乾くまで、あなたに触れない
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第1話 表層
――〈…ひとすじ…〉
手から始める。
麻の前掛けの上で、姉役の綾(あや)は薄手の手袋の縫い目を整え、山羊毛の刷毛の根本を親指と人差し指で一度だけつまむ。掌に収まる小さな重みが、今夜の気温と湿度を確かめろと告げる。刷毛の毛先が紙面に触れる前に、綾は空気を撫でるように一往復させ、浮いた塵の音を聞く。微かなざわめき。紙はまだ乾いている。
工房は路地裏に沈み、窓の向こうは灯の少ない通りだ。二十四時を過ぎると、近くの印刷所の機械が止まり、ここだけが呼吸を続ける。棚には和紙の束と綿手袋の箱、膠(にかわ)の瓶、湿度計。金属の器の縁には乾きかけの膠が透明の鱗のように残っている。
「最小介入、可逆性、記録。」
綾は、いつもの三語を口にした。念仏のように、あるいは呪いのように。三十四歳の彼女は、修復の基礎を教える際、この順を崩さない。
「復唱します。」
妹役の果歩(かほ)は笑って、同じ三語をもう一度、ゆっくりたどった。二十六歳。大学では文学を専攻したが、卒業後すぐにここで助手見習いになり、四月が二度過ぎた。髪は後ろでひとつに結んでいる。片耳の小さな痣は、工房に来てから気づいたと打ち明けたものだが、理由は聞かずにいる。
今夜取りかかるのは、羊皮紙を転用して何度も上書きされた写本——パリンプセスト。紙ではなく皮の層が光を飲み、時に吐き返す。その吐息を逃さないための角度と距離を、二人の目が測る。
「まずは乾拭きから。」
綾は言い、刷毛を紙面の上をわずかに浮かせたまま、光の角度を変える。斜めに差す灯が、抑えた艶を作る。毛先が触れたか触れないか、その境目で止める——止められるかどうかが、手の長さの違いだ。
果歩は綾の動きを、呼吸の数も含めて数える癖がある。ひと撫で、二拍置く。ふた撫で、ひと拍。刷毛が紙の上を過ぎるわずかな風が、頬の産毛を押す。押して、戻す。押して、戻す。
「かほ。」
呼ばれて、果歩は背筋を伸ばす。
「はい、綾さん。」
「呼称で距離は決まらないけれど、決め方は決まるわ。呼んで、手を止められる距離がいい。」
「……はい。」
そう答えながら、果歩の指先は刷毛の軸の滑らかさを確かめる。無意識に、綾の握りの位置をなぞり、同じ位置に親指を置く。木肌が人の温度を記憶しているかのように温い。
作業台の上に、保護紙を数枚広げる。乾いた音が重なる。綾は光源の高さを少し下げ、窓ガラスに布をかけた。通りからの橙色を遮ると、工業ランプの白だけが残る。影が薄くなるほど、紙は正直になる。
刷毛がはじめて紙に触れる。触れた瞬間は、音ではなく、欠落する音として訪れる。さっきまであった微かなざわめきが、そこだけ消える。その消えた輪郭を綾の手が追う。
「ここが——ほら。」
綾は角度を変え、果歩に視線を示す。紙面の、ごく表層。老眼鏡を少し押し上げる仕草も、いまや儀式の一部だ。
果歩は覗きこむ。見えるのは筋目、擦過、日光に焼けた黄の濃淡、紙虫の軽い通り道。だが、どこかに「線としての意志」がある。偶然ではない撫で方。誰かの手の長さ。
「……そこ、笑ってませんか。」
思わず出た言葉に、綾が目だけで笑う。
「紙は笑わないわ。」
「でも、笑ってるみたい。」
「“みたい”は、いつだって危ない。」
綾はそう言いながら、刷毛をもうひと撫で。浮いた灰白の粉塵が、角の吸い取り紙に吸われていく。
乾拭きは、誘惑の訓練でもある。触れたいものの表皮だけを撫で続け、奥には入らない。入らない、ことを決め続ける。その連続に、身体が耐えられるかどうか。
「今日の基準を置きましょう。」
綾は作業台の隅にノートを開く。日付、温度、湿度、紙の状態。筆圧の記録欄には、今日も空欄が残る。数字にできない圧がある。
壁へ、果歩が新しい管理表を貼る。手書きの罫線が少し右へ傾く。
「まっすぐ。」
「まっすぐ、ってなんでしょうね。」
綾は苦笑し、透明テープの端を押さえる指に目を落とす。押さえる、という動詞が好きだ。過剰でも不足でもなく、ただそこにいさせる力。
休憩の紅茶が、湯気を立てて冷える。膠の瓶は今夜はまだ湯煎にかけない。乾拭きと観察だけで、層の輪郭を掴む予定だ。焦る必要はない。焦る必要がない時間ほど、早く過ぎるのはどうしてだろう。
果歩は窓辺へ半歩寄り、手の甲を光にかざす。紙に触れる前に自分の皮膚を見ておくと、無用な熱を置いてこなくなる、と綾に教わった。指の節に小さなささくれ。そこから入る温度が紙に移る。
「かほ。」
「はい。」
「あなたの手は、柔らかい。でも柔らかさは、技術になるまで、ただの甘さよ。」
「甘い、って悪いことですか。」
「悪くはない。けれど、紙は甘さを摂るのが下手。」
果歩は頷き、刷毛の角度を一度だけ直す。それから、紙の縁に沿って空気を払う。払うたびに紙面が軽くなり、しかしどこか、内側が重くなる。この重みの正体を、彼女はまだ言葉にできない。
工房の時計が一つ、静かに鳴る。薄い音が天井へ散り、戻ってこない。綾は椅子を引き、写本の表紙をそっとめくる。麻紐で綴じ直された簡素な綴じ。中扉の余白に、古い蔵書印が淡く残る。
「依頼主は、展示の候補にしていると言っていたわ。」
綾は言葉を選んで、軽く置く。
「展示、ですか。」
「決まりではない。決まりではないけれど、そういう話をすると、紙は人前へ出ていく顔を選びはじめる。」
「顔、ですか。」
「あなたが思うより、紙は社交的よ。」
冗談を言いながらも、綾の目は笑っていない。展示の有無は、修復の方針に影響する。むやみに浮かせてはならない層がある。むやみに消してはならない層がある。どちらも、過去に属するが、現在に効く。
果歩はページを支える。支える手に、綾の視線が落ちる。手袋越しでも伝わる圧の配分。指先と掌の間で、重みが静かに転がる。
「いい位置。」
その一言が、果歩を満たす。褒められることが目的ではない。ただ、音の少ない世界で、確かな肯定がひとつ落ちると、耳がそこに寄ってしまう。
短い沈黙ののち、二人は紙面へ戻る。乾拭きは終盤。わずかな繊維の毛羽立ちが、光に沿って起きる。起きて、伏せる。起きて、伏せる。
綾はランプの首をほんの少し——本当に、ほんの少しだけ——下げた。角度が変わる。影が淡くなり、別の影が生まれる。
その瞬間だった。
紙の表層に、細い、けれど意志の通ったひとすじが、斜光に沿ってきらりと反応した。傷ではない。染みでもない。生きている線だ。言語になる前の、誰かの手の跡。
果歩は息を止めた。止めたまま、半歩だけ前へ。刷毛を持つ手が、無意識に持ち上がる。
「待って。」
綾の声が、空気の高さを維持する。命令ではない。抑えでもない。ただ、測量。
果歩は手を下ろし、頷く。綾がもう一度、角度をわずかに戻す。線は、消えない。そこにいる。
「……見える?」
「見えます。」
「“みたい”じゃなくて?」
「見えます。」
言い切った声は、自分のものとは思えなかった。綾が、ほんの一瞬、果歩の横顔を見た。見て、戻す。
「記録は、今は取らない。」
「はい。」
「“浮く”前に、基準を置く。光の高さ、角度。ランプの温度。」
綾はノートに数行を書き込み、ペン先を止めた。止めることも、記録の一部だ。
果歩は刷毛を置き、素手に戻した。手袋の内側に薄い汗。冷たい空気が直に皮膚へ触れる。工房の温度はさほど低くないのに、紙に近づくたび、指先だけが冬になる。
「綾さん。」
「なに。」
「紙、笑わないって言いましたけど。」
「言ったわね。」
「じゃあ、わたしたちが笑うと、紙はどうしますか。」
「困るでしょうね。」
「どうして。」
「笑いは、水分だから。」
綾は半分冗談みたいに言い、しかし続けた。
「紙は、水分の取り扱いが下手。だから、わたしたちが上手になる必要がある。」
果歩は小さく笑い、それでも口角の水分は内側にとどめる。笑い方にも種類がある。紙に優しい笑い方を、ここへ来てから覚えた。
「かほ。」
綾が呼ぶ。
「はい。」
「あなたの柔らかさは、きっと強さになる。なるけれど、なるまでに何枚か、薄い紙を犠牲にするかもしれない。」
「……犠牲にしないように、なれますか。」
「なるしかない。ここにいるなら。」
工房の外で、遅れて通る車の音。すぐに遠ざかる。二人はまた、紙へ。
綾は刷毛を置き、代わりにごく薄い保護紙を一枚、指先で持ち上げた。和紙の端が空気を掴む。面ではなく、線で。線ではなく、点で。点ではなく、繊維で。
「これを被せて、今日はここまで。」
「もう少し、見ていたいです。」
「見すぎると、目は嘘をつく。紙がわたしたちに合わせてくる。」
「紙が、合わせる?」
「ええ。優しいから。」
綾は保護紙を紙面に落とすのではなく、“置く”。わずかな空気が逃げ、音が吸い込まれる。
果歩は、その白に自分の呼気がかかるのを恐れて、一歩退く。退いた距離を、綾の視線が測る。適切。
「管理表、壁に。」
「あ、はい。」
果歩は机の端から表を持ち、壁へ。今日から新しい欄が増えた。光源の角度。角度は数字にできるが、数字にできない「ためらい」の度合いは欄がない。
テープをちぎる音が、乾いた夜に響く。右上の角を貼り、左上を貼り、下辺をなぞる。指の腹が壁の塗装のざらつきを拾う。ざらつきは、安心の手触りだ。つるつるは、逆に怖い。
「まっすぐ。」
綾が後ろから言う。
「はい。」
果歩は目を細め、わずかに紙を引いた。空気が入る。出る。入る。出る。次第に、まっすぐに見える。
「……まっすぐに、見える。」
「見える、が大事。」
綾は言って、背中を軽く、視線で撫でる。触れない撫で方。触れるより長持ちする撫で方。
作業台に戻ると、保護紙の白が静かに落ち着いていた。下にある写本は、今日はここまででよい。これ以上の“観察”は、介入になる。
果歩は刷毛を洗い、布で水気を拭き、毛先を整える。整える手が、自分の呼吸と同じ速さになっている。整える、という動詞には、祈りが含まれているように思う。
綾はノートを閉じ、温湿度計の数値を一度だけ目で撫でた。温度二十三、湿度四十五。冬でも夏でもない、教科書通りの中庸。こういう夜は、記憶が入りやすい。紙にも、人にも。
「鍵、かけるわ。」
綾が言い、入口へ向かう。錠の金属が小さく回り、夜が外と内を分ける。戻ってくる足音の、床との摩擦。摩擦の音は、今夜の終わりを告げる鐘の代わりだ。
「綾さん。」
果歩が呼ぶ。綾が振り向く。距離がある。呼んで、手を止められる距離。
「はい。」
「紙は、笑わない。わたしたちが笑うと困る。……じゃあ、泣いたら、どうなりますか。」
綾は少し考え、それから首を傾げる。
「泣き方にもよる。」
「優しい泣き方って、ありますか。」
「あるかもしれない。まだ、知らないだけ。」
果歩は頷き、片付けの残りを済ませる。椅子を、机に寄せる音も、記録に残したくなる。記録に残さないからこそ、記憶に残る音もある。
最後に、二人は保護紙の角を確かめる。浮いていない。沈んでいない。そこにいる。
「また明日。」
綾が言う。果歩も言う。明日という言葉は、紙にとっては過去のことだ。私たちが追いついて、ようやく現在になる。
鍵の音が落ち着くと、静けさが二段階で戻ってくる。耳に近い静けさと、紙に近い静けさ。前者は人のため、後者は書物のために用意された余白だ。
果歩は壁の管理表をもう一度見た。新しい欄には、斜線の入った空欄が並ぶ。明日以降、ここに数字が埋まる。角度、距離、距離の根拠。けれど「ためらい」は欄からこぼれ続け、床下の暗がりに溜まるだろうと思う。溜まったものは、ある夜、別の形で浮かんでくる。
「明日は、湿しに入りますか。」
「様子を見て。湿箱は出しておく。」
綾は棚の下段から、蓋付きの浅い箱を取り出す。中は空だが、空は準備だ。四方に貼られた和紙は乾いていて、明日には霧を吸って肌が生き返るだろう。
「吸い取り紙のストック、数えておいて。」
「はい。」
果歩は紙束を数え、メモに数字を書く。数えるたびに、紙の重さが掌の骨に移る。重さは数値になるが、骨の側の記憶は数値にならない。
窓の外を猫が通る。尾の先だけが街灯の光を拾って、針のように光る。工房の中の光景は、外からは見えない。見えないことが、ここでは保護になる。
綾は膠の瓶を軽く振り、音だけを確かめる。中身は固い。固いままでいい。膠は、必要なときだけ溶かす。溶けると柔らかくなり、柔らかさは甘さに似る。甘さは紙には不向きだが、人には救いになる。
「かほ、帰り道は気をつけて。」
「綾さんこそ。」
「私は、もう少しだけここにいる。」
「記録、ですか。」
「記録と、記憶の整理。」
綾は笑い、机の横の小さな椅子に座る。背もたれにかけた作業着の匂いは、洗い立ての石鹸と、微かな膠の甘み。果歩はその匂いを覚えておく。明日の手の温度のために。
「じゃあ、先に。」
「おやすみ。」
「おやすみなさい。」
扉が閉じ、空気の層が少しだけずれる。果歩の足音が階段を降り、路地の静けさに合流する。残された綾は、深呼吸を一度だけして、ノートを開いた。今日のページに、薄い鉛筆で「線」と一字だけ書く。書いて、消す。消して、また書く。
線は、言葉になる前の言葉。線は、触れないための触れる方法。線は、向こう側にいる誰かを呼ぶ橋。——綾はそう書きかけて、やめた。書いてしまうと、自分が読者になる。今はまだ、読者でいたくない。
ランプの明かりをわずかに上げ、もう一度だけ紙面を観察する。保護紙越しに見える白は、雪ではなく、眠りの色だ。眠りは、起こすためにあるわけではない。起きるためにある。
綾は椅子を引き、立ち上がる。窓にかけた布が外気の動きにわずかに揺れる。遠くで、時計台がひとつ刻む音を落とした。遅い。遅さは、ここでは味方だ。
消灯の前に、もう一度だけ——角度を確かめる。息を揃える。そっと。灯りを落とす前、綾はもう一度だけランプの角度を元へ戻した。斜めの影が、机と壁に長く伸びる。
その長い影の中で、紙の奥に眠るひとすじが、確かに——浮く。
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