Kaleidoscope ―遠い思い出―

宮野 大

Kaleidoscope —遠い記憶—

 僕が初めて読んだ小説は小学五年生の時に

隣の席の女の子が貸してくれた、折原みとの『緑の森の神話』だった。


 一瞬で物語に魅了された僕は、

本の世界へと引き摺り込まれた。


 彼女は僕が一冊読み終わると、その本の感想と引き換えに次の本を貸してくれる。


 そんな日々が続いた。


 漫画や昆虫図鑑しか読んで来なかった僕には読めない言葉が沢山あった。

 昭和末期産まれの僕が小学生の頃は、スマートフォンなんて存在すらしていない時代。



 言葉を調べる為に使うのは、

小学校で買わされる国語辞典。


 それまでまともに使った事のなかった新品同様の辞典は、読書を始めた僕にとって唯一無二の相棒となり、あっという間に擦り切れていった。


小説を読むために辞典を使う』


 いつでも二冊の本を持ち歩く自分の姿が、

少し面白くて、少し誇らしかった。


 クラスメイト達が、当時大流行のゲームボーイやスーパーファミコンに夢中になる中で、

 僕は『小説』という異端の玩具を手にしていた。


 隣の席の少女が、


 言葉をただ『読む』だけでは無く、

『見る』ことや『聴く』ことができるのだと教えてくれた。


 彼女が貸してくれる本は、知らない言葉さえ辞典で調べれば、

 まるで映画のように映像となり、動き、音を奏でる。


 僕は『少女』と『言葉』


 その両方に恋をした。




 少女に『言葉を知る喜び』を教わった僕は、

図書室の常連になった。


 図書室に入った瞬間、

少し甘いインクと、古びた紙の匂いが

ふわりと鼻をくすぐる。


 長年壁に貼られ、古書のように色褪せた

「図書室ではしずかにしましょう」の張り紙。


 彼女におすすめされて読み終えた本を見つけて、棚から手に取り背表紙をそっと開くと、

 氏名の書かれた貸し出しカードが差し込まれている。

 僕の名前は

いつも彼女の名前の下にあった。


 廊下や校庭から届く生徒の声は、

壁とガラスを通してビブラートが掛かり、

鐘の余韻のように柔らかく響く。


 僕の耳元で彼女が囁く。


「次は、どんな物語の世界にいきたい?」


 小さな夢の案内人は、

僕を色々な世界に導いてくれた。



 僕は算数も社会も嫌いだったが、

国語の時間だけは楽しみだった。


「今日は作文をします」

 先生の言葉にクラスの大半が溜め息をつく中で、僕たち二人は目を輝かせていた。


 僕と彼女にとって四〇〇字詰めの作文用紙は、独奏会リサイタルの舞台。


 静まり返った教室で、

少女と僕の鉛筆だけが静かに舞い踊っていた。


 原稿用紙の端まで来た左利きの彼女の肘が、

右利きの僕の肘と優しくぶつかる。


 皆が鉛筆を耳にかけたり、端を齧ったりして捗らない様子を気にも掛けず、滑る様に四〇〇字を書き終えた。



「みせて?」

 僕より少し早く書き終えていた彼女は自分の作文を差し出して、交換しようと促す。


 屈託のない微笑みに負けて、恥ずかさを胸に彼女と作文を交換した。


 女の子らしい綺麗な丸い文字で紡がれた

校庭に咲く桜の妖精と出会う物語。


 彼女の四〇〇字からは薄紅色に染まる桜の香がした。


 彼女は僕の汚い字の作文を真剣な眼差しで読み進める。

 筆圧の低そうな細い指に持たれた少し濃いめの2Bの鉛筆が、迷いなく誤字と脱字を拾っていく。


「とても素敵なお話だね」

 言葉の話せる甲虫かぶとむしと男の子の友情を書いた物語を彼女は笑顔で褒め称えた。


 胸の奥が風に揺れる木立のように騒ついて、

「彼女に触れたい」と強い衝動に駆られる。


 まだこの時の僕には、

その感情を適切な言葉で表す事が出来なかった。




 月日は流れ、

 俺たちは中学生になった。

 学区の違いで、彼女とは別々の中学校へ離れ離れになってしまった。


 連絡の手段は、年に一度の年賀状。


 物語の案内人を失った俺は、中学生活の波に飲まれるうちに、いつしか『言葉』から遠ざかっていった。


 中学三年の冬。

 高校受験の重圧を一時忘れるという名目で、

小学校時代の同窓会が開かれた。


 皆それぞれに大人びた装いに変わり、

 賑やかになる筈だった会場は妙な緊張感に包まれていた。


 俺は席の片隅に、あの子の姿を見つけた。


 彼女は今もまだ、小説を手にしていた。


 海のように青いネモフィラの花が刺繍された、

手製の白いブックカバー。


 なかなか声をかけられないまま、同窓会は緊張を忘れて盛り上がっていく。

 時間だけが無情に過ぎ去り、俺の胸の奥には焦燥が募っていった。


 やがて幹事から席替えの声が掛かる。

俺は迷わず、彼女の前へと進んだ。


 勇ましく席を取ったはずなのに、口は緊張で固く閉ざされたままだった。

 彼女は静かに表紙を閉じると、俺の目を見つめて微笑んだ。


 整った目鼻立ちに、熟れた果実のように瑞々しい唇。

 かつて二つに結んでいた髪は、

 腰まで流れる艶やかなストレートへと変わっていた。


 少女から女性へと変わりゆく彼女の姿に、俺はただ胸を打たれていた。




 最初に口を開いたのは、彼女だった。


「最近、小説、読んでいないの?」


 なぜ彼女がそんなことを知っているのか。疑問が頭を跳ね回った。


「なんで?」


 美しくない返答だった。

 要領を得ない俺の声に、彼女はほんの少し悲しそうに微笑む。


「本を持っていなかったから…」


 胸の奥が針で刺されたように鋭く痛む。

 俺は気まずさを誤魔化すように、存在もしない本を探すふりをしてズボンのポケットを叩いた。


「そうだね…君はまだ読んでるんだ」


 言ってから背筋が凍った。

“まだ本なんて読んでるのかよ”とも受け取れてしまうと気づいたからだ。


 本から離れた俺の言葉は、かつて一緒に原稿用紙の上を踊っていたころに比べて、錆びつき、鈍く沈んでしまっていた。


 彼女は悲しそうな目のまま本を開くと、

栞を取り出してテーブルにそっと置いた。


 勿忘草をラミネートした手製の栞。

小学校の時、本の世界に導いてくれた感謝の気持ちを込めて彼女に渡したものだった。


 彼女のブックカバーに咲くネモフィラの青さとは対象的に、栞の中の勿忘草は歳月を経て青さを失っていた。


「これ、あげる。読み易いから読んでみて」


 彼女は白いブックカバーを外すと、文庫本を差し出した。


『美味しいコーヒーの入れ方』

 著・村山由佳


「君には、本を読んでいてほしいの」


 凛とした眼差しが、まっすぐ俺を射抜く。

 その気迫に押され、俺は思わず本を受け取り、小さく礼を言ってからページを開いた。



 数ページ読んだだけで、この小説に引き摺り込まれた。


 若き男女の恋路を書いた物語。


 この瞬間に俺はまた『言葉』の世界に引き戻された。

 彼女の手によって、再び。


「面白い?」


 同窓会に来た事を忘れたかのように没頭していた俺は、彼女の優しい声に導かれて現実へ戻った。


「うん」

 素っ気ないはずの俺の返事に彼女は今日一番の笑顔で答えた。


「続きは家で読んで」


 嬉しそうな彼女の言葉に促され本を閉じると同時に、

 噴水のように湧き出してきた俺の『言葉』は彼女に三年分の思い出を美しく紡ぎ、渡し伝えた。


 彼女は一つ一つ嬉しそうに頷くと、俺の知らない彼女の思い出を綺麗な言葉で紡いで返してくれる。


 楽しい時間は瞬く間に過ぎ去り、同窓会は閉会した。


 別れ際、

 彼女は「栞、宝物だよ。ありがとう」

 とだけ言い、栞と包む本が無くなったブックカバーを手に帰って行った。


 悲しい瞳とは裏腹に、赤いマフラーの下に隠れた彼女の口は優しく微笑んでいるのが俺には分かった。




 自宅に帰ると自室に駆け込み本を開いた。


 村山由佳が紡いだ『言葉』は俺に『愛』を教えてくれた。


 男と女が惹かれ合う必然。


 あとがきのあと、背表紙との間に挟まれた一枚の紙が目に付く。


 彼女からの手紙だった。


 小学生の時、原稿用紙に書かれていた丸く拙い文字は、月日を経て女性を感じる美しく流れるような筆跡へと変わっていた。


『小学校の時、君が本を好きになってくれた事が本当に嬉しかった。栞を贈ってくれた時、涙が出るほど嬉しかった。君と同じ中学に居る友人に会った時、君が本を読まなくなったと聞いて、凄く悲しかった。

 知らない言葉に恐れず立ち向かい、いつも両手に辞書と小説を持って、真剣な眼差しで物語を読む君のことが好きでした。読むことをやめないで。言葉を嫌いにならないで。願わくばこの想いが君の心に届きます様に。』


 彼女からの言葉は暖かく俺に沁み渡り、心を揺らす。


 無意識のうちに俺の目からは涙が流れ、本を濡らしていた。


 その数日後、俺は彼女に宛てお礼の手紙を書いた。

 手紙に綴られた彼女への想いや感謝は、汚い筆跡とは不釣り合いな美しい言葉達だった。


 返事を待ちわびた俺の自宅のポストに『宛先不明』と印の押された便箋が戻ってきたのは、更にその数日後だった。


 彼女は引っ越してしまい、友人にも聞き回ったが誰も転居先を知らなかった。


 もう会えないかもしれない彼女の記憶は、今も静かにページをめくる音とともに生きている。


 言葉を愛せる自分をくれたのは、あの図書室と、彼女の笑顔だ。


 美しく煌めく想い出はいつも俺の胸の中に在る。


 そう

まるで万華鏡のように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Kaleidoscope ―遠い思い出― 宮野 大 @yuzue0614

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ