第1話 アリーナ

 発券機から出てきたばかりのチケットを持つ手がぶるぶると震える。

 うそだろ⁉ アリーナ最前⁉

 一度目をつぶって眉間を揉み、もう一度チケットを見る。間違いない。最前だ。信じられない。そんなことあるか? アスーターボーイズのライブでアリーナ最前なんて、宝くじに当選するより嬉しい。俺はチケットを大切にしまい、感極まって天井を見上げた。メンバーたちの顔が大きく印刷された垂れ幕が、俺を祝福するように並んでいる。

「リッキー……!」

 今まで、一番近くてトロッコに乗っているところを通路側から見上げるだけだったアイドル。席運が悪いのもあり、双眼鏡なしで顔を見るなんて夢のまた夢だった。それが、アリーナ、しかも最前! 全国百万人のファンが喉から手が出るほど欲しいチケットだ。俺の一生分の運を使い果たしたと言っても過言ではないだろう。

 嬉しすぎて泣きそう。

 俺は鞄から律樹のアクスタを取り出し、垂れ幕と一緒に写真をとった。

 アスターボーイズの宮葉律樹といえば、言わずと知れた日本のトップアイドルだ。別名、国民の初恋。爽やかな笑顔と抜群のスタイルで、彗星のようにファンの心を奪っていった。お茶の間ではリッキーというあだ名で親しまれている。

 アスターボーイズは全員がビジュアル担当と言われるほど美形揃いのグループだが、どう見ても律樹が一番カッコいい。現に、今俺の横を通った女の子たちも律樹のメンバーカラーである緑を見に纏っている。

 しかも、めちゃくちゃ努力家なんだよな。そこも好きだ。

 俺はアクスタを見つめてため息をついた。今回のアルバムも、CM撮影やバラエティ、演技仕事で多忙な中、難しいダンスをこなしているし、歌も頑張っている。ファンクラブサイトに投稿された練習動画には、いつも通り一番に来て一番最後に帰る姿が映っていた。

 律樹を見ていると、毎日頑張ろうって思える。

そもそも、俺は大学受験で病みまくっていた時期にテレビの中で頑張る律樹の姿に救われてファンになっているので、彼が頑張っているだけで感涙してしまうのだった。

 去年は落選して姿さえ見れなかったもんな。死ぬほどDVD見たけど。

 アスターボーイズは昨今の他事務所アイドル達とは違い握手会やファンミーティングを一切行わないため、俺たちファンが肉眼で彼らの姿を見れる機会は普段撮影協力かライブかくらいしかない。しがない大学生の俺はバイトとインターンで忙殺され撮影協力になど行けるはずもなく、年一回のツアーに命を懸けているのだ。

 律樹の写真集が発売された時のサイン会には貴重な機会に暴動一歩手前のファンが押し寄せたほどだ。高瀬凪くんへ、とサインしてもらったソロ写真集は、今神棚に飾られている。写真集を飾るためだけに作った即席の神棚だ。

 会場内の自販機でペットボトルを買って席に向かう。席に着くと、あまりにメインステージが近くてくらくらした。

 こんなに近いのか、最前って。手を伸ばせば届いちゃうんじゃないか。絶対伸ばしたりしないけど。

 あほ面でステージを見上げて感動に打ち震えていると、後ろに入ってきた女の子たちの会話が不意に聞こえてきた。

「えっ、前、男じゃん! 最悪……、デカくて邪魔すぎるよ~」

「こらエリ、聞こえるよ。そんなこと口に出さない」

 うっ。思わず胸を押さえたくなる。高揚していた気持ちが急速にしぼんでいく。

 俺は背を丸めて出来る限り体を小さくした。アリーナ最前の嬉しさのあまり、すっかり自分が成人男性だということを忘れていた。

 アスターボーイズのファンは圧倒的に女性が多いので、ライブでは目立たず、邪魔せず、大人しくする必要がある。たまにメンバーがコールアンドレスポンスで「男性!」と声をかけてくれた時にだけ存在感を示していい存在、それがライブ中の男だ。

 もちろん俺だって大きな声で律樹の名前を呼んだり、かっこいいと呼びかけたりしてみたいが、ライブの雰囲気を壊すのも嫌だし、なにより人目が気になる。前の席が俺みたいなやつだったばっかりに視界が遮られて推しが良く見えないなんて後ろのお客さんがあまりにも気の毒だし。

 俺があっというまに暗黒面に堕ちていったのと裏腹、後ろの女性たちはうちわやファンサ用のカンペ、ペンライトを取り出して楽しそうに話し出した。ああ、憧れのカンペ。俺もやってみたい。恥ずかしくて作ったことないけど、律樹にファンサされてみたい。

 ズン、ズン、と背中に土嚢が積み重なるように気分が落ちていく。推しのライブ開演前にこんなに落ち込むこと、ある? 俺も女の子に生まれてたら周りのことなんか気にせず、ハート作ってとか、指で撃ってとか書いたカンペを持って思い切り律樹の名前を呼べたのかなあ。

 涙目になりながら考えたって仕方のないことをぐるぐる考えていると、あっという間に開演時間になった。照明が一気に暗くなり、メインステージが明るくなる。

 はっと顔を上げる。

 スモークの焚かれたステージ。音響が会場を震わせ、アルバムタイトル曲のイントロが流れる。ファンたちが悲鳴を上げた。俺も緑に光るペンライトを狂ったように胸元で振る。

視線は舞台の仕掛けをつかって高くジャンプし、華麗にバク宙を決めた律樹に釘付けだった。

 か、かっこよすぎる。衣装、天才。白地に金の、王子様みたいな布たっぷりの衣装が似合いすぎている。ツアー中金髪なのは知ってたけど、生で見る金髪律樹は死ぬほど綺麗だった。肌は白いし、唇はピンクだし、顔が綺麗すぎる。なのに背は高いし肩幅は広いし、男として持ってないものがない。

 リリース時から激しいダンスナンバーだと言われていた曲を完璧に踊って歌い切ったメンバーたちは、息つく間もなく次の曲へと入っていった。観客を巻き込んで一気に盛り上がっていく。メンバーたちに煽られて、俺はあっという間に楽しさの絶頂へと追いやられた。

 最前ってやばすぎる。

 こんなにペンラ振って応援してるのに全然手振れせず律樹の顔が見える。ダンスが見える。なんなら汗まで見える気がする。事前に覚えておいてほしいと言われたコーレスの曲まで終わり、メンバーたちの水分補給を兼ねたMCへと入る。

 律樹が大きく手を振った。

「みんなー! 今日は来てくれてありがとう! 楽しめてる人ー!」

 耳に手を当てる仕草が可愛い。周りの悲鳴のような返事に紛れて、俺も出来る上限いっぱいの声を出す。律樹が楽しそうに笑う。白い歯が綺麗すぎてまた感動してしまった。

 マイクが他のメンバーに行ってからも、律樹から目が離せない。彼はメンバーの話に相槌を打ちつつ、目に入ったファンに片っ端からファンサしているようだった。指でハートを作っている。可愛い。

 ぼうっと推しを見つめていると、不意に明るくなっていた照明が落ちた。驚いて見上げると、ステージ上のメンバーたちも同じように驚いていた。アスターボーイズのリーダーが「え、なになに?」と焦ったように周りを見ている。システムの故障か? と不安になり始めた時、メインスクリーンに数字が浮かび上がった。観客がどよめく。

 五、四、三、とカウントされる数字を、メンバーとファンが固唾をのんで見守る。一、の次にスクリーンに浮かび上がったのは、アスターボーイズ、ドームライブ決定の文字だった。観客席から泣き声交じりの歓声があがる。俺も泣きそうだった。

 ステージの上のメンバーたちも、目頭を押さえたり仲間同士で抱き合ったりと感動している様子だ。律樹もマイクを持った手の甲で口元を押さえ、目を赤くしていた。その姿を見て、俺はたまらなくなってしまった。邪魔にならないよう小さくなっていた体を動かし、律樹、と声を出す。

「律樹、おめでとう!」

 押し出されるような言葉は歓声にかき消されて、自分でも聞き取りづらかった。

 だけどその瞬間、律樹がこちらを向いた。目が合って、この広いアリーナの中で、二人だけ見つめ合っているかのような錯覚。律樹が嬉しそうに微笑む。

 衝撃。轟音が会場をつんざき、一瞬何も聞こえなくなる。強い風のような感覚がした直後、気づけば俺は床に倒れていた。

 何が起こったのか分からない。視界はピントがずれたように何重にもダブって見えた。床に手をつき、上半身を起こす。ぐらりと頭が揺れる。強い吐き気。止める間もなく、嘔吐してしまった。目が回る。気持ちが悪い。状況を把握することもできず、意識を手放した。


 目が覚めた時、まず感じたのは下半身の違和感だった。なにか重いものが乗って痺れているような感覚。

 目の前には床があり、自分がうつ伏せに倒れていることが分かった。態勢を変えようとするが、上手く行かない。しばらく身じろぎして、やっと自分の体の上に途方もなく大きいコンクリが乗っていることが分かった。

 手がぬるついているのは、流れている血のせいだ。

 一体、何が起こったんだ?

 周りを見渡すが、会場は見る影もないほどに壊れていて、自分が今どっちを向いて倒れているのかすら分からない。ただ、俺以外にもたくさんの人が地面に伏していた。啜り泣きと悲鳴がアリーナに充満している。

 事故だろうか。ガス管とか、なにか爆発したのかも。誰か、救急車呼んだかな。こんだけ壊れてれば、呼ばなくても勝手に来るかな。

 落ち着くと、腹のあたりがひどく痛むことに気づいた。血はそこから出ているのかもしれない。というか、こんなに大きなコンクリートの下敷きになって、生きている方が不思議だった。自分の胸から下がどうなっているのか、怖くて想像もできない。

 動けない以上、このまま助けを待つしかないのか、そう思ってため息をついた時だった。

 目の前で倒れている誰かが、こちらに向かって手を伸ばしていることに気づいた。

 真っ赤な手だ。真っ赤な体だ。その人は大怪我をしていた。

 運悪く爆発の近くにいたのか、全身が焼けただれていて、見ただけでは男か女かも分からない。服は完全に黒く焦げていて、わずかに残った肌に張り付いているように見える。こちらに向かって揺れるように動く手がなければ、考えるまでもなく死んでいると思っていただろう。

 気づけば、俺はその人に向かって手を伸ばしていた。

 こちらに向かって伸ばされた真っ赤な手をぎゅっと握る。その人が弾かれたようにこちらを見た。髪は焼け落ち、顔中がただれ、水疱で膨れてしまっている。だが怖いとは思わなかった。その人が泣いているのが分かったからだ。

「大丈夫」

 根拠のない言葉だった。

 言っているうちにも、腹から流れた血がシャツの胸元を濡らすのを感じている。自分自身、助からないだろうということが薄々分かっていた。目の前の人なんて、まだ生きているのが不思議なほどだ。

「大丈夫だよ」

 それでも俺は笑って言った。ただ安心してほしかった。その人の目から涙が落ちるのを見て、また意識が遠のいた。

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