c8v8c純文学寄り短編集

c8v8c

生ゴミの匂い

 久しぶりに帰った実家は、生ゴミの匂いがした。

「あら、おかえりねぇ」

「ただいま」

 玄関を開けるやいなや、祖母のしゃがれた声が台所から響いてくる。こんな昼間から夕食の準備とは、長年染みついた習慣はなかなか消えないらしい。うちは五人兄姉だった。

 靴を脱ぎ、鞄を適当な場所に捨て置き、腐ってすっかりきしむようになった木製の廊下を歩いていく。

「ねぇさっちゃん、包丁どこいったか知らない?」

 祖母は包丁でレタスを切りながら言う。

「持ってるじゃん」

「これは予備の包丁だねぇ」

「あ、いつもの青い奴? 知らないよ」

「そう」

 祖母は声だけをこちらに飛ばし、包丁の動きは決して止めない。顔もまな板のレタスを見つめたままである。その後ろ姿は、数年前までのあの頃、私がまだ高校生だった頃からまったく変わっていないように思える。

 カタカタと鳴るみじん切りの音を聞きながら、台所と一続きになっているリビングで横長のソファに座り、テレビの電源を付ける。いつもならソファ前の机にあるリモコンが見当たらず、探すと、テレビ横の床にぽつんと置かれていた。騒がしい演者しかいないワイドショーが始まる。金髪の男性タレントが『それにしても、最近は通り魔のような殺人鬼が多くて怖いですね』と言った。

「たしかにそうねぇ」

 祖母がリビングに来て呟く。エプロンは着ていない。わざわざ今脱いだわけではなく、レタスを切っているときから着ていなかった。

「昔は盗撮とかが多かったけどねぇ、今はもう、殺しちゃうんだねぇ」

「お母さんも気をつけてね。買い物行くときとか」

「あたしは大丈夫だよ。ここらへんは治安がいいからねぇ」

 殺人鬼に気をつけて、というのはもちろんだが、祖母に限っては命そのものよりも迷子にならないか心配である。最近は孫の私を母とよく間違えるし、医者からも認知症の初期にしては見当識けんとうしき障害が深いと言われている。日中は母も父も仕事でこの家から出はるのだから、大学の夏休み中は私がなるべく実家に居てあげたい。

「さ、お母さん。ゴミの処理してないでしょ。ちょっと匂うよ」

「あ、そうだった。忘れてたねぇ」

 私が母の代わりに家事を済まそうとすると、祖母は「忘れてた忘れてた」と連呼し、ゴミ置き場がある勝手口に移動する。

「いいよ、私も手伝う」

 そう言って私も腰を上げる。寂しいのでテレビは点けたままにしておいた。階段下の押し入れから新聞紙と、玄関近くに放り投げたままだった鞄を持って勝手口に向かう。台所のまな板の上で、包丁と、これでもかとみじん切りにされたレタスが色を失っていた。

 勝手口から外に出る。灰色と赤色のゴミ箱があり、それぞれ燃えないゴミ、燃えるゴミで、どちらも満タンではあったが、特に赤い方で、蓋が閉まらないほど生ゴミの山が積み上がっていた。祖母はその山を上の方から回収して、自治会指定の燃えないゴミ専用ポリ袋に詰め込んでいる。

「ありがとねぇ、老体にはちょっとキツいからねぇ」

「老体じゃなくてもキツいよ、この匂い」

 私も加わってバナナの皮をトングで摘まんだ。

 見当識障害は酷いが、やはり医者が言った初期というのはまったくの嘘ではないようで、祖母はこのような軽い物忘れならば誰かの注意で素直に正そうとする。これが頑固に反発するようになったらいよいよだと思うが、祖母が認知症になってから早一年、未だ病状の際立った進行は見られていない。

 このまま無事に続いていったら私が母を演じるだけの苦労で済むが、おそらくそんな都合の良いことはないだろう。だが、認知症発症前から変わらなく頼もしいその背中を見ていると、この祖母が私を母とすら思えなくなるという未来は、はっきり言ってまったく想像できない。

 といっても、数年前の私がこの現状を知っても、「祖母が私と母を間違えるようになるなんて信じられない!」と叫ぶだろうが。

「よし、終わったねぇ」

 数分かかってゴミの整理がつくと、祖母は背伸びをし、「ちょっと買い物行ってくるねぇ」と、屋内に戻っていった。

 人気がなくなった裏口で、私は鞄から血のついた包丁を取り出す。鞄が汚れないように丁寧に包んでいたタオルを外すと、刃と柄の所々に赤い血のついた、峰の青い包丁が現れた。

 ──なんだこれ。

 ついさっき、東京から三時間をかけて帰省してきた私が実家の庭で見たのは、アサガオの足元に隠れて捨てられていたこの包丁だった。

 もちろん、経緯は分からない。この血がどの生き物のものなのかも知らない。いつからここにあったのかも不明。だが、この特徴的な青い峰は、確かに実家でよく使われていた包丁だった。

 おおかた、魚をさばいた状態で祖母に誤って捨てられたのだろう。そう考え、素直に祖母に渡してあげようとそのまま素手で拾おうとした瞬間、人間の血はなによりも汚いという話を思い出した。

 一度あふれ出したら、妄想はどこまでも膨れ上がった。陰謀論と同じだ。仮定に仮定を積み重ねて、ありもしない最悪の事態をさも現実かのように思い込む。私の場合は、祖母が認知症という不安定な要素があるばかりに、妄想の幅が大きくなった。

 ──間違って人を刺しちゃったりして。

 血のついたタオルを赤色のゴミ箱に投げ捨てる。人を刺すと言わずとも、他人の飼っている犬がたまたま庭に入り込んできたかもしれない。祖母は昔から犬嫌いなのだ。包丁は新聞紙に包んで灰色のゴミ箱に捨てる。ガコッと底で鈍い音が鳴った。一件落着、と信じたい。

 勝手口から中に戻り、「あれ」と、台所にいなかった祖母を探す。リビング、トイレ、脱衣所、他にも二階の寝室など、すべて見て回ったが、祖母はどこにもいない。だが、階段を降りたところで思い出す。そういえば、買い物に行ってくると言っていた。

 そうか、買い物に出かけたのか。ということは、みじん切りのレタスは放置されたのか。可哀想に。

 なんとなしにレタスの様子を確認しに台所に移動すると、レタスはちゃんと放置されていたが──包丁がなかった。慌てて下段の収納を開けて包丁スタンドを見るが、空だった。

 そうか、祖母は包丁を持って買い物に出かけたのか。

 切り刻まれたレタスがこちらを見ていた。耳はワイドショーの殺人鬼特集を拾う。急いで祖母を追いかけるべきだと分かっているのに、なぜかレタスから目が離せない。勝手口のゴミ箱はたった今綺麗にしたというのに、不思議と生ゴミの匂いを強く感じた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る