近親婚と異世界スラム

伊阪 証

現界

一度人を殺し、倫理の道を外れた時。

人は元には戻れないだろう。

夕方の歩道は、人の流れで詰まっていた。

肩と肩がぶつかるたび、誰も声を出さない。列は進み続けるのに、空気は滞っている。

視線を少しだけ横にずらすと、アスファルトの上に影がひとつ、転がっていた。

酔いつぶれた人間のように見えた。だが胸は上下していない。

それでも群衆の誰も立ち止まらない。

自分の足も止まらなかった。止める理由がどこにも見つからない。

「死んでいる」という感覚は湧かなかった。ただ「もう生きてはいない」とだけ分かる。

視線を逸らして歩き出す。

前の人間の背中に合わせ、ただ進む。

交差点の信号が変わり、流れが横に広がる。

母親が小さな子の手を強く引いた。子どもはベンチを振り返る。そこに置かれた紙コップは湯気を失って久しい。

母親は振り返らない。子どももすぐに前を向いた。

それが、この街のルールだった。

一時間に一度、どこかで誰かが死ぬ。

本当にそうだとしても、誰も驚かない。

誰も声を上げない。

この街では、死は数の一つでしかない。

歩道橋の影で、風が鉄の匂いを運んできた。

その瞬間、背中にぞわりとした冷たさが走る。

周囲の足音は変わらないのに、自分だけが別の場所に立っているような錯覚。

「何かが違う」と思ったが、その「何か」に言葉を与える間はなかった。

角を曲がれば、家に着く。

そう思って、彼は歩みを止めなかった。

妹の体は、腕の届くところにあった。

伸ばした手は、ほんの数十センチ遅かった。

爪が剥がれ、掌が裂けるほど地面を掻いた痕跡が残っている。

それでも抱きとめるには足りなかった。

落下の衝撃で砕けたガラス片が髪に散らばり、肩口からは血が溢れている。

声は出ない。

瞼は閉じたまま。

確かにそこにいるのに、「死んだ」という感覚は湧かない。

ただ、息がない。

熱が抜けていく。

それを何度見直しても、事実は変わらない。

受け止められなかった。

その一言だけが、胸の奥で鈍く繰り返されていた。

視界が裂けた。

音も色も、地面の硬さも剥がれていく。

次に目を開いた時、そこは街ではなかった。

白大理石の床がどこまでも広がり、天井はなく、ただ闇に光が浮かんでいる。

巨大な玉座が一つ。そこに、女がいた。

脚を組み、肘を置き、退屈そうにこちらを見下ろしている。

「やっと来たか。まあ、座れよ」

声は氷水のように澄んでいるのに、どこか艶やかだった。

周囲には椅子などない。床に立ち尽くすしかない。

「……ここはどこだ」

「死と生の間、みたいなもんだな。正確な名なんて不要だろ」

女神は肩をすくめる。

その仕草は軽薄だが、背後の闇が形を変えるたび、息が詰まる。

抗えない、という感覚だけが、確かにある。

「蘇らせてやろう。ただし条件がある」

「条件?」

「そうだ。倫理と道徳を、きれいに脱ぎ捨てること。

 この世界で生き延びるには、それらが邪魔でしかない。

 人を殺せ。血を浴びろ。疑わずに踏み込め。

 それができるなら、もう一度歩かせてやる」

女神は微笑んだ。楽しげに、相手を試すように。

男は、しばらく口を閉ざした。

返す言葉は思いつかない。ただ、既に行動で証明してしまったことが胸を焼く。

妹を受け止められなかった。敵を斬った。血を浴びた。

選ばなかったわけではない。もう選んでしまっていた。

女神の指が玉座の肘掛けを叩いた。

「――そう、その顔だ。もう十分だな。お前はもう条件を満たしている」

軽く笑った。

「なら、蘇生は済んだ。地上に戻れ。続きをやれ」

床が沈む。

視界が再び暗転し、身体がひっくり返るように吸い込まれる。

目を閉じても、閉じきれない光が瞼を焼いた。

次に呼吸をした時、鼻腔には血と埃の匂いが戻っていた。

街の地獄だ。

人が多すぎて、死の感覚が湧かない街。

そこに、彼は再び放り出された。

光が千切れ、視界が反転した。

次の瞬間、足がアスファルトを叩いていた。

息が苦しい。

埃と血の匂いが肺を焼く。

背後で爆音が弾け、空気がねじ切れた。

街は――街ではなかった。

高層ビルは砲撃で崩れ、壁面に人の影が黒く焼き付いている。

歩道には荷物と人間の残骸が散らばり、車は逆さに転がって炎を吐く。

誰かの笑い声と悲鳴が、同じ高さで交差する。

肩をぶつけて走り抜けていく群衆がいる。

一時間に一度、誰かが死ぬと聞かされたが――一時間どころじゃない。

あちこちで喉が潰れる音がして、ガラスが割れる。

目の前で、若い男が刃物を振り回し、逃げる人を追いかけていた。

視線が合った。

刃を握った腕がこちらを向く。

反射で体を低くする。

刃先が空を裂き、火花が散った。

息を吸うと、血の匂いが強くなる。

女神の言葉が耳に残る。

――倫理も、道徳も、脱ぎ捨てろ。

歯を噛みしめ、足を踏み出す。

ポケットの中で、冷たい感触が指先に触れた。

銀色の線。女神が渡したただのナイフ。

「必要だから」

呟きと同時に、刃を抜いた。

初めての“蘇生後の一撃”が、街に刻まれた。

息を吸った。

肺が痛くない。

身体は驚くほど軽い。

昨日までの疲労が消えている。

だが軽さの理由は分かっていた。

人を殺すことに、ためらいが消えている。

それが、力になっている。

触れてはいけない領域。

現代では役立たずと笑われ、忘れていた資質。

その才能が、今この街で目を覚ました。

目の前で刃物を振るう男の腕が、やけに遅く見える。

ナイフを構えた自分の体が、勝手に答えを選んでいく。

「必要だから」

一歩。

蘇生後、最初の刃が、血と音を伴って夜に刻まれた。

光が裂けた。

次の瞬間、アスファルトを踏みしめていた。

肺が焼けるはずなのに、痛くない。

身体は驚くほど軽い。

昨日までの疲労が剥がれ落ち、筋肉は勝手に動く。

触れてはいけない領域。

現代では役立たずだと笑われた、忘れていた資質。

その才能が、ここで目を覚ましていた。

轟音。

ビルの屋上が爆ぜ、炎と瓦礫の中から黒い影が吹き飛んでくる。

視線を向けた瞬間、心臓が掴まれた。

妹だった。

髪は血と埃に濡れ、白い肌に割れたガラス片が突き刺さっている。

両手を伸ばして、必死に何かを掴もうとしている。

届かない。

このままでは地面に叩きつけられる。

足が勝手に動いた。

地を蹴り、腕を広げる。

衝撃が胸に食い込み、背中の骨が軋む。

だが、その体は確かに腕の中に収まった。

「……お兄ちゃん?」

震えた声が耳に届く。

呼吸はある。温度もある。

彼女はまだ生きている。

抱きかかえた瞬間、背後で刃物を持った男が飛び出した。

狂った笑い声。血走った目。

殺す気しかない動き。

腕の中の妹が息を呑む。

彼はナイフを握り直し、視線を上げた。

「――必要だから」

身体は迷わない。

触れてはいけない才能が、いま確かに血を求めて動き出していた。

刃が走った。

襲いかかる男の腕を、迷いなく斬り上げる。

骨を割る感触が手首に響き、血が飛び散る。

叫び声が夜気を裂く。

だが、それも一瞬だった。

胸を狙って突き出された二撃目をかわし、喉の奥へ刃を突き立てる。

短い悲鳴。

そして、崩れ落ちる重み。

彼の呼吸は乱れなかった。

身体は驚くほど軽いまま。「人を殺した」という実感だけが、奇妙に抜け落ちていた。

ただ「邪魔が消えた」という結果だけが残った。

腕の中の妹が、小さく震えていた。

その顔に血が降りかかり、頬を赤く染める。

瞳は潤んで、こちらを見上げていた。

「……やっぱり」

声が震え、唇も震えていた。

「私を守るために、こんなふうに殺してくれる……優しいお兄ちゃんだ」

抱き締める力が強くなる。

次の瞬間、彼女は顔を押し付け、勢いのまま唇を重ねてきた。

熱い。

血の味と涙の味が混ざる。

肺が焼けるように熱く、頭が真っ白になる。

夜の街のざわめきが遠のいた。

殺人も悲鳴も、全てが消えていく。

残ったのは、腕の中で震える命と、その熱だけだった。

――現界した世界で最初に与えられたのは、死でもなく罰でもなく、妹の熱烈な口づけだった。

妹はまだ唇を離さなかった。

血と涙が混ざった味に、うっとりと目を細めている。

その陶酔は、兄の刃がまだ敵を求めて震えている事実を無視していた。

「……お兄ちゃんの味……」

囁きは熱に溶けて甘く響く。

だが彼は、呼吸を荒げることもなく、戦闘を解除するつもりはなかった。

腕は緩まず、刃先は獲物を探し続ける。

その冷徹さに、妹の胸はきゅっと締め付けられる。

彼女は驚きと同時に、笑ってしまった。

ゆっくりと彼の体を抱き締め、さらに深く求めた。

だが次の瞬間、逆に彼に剥がされ、背中側へ追いやられる。

「……いじわる」

小さく呟く声が耳をくすぐった。

それでも、彼は振り返らない。

前方に群がる新手が、ぞろぞろと歩道を埋め尽くしていた。

刃物、鉄パイプ、火炎瓶――数が多すぎる。

踏み込む。

一体目の肩口を裂く。

二体目の膝を蹴り砕く。

しかし、数が減らない。

次から次へと押し寄せる。

押される。

ナイフだけではさすがに限界が見え始めていた。

背後から妹の息がかかる。

次の瞬間、敵の刃が兄の胸を狙って突き出された――

だが、通らなかった。

刃は確かに刺さったはずなのに、まるで透明な壁に阻まれるように弾かれた。

鉄の響きだけが残り、兄の身体は無傷のまま。

敵は驚愕に目を見開いた。

兄は知らない。

妹の両の拳が胸の前で合わせられていることを。

そしてその瞬間、彼女が小さく呟いていたことを。

「……土塊に、生命と文明を」

妹の持つ拒絶の力が、静かに発動していた。

刃が次々と迫る。

だが、どの一撃も兄の体を裂かなかった。

鋭い突きは空気に逸れ、振り下ろされた鉄棒は弾かれ、火炎瓶は地面に砕けて無駄に燃え上がる。

「……どういうことだ」

兄の眉間に皺が寄る。

自分の動きが速いだけでは説明できない。

明らかに、攻撃そのものが届いていない。

背後から小さな笑い声が聞こえた。

「ねえ、お兄ちゃん。気づいた?」

妹が拳を胸の前で重ねたまま、楽しげに見上げている。

炎と血の照り返しを浴びた頬が、うっとりと紅潮していた。

「私ね、ずっと無傷だったんだよ。こっちに来てから一度も」

兄は息を荒げたまま、横目で彼女を見た。

妹は微笑む。

言葉は戦場に似つかわしくないほど優しい響きだった。

「私の魔法。『土塊に生命と文明を』――拒絶する力。

 お兄ちゃんにだけは絶対に届かないけど、他のみんなには効くの」

ナイフで敵の喉を裂きながら、兄は無言で耳を傾ける。

妹は、さらに言葉を重ねた。

「だから、私はここでずっと待ってた。

 お兄ちゃんが来て、私を抱き締めてくれるのを」

血の飛沫の中で、彼女の瞳だけが澄んでいた。

その瞳に射抜かれ、兄は言葉を失う。

だが足は止まらない。

刃が再び敵の体を貫く。

妹は背後で静かに笑い、囁いた。

「――ほら、やっぱり。優しいお兄ちゃん」

敵を斬り伏せながら、彼の脳裏に過去がちらつく。

――本当なら、普段のふたりは喧嘩ばかりだった。

些細なことで言い合いになり、口を開けば皮肉や文句ばかり。

互いに譲らず、無駄に意地を張り合い、夕食の席はしょっちゅう険悪な空気で終わった。

それでも翌朝には顔を合わせ、またくだらないことで口喧訛。

そんな距離感が当たり前だった。

なのに。

腕の中の妹は、うっとりと笑っている。

血に濡れた頬を寄せ、背中に腕を回し、戦闘の最中に囁いてくる。

「待ってたんだよ。ずっと」

普段の彼女なら絶対に言わないはずの言葉。

軽口や悪態に隠してきた想いを、今は一切隠そうとしない。

兄は息を荒げ、刃を振り抜きながら僅かに目を細めた。

「……そんなはずじゃなかった」

だが妹は首を振る。

「ううん。そういう“はず”なんて、もう要らないでしょ?」

炎と悲鳴に包まれた夜の街で、兄妹の関係は既に常識を踏み越えていた。

「あたしが、守ってあげるから。傷つけたくない人は私が守る。お兄ちゃんも……」

妹の声は小さく、それでいて確信に満ちていた。胸に回した腕の隙間から、血と埃にまみれた瞳がじっとこちらを見上げる。

「でも、この人たちは──死んでも悲しくないよ。大人になるまで殺し続けた、悪い人だから……ね?」

言葉の終わりに、軽い問いかけのような音が混じる。戦場の喧噪の中で、奇妙に無邪気な響きだ。彼女の笑みは子供めいているが、その目には何か冷たい計算も宿っている。いや、計算というよりは確信。世界を秤にかけたときに、彼女の中で「守るべきもの」と「切り捨てていいもの」が、すでに振り分けられているのが見える。

彼は一瞬、刃を止めた。筋肉の緊張が抜けるわけではない。手はまだ硬く柄を握りしめ、脈は早い。だが胸の奥に、冷たいものが落ちるのが分かった。妹の言葉は刃の先に届き、彼の中で何かを揺らした。

「……お前は、ずっとそうだったか?」

声にならない問いが漏れる。問い自体が答えを求めていないのを、彼は知っていた。妹の手が、彼の首筋に触れて、乾いた汗を拭うように優しく滑った。

「うん。待ってた。ずっと。だから、今は、これでいいの」

彼女の指先に力がこもる。背後の敵がまた一歩寄せるが、刃は再び舞う。彼は戦いを止めるつもりはない。止めるどころか、腕に込める力は少しだけ増した。守るための刃は、いつの間にか「守るべき者を守るために、切り捨てる」ことをためらわない道具になっている。

だが、その刃先が向かう先を見つめるたび、彼の胸のひだに小さな傷が増えていくのも確かだった。妹の確信は、救いにも毒にもなり得る。二人の間に流れる空気は甘く、同時に、艶やかな刃物のように冷たい。

兄は一瞬ためらい、口元を結んだ。

戦いの最中にそんな余裕を見せるのは異常だが、どうしても言葉にせずにはいられなかった。

「術法病理にあるべき姿を──」

低く吐き出す。しゃがみ、膝を伸ばし立ち上がる。

だが、それだけだった。

周囲の空気は揺れない。

火花も閃光もなく、ただ彼が立ち上がっただけ。

一瞬の沈黙。

次いで、敵の群れが爆笑した。

「なんだ今の?」「立ち上がっただけだぞ!」

「魔法も使えねえのか、ただの気取り屋だ!」

背後で妹が肩を震わせる。

耐えていたが、堪えきれずに吹き出した。

「ふふ……あははは! やっぱりお兄ちゃん、最高!」

敵の嘲りと妹の爆笑が重なる。

だが、その笑いの質はまるで違っていた。

彼女は愛おしそうに、誇らしげに笑っている。

群れの一人が縄を取り出し、嘲るように言った。

「縛っちまえ! 見世物にしてやろうぜ!」

数人がかりで両腕を後ろに回され、荒々しく縄が締まる。

屈辱。拘束。失笑。

本来なら力を削ぐはずのそれが、彼にとっては逆だった。

妹の声が甘やかに囁く。

「ほら、お兄ちゃん。縛られたよ。……ねえ、殺して?」

縄の摩擦が、嘲りが、彼の力を押し上げる。

呼吸が研ぎ澄まされ、筋肉が膨れ上がる。

デバフが燃料に変わっていく。

刃が閃いた。

一番近くで笑っていた男の喉が裂け、血が噴き出す。

爆笑は悲鳴に変わり、群れは一気に怯んだ。

妹は背後でうっとりと笑い続ける。

「ね、やっぱり。お兄ちゃんはこうでなくちゃ」

暗闇だった。

死んだ瞬間、意識は底へ落ちていった。

けれど完全な無ではなかった。

そこからずっと、「見せられて」いた。

兄の姿。

あの夜、自分を殺した男を追い続けていた兄。

警察も諦め、周囲が呆れ、すべてがもう忘れろと告げても――彼だけは止まらなかった。

痩せ細っていく体で、眠らずに足を動かし、爪が割れても手を伸ばし、ただ一人を追った。

何度も傷を負い、倒れ、立ち上がり。

やっと目の前でその背中を捕らえたときの、あの目。

まるで獣のように赤く、獲物を見失わない執念に燃えていた。

殺人鬼が振り返った瞬間、刃が閃いた。

血が飛び、男は絶叫し、倒れた。

その姿を、私は死んだ後も見続けていた。

――私を殺した人を嗅ぎ付けて、執念で殺した。

それは恐怖ではなく、誇りになった。

あのときから、私はもう完全に惚れ込んでいたのだ。

闇の中で、声が降りた。

「強い執念だな。あの男を愛しているのか」

女の声。

冷たく、艶やかで、どこか愉快そうに響いていた。

「……うん」

答えるしかなかった。否定はできなかった。

「ならば取引をしよう。お前を蘇らせてやる。その代わり、この世界で倫理も道徳も捨てて生き延びろ。

 血に濡れた愛を選んだなら、最後まで抱えていけ」

女神は笑った。

その笑い声に、私は頷いていた。

だって、もう決まっていたから。

――お兄ちゃんを支える。

それだけが、死んだ後も変わらなかった願いだった。

血に濡れた刃を見つめる。

息が整っていくうちに、手の震えが戻ってきた。

罪悪感が胸を掻きむしる。

確かに殺した。

さっきまで生きていた人間を。

正気が一瞬だけ戻る。

どうしてこんな状態になったのか。

何が、ここをこんな地獄にしているのか。

考えれば考えるほど、浮かんでくるのはあの女神の顔だった。

あの玉座に座っていた女。

引きずり下ろす。必ず。

その決意に沈みかけたところで、背後から妹の声がした。

「……お兄ちゃん、ちょっと特別な事情があるんだよ」

振り返ると、彼女は血に濡れた頬のまま、けろりとした顔で言葉を続けた。

「私達みたいな人間は狙われるの。まあ、外国人観光客みたいなものだと思って」

兄は眉をひそめる。

妹は楽しげに比喩を並べ立てる。

「諸葛孔明だってベトナム方面から来て、未知の戦術を持ち込んだでしょ?

価値があるけど、同時に“殺すべき対象”にもなっちゃう。

だから罪状とか関係ないの。普通に殺されるし、ここが一番被害を受けてる場所なんだよ」

さらりと言う。

笑いすら混じる。

この異常を、彼女は既に受け入れている。

兄は唇を噛み、思考を巡らせる。

女神が仕組んだ理不尽。

妹が生き延びるために背負わされた理屈。

――だが、それでも。

握ったナイフの感触が、答えを催促してくる。

「俺は――殺しのためにだけは、頑張れないんだ」

刃先を地面に向けたまま、低く吐いた。息が荒く、手のひらには血の温もりが残っている。周囲の喧騒は遠く、鼓膜の奥で鈍く震えるだけだ。

「でも、妹のためなら――頑張れる」

言葉に力を込めると、胸の奥の何かがきしむように疼いた。正気が一瞬戻ったときに見た景色、あの玉座の冷たい笑いが、目の前で現実味を帯びて襲ってくる。復讐だとか正義だとか、その言葉の多くは嘘だ。だが、妹の小さな温もりは本当だった。それだけは偽れない。

妹は、その告白を聞いて、ほんの一瞬だけ眉を上げた。血に濡れた頬に、嬉しそうな光が宿る。笑い声は甘く、残酷に響いた。

「いいよ」

小さく、しかし確信に満ちた声。指先で、兄の顎をふわりとつまむ仕草をした。まるで子供のじゃれ合いのように、しかしその手つきは確信に満ちている。

「全員、やっちゃっても」

言葉は柔らかい。だがその中には揺るぎない命令と祝福が混ざっている。彼女の瞳は真っ直ぐで、まるで世界の秤を自分たちで決めてしまっているようだった。

兄は一瞬、言葉を失った。刃を握る手に、わずかな震えが走る。正気と狂気の境目が薄く溶けていくような感覚。しかし、隣で微笑む彼女の体温が、その震えを確かに鎮める。

「……分かった」

喉を鳴らすようにして、彼は短く返した。答えは冷たくも暖かかった。ナイフをしっかり握り直す。血の味が、鉄の匂いが、戦場の鼓動が全て合わさって、動くべき方向を示していた。

ふたりは、互いの手を確かめ合うようにして固く手を握った。背後で、怯えた群衆がうめき、遠くで新たな影が蠢く。だが彼らだけは、世界と約束を交わしたばかりだった。

「行こう」

妹が小さく囁き、兄は無言で頷く。

刃を抜き、ふたりはまた歩を進めた。秘密を抱えた影が、夜の街へと溶け込んでいく。

妹は無傷だ、と言った。

確かに傷は一つもなかった。

だが彼女が過ごしていた場所は、目を覆いたくなるほど極貧の環境だった。

瓦礫の隙間に身を潜め、雨水をすすり、誰も近寄らない廃屋に眠っていた。

拒絶の力があったから生き延びただけで、人間としての生活とは程遠い。

兄は彼女の肩を抱えながら歩き、ふと体重の変化に気づいた。

「……前より重いな」

かつて抱き上げたのは、失血で息も絶え絶えの妹の体だった。

その時の冷たく軽い重みと比べれば、今の彼女は確かにずっしりと腕に感じる。

それは成長の証。

生き延びた年月が刻まれ、子供ではなくなっている。

成長しているのなら、尚更に栄養が要る。

骨も筋肉も、前より大きくなっているのだから。

「まず必要なのは、水と食料だな」

兄は独り言のように呟いた。

剣戟や血の臭いよりも先に、今はその現実の方が重要だった。

妹はくすりと笑った。

「ねえ、やっぱりそう言うと思った」

「何がだ」

「お兄ちゃんは、殺すのも上手いけど……私を生かすのも上手いんだよ」

彼は答えず、ただ妹の体を支え直した。

周囲を警戒しつつ、食料を探す算段を立てる。

生きるには殺しも要るが、生き延びるには食べることが要る。

両方が揃って、初めて“生存”になる。

彼女の体温が重みと一緒に伝わってくる。

その重みは、これから守るべき年月の象徴でもあった。

「ねえお兄ちゃん、歩きながらでいいけど……」

妹は少し照れたように笑った。

「実はね、私には拠点があるの」

兄は眉をひそめた。

「拠点?」

「うん。お兄ちゃんが来るって話は、前から聞いてたから。準備しといたんだよ」

彼女はさらりと言ったが、その言葉には重みがあった。

ただ野ざらしで生き延びてきたわけではない。

生き延びるために場所を押さえ、人を利用し、権利を積み重ねたのだ。

「……どうやってそんな真似を」

「簡単だよ。荒れてるからこそ、金は偏るし、権利も動くの。

 弱い人が押し潰されて、強い人がまとめて持っていく。

 だから、国全体が変質していった」

兄は無言で周囲を見回す。

夜の街に響くのは、怒鳴り声と銃声と泣き声。

秩序が壊れたまま均衡を保っている奇妙な世界。

妹の言う通り、荒廃が逆に新しい秩序を生んでいる。

「でもね」

妹は小さく笑い、瞳を輝かせた。

「ここで育った人たちは、戦闘においてはすごく優秀なの。他の国からわざわざ確保されるくらいに」

その声は誇らしげで、同時に少しだけ寂しげだった。

この国は人材を育てるために犠牲を食わせている。

妹はその犠牲の一部であり、同時に収穫でもある。

兄はナイフを握り直した。

この拠点を確かめる必要がある。

彼女がどうやって生き延び、何を積み上げたのか――そこに、この地獄を生き延びる答えがあるかもしれない。

背中で妹がもぞもぞと動いた。

歩幅に合わせて呼吸は乱れないが、何かを言いたげに喉が震えている。

「ね……ねえ、お兄ちゃん……あの、ひとつ……」

言葉が途切れる。

すぐに続くかと思えば、また少し黙る。

けれど声は途切れても、足音と街のざわめきに重なって、会話は不思議と円滑に流れていく。

「ここでは……ううん、あの……大事なこと……」

妹は言葉を探すように、背中で小さく息をついた。

「……近親婚は……死刑……なの」

その言葉はやっとのことで吐き出された。

兄は少しだけ肩を揺らしたが、歩みは崩れない。

「……ふーん」

冷めた一言で済ませる。

妹は小さく笑った。

「でも……でもね、外部の人は……えっと、希少で……価値があるの。そういう認識なの……」

喉の奥で詰まりながらも、素早く言葉を重ねる。

「諸葛孔明だって……その……違う土地から来て、新しい戦術を持ち込んだでしょ?

だから……だから私たちみたいなのも、そう……」

たどたどしく、けれど一息で。

会話は流れるようで、肝心な言葉だけがまだ伏せられている。

「つまり……つまりね……」

妹は背中で強く抱きついた。声が震え、次の一言がやっと漏れた。

「……お兄ちゃんと……結婚したい」

その告白を言い切った瞬間、沈黙が街の喧噪を押しのけた。

背中に感じる体温は熱いのに、その瞳には四年分の虚無と失意が、深く沈んでいた。

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