吸血鬼マリーとマザラン図書館、1643年

セオリンゴ

第1話 マザラン枢機卿の図書室

 マリー・エティエンヌはマザラン枢機卿の図書室の床で目覚めた。

「嫌だわ、私ったら。せっかくの黒いドレスが埃まみれよ。寝るのは書架の上と決めていたのに。今日はあの勤勉な司書がいないからって油断していたわ」


 ここを住処にして二十日はつかになる。彼女は初めて真昼の室内を見渡した。初夏の陽射しがセーヌ川にどう反射したのか、図書室の高い書架に小さな光が揺れていた。彼女はうっとりと眺めた。

「神よ、美しい煌めきに感謝します。外の狂騒が無ければ、もっと素敵ですのに」

 枢機卿の図書室はパリの中洲であるシテ島にあり、近くから喧騒が入り込む。書物を紐解くための静寂は望むべくもない。


「前より賑わっているようね。新設石橋ポン・ヌフの舗道が広いせいで、あそこがパリのメインストリートになってしまった。やれやれ、毎日がお祭り騒ぎだわ」

 セーヌ川の右岸と中洲と左岸を貫通するポン・ヌフは、あらゆる遊興が集まっていた。見世物小屋、占い師、薬売りなど種々の露店と行商人の掛け声が交錯するうえに、大道芸人や楽師が我も我もと腕を競う騒がしさ。加えて石橋併設の給水塔サマリテーヌが15分おきに鐘を鳴らす。ちんかんちんかん、こんこんこん。


 マリーが冷たい体を起こすと、胸から本が滑り落ちた。

「キリストが水を求めたサマリアの女ね。セーヌの水の如く本を集めても、この環境じゃあ台無しよ。マザラン宰相はそれを分かってないの? 単なる書籍の蒐集家にすぎないのかしら」

 彼女は読み終えた本をそっと閲覧机に置いた。

「でも、司書を置くくらいだもの。本の価値を知る人と思いたい。ああ、床で寝たせいかしら、ひどく喉が渇くわ」


 スカートをつまみ、高い書架と天井の隙間に飛ぼうとした瞬間だった。マリーは扉の向こうに強烈なワインの香りを嗅ぎ取った。

「樽から出したばかりの美味しい匂い! 半年以上飲んでないわ。駄目、我慢できない」


 扉の鍵が回り、マザラン枢機卿と黒い服に身を包んだ司書が図書室に入ってきた。

 マリーは司書の手に籠を認めるや、閲覧机の陰からひらりと跳躍した。

 マザランが「何奴なにやつ!」と剣を抜く。彼女は枢機卿の手首を左手だけで軽々と止めた。同時に司書のみぞおちにつま先をぐいと突き立てて動きを封じた。空いた右手で籠のキャラフを奪い、ワインを一気に飲みくだした。この間、7秒。


 中年の司書は唖然とマリーの横顔を凝視し、枢機卿は笑みを浮かべていた。

 マリーは一瞬で見抜いた。

「マザランの眼は根っからの人たらし、司書は堅物の苦労人。なんて対照的なお二人!」


 枢機卿の指が剣を持ったまま、マリーの肌に触れた。

「尋常ならざる女、お前は冷たい手首をしておるな。息が乱れてないのは元々息をしておらぬからだ、違うか?」

マリーの青い目が枢機卿に微笑み返した。

「さすがマザラン殿、ご慧眼でいらっしゃいます。猊下のワインで生きかえりました。魂まで干からびる寸前でしたので」

「面白い女だのぅ。お前はここで何をしていた?」


 彼女は数歩退き、優雅に膝を折った。

「私はマリー・エティエンヌ。18歳で一度死に、その後15年、死体で生きております。猊下の図書室にこの死の秘密を解く鍵を求めて参りました」

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