正面棟は宰相の私邸、東翼は宰相の芸術コレクション展示棟、西翼が厩舎とマザラン図書館だ。
宰相はあいかわらず図書館で寛いだ。普段は近所のパレ・ロワイヤルで国王と同居し、彼に帝王学を仕込んでいた。
その年の7月、ノーデはマザランにミカのワインを増やすよう持ちかけた。
「ミカの勤勉と熱心さがなければ蔵書をここまで整理できなかったでしょう。猊下、褒賞を与えるべきです」
マザランは肘掛け椅子から身を起こし、手のひらを合わせた。
「宜しい。儂は吝嗇家ではないのでな。ミカに良いワインを用意しよう。
君の褒賞は『図書館開設に関する助言』第2版を刷ることとしよう。費用は儂が持つ。ミカは変わりないか」
「猊下のワインで元気にしております」
「いやいや、そのことではない。18歳に見えるのかと訊いておるのだ」
「少なくとも青年のままですが、何か?」
「髭がなくとも……まぁ、良いか。歳を取らぬ体が少々羨ましくもある。お前も儂も、男盛りを過ぎようとしている」
「猊下、ミカはミカなりに悩んでいます」
「ふむ、大天使同士で仲よくやっているようだの。ああん?」
「ミカと私は友人です」
「ふふ、パリ市民はアンヌ・ドートリッシュ太后と儂が男女の仲だと噂しておる。儂の悪口が楽しいらしい。太后はスペイン出身、宰相はイタリア男、格好の噂のタネだ」
「猊下、噂が書き留められ、広まるのはいけません」
「良く言った、ノーデ。ペンは時として剣より有効な武器になる。どこの誰が噂の元か、ノルマンディの磯ギンチャクを含めて知っておる。儂の敵は多いが、心配は要らん。ところで図書館の棚は空きがあるか」
「ほぼ埋まっております。ぜひとも図書館の増設を願います」
枢機卿は立ち上がり、陽気にそこら中を歩き回った。
「そうだろう。新進気鋭の建築師マンサールとル・ミュレを紹介する。彼らに君の要望をすべて話してやれ。敷地の心配は要らんぞ」
図書館の常連にイエズス会運営のクレルモン学院に通う少年が何人かいた。その中のジャック・ガルヌがいつもの棚の前で佇んでいた。
「ノーデ殿、また彼は神学の書棚ですね」
「クレルモン学院なら哲学と神学は必須だ。プロテスタント関連書の棚にも必ず寄っている。関心があるのだろう」
そのジャックが貸出しを願い出た。ノーデは言った。
「学院長に君の身分証を出してもらいなさい。それがあれば、マザラン図書館登録者名簿に載せて貸出しができる」
ジャックは打ち明けた。
「実は僕は学院の下働きです。学生になるには下働きを2年務めた後という条件ですから、今は無理です」
彼はその後も学院の生徒と共に現れた。が、陰気な眼であいかわらず同じ場所を巡っていた。その足跡に暗い情熱が残った。同じ頃、掃除係のジャンも浮かない顔で桶を運んでいた。彼は溜息をついてはノーデに叱られていた。
晩秋の金曜、ミカは時祷書じとうしょの書架から3冊の写本が無くなっているのに気づいた。太后がマザランに贈った豪華な装丁本だったので開館日と翌日に確認していた。掃除の跡から持ち出したのはジャンと推測した。彼は仕事を切り上げたばかりだ。
「ノーデ、ジャンはまだ館内にいる。マントか袋に入れて外に出るはずです」
「よし、家令に門を閉めてもらう。売られたら厄介だ」
ミカは2階から下の厩舎に降りる細い階段に入った。早い夕暮れが来て、広い厩舎の端に誰かが松明を灯しに来ていた。ミカの耳は馬たちの息に重なるジャンの足音を捕えた。厩を裏口へ向かっていた。用心深い盗人の歩き方だ。
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