プロローグ:最前線な平穏
戦場で戦闘中の艦船の主計兵の様子は、こんな風だったのだろうか?私の毎朝は戦いである。
つい五分ほど前に、夫を出撃させることに成功した。彼は精悍な顔つきで会社という戦場へ向かった。今度は長男を出撃させなければならない。
トースターから立ち昇る、焦げ付く寸前のパンの香ばしい匂い。それに、目玉焼きが焼けるバターの甘く重たい匂い。出来上がったそれをテーブルに運び、弁当に取り掛かる。弁当に詰める鶏そぼろの甘辛い醤油の香りが先ほどまでのトーストと目玉焼きの匂いと混ざり合い、キッチン特有の、暖かくも油で重たい朝の匂いが充満している。しかし今の私は、そんなコマーシャルのような状況にうっとりしている訳には行かない。
小学校五年生の娘に叫ぶ。
「ねえ、お姉ちゃん!お兄ちゃん起こしてきてよ!」
「えー、もう二回も呼んだよ。私が呼んでも、絶対起きてこないんだもん。もうやだ」
娘は、露骨に嫌そうな顔でテーブルの椅子を蹴った。
「こら、椅子を足蹴にするな!」
ええーい。仕方ない、錨綱(いかりづな)のように足元に絡みつく二歳の次男を強引に引っぺがした。次男は「マァマ!マァマ!」と抵抗して叫ぶ。
「ほら、お姉ちゃん!アンタちょっと見ててよ!」
私は次男の小さな身体を抱え上げ、長女の腕の中に無理やり押し付けた。長女は「ちょっ、重いってば!」と文句を言いつつも、次男を抱きかかえる。その隙に、私は持ち場を離脱した。背中から長女の声がする。
「おむつからうんちの匂いするよ!」
ああ!もう!
階段下まで駆け付けて上甲板に向けて怒鳴る。
「お兄ちゃん!起きてこなきゃメシ抜きだぞ!」
娘に「ねえ、おむつ替えといて」と命令しつつ、柔軟剤を投入して洗濯機のスタートボタンを押す。洗濯機が再度回り始めた。缶室(ボイラー)の安全弁の如く唸りを上げる洗濯機の轟音を聞きながら速足で持ち場に戻る。私は壁のコルクボードに顔を押し付け、中学三年の長男の学校行事のカレンダーを確認する。今日は何もない。よし!
長男の弁当を詰めようと弁当箱を広げたカウンターの端。学校のプリントやDMを造作なく入れたトレイの中に、それら書類に埋もれた、黄ばんだ封筒の端が視界に入った。一週間前にトレイに入れたものの、毎日の戦闘に疲弊し、まだ中身を確認出来ていない。多少心が痛んだが、でも目の前の今日一日を生き抜くこと。それが最優先だ。
弁当を詰め終えた頃に、重い足取りと共に中学三年の長男がやっと降りてきた。無口で不機嫌そうな顔。まるで台風が通り過ぎた後のように、寝ぐせがひどい。
「あんた、出かける前にちゃんと寝ぐせ直してね。そんなんじゃ、女の子に嫌われるよ」
注意するも、彼は鼻で小さく「フン」と鳴らしただけで、一切こちらに視線を合わせない。手にしたスマホの画面ばかりを見つめている。不愉快そうな顔、というよりは、世界中の不満を一身に背負ったような仏頂面だ。ここ半年ほど、ずっとこんな感じだ。まさに夫の中学の頃と瓜二つ。好きな女の子でも出来たのだろう。
私が必死に作った朝食を何の感慨もなく、さも戦闘糧食でも流し込むように終える。おい、もっと味わって食え!
「行ってきます」
声は小さく、ドアの方を向いたまま、ほとんど独り言のように呟く長男に、私は怒鳴りつける。
「弁当持ってけ!」
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