第2話 病室2

 月がいつまでも美しいのは、周りに月と同じくらいの大きさの星が見当たらないからだろう。

 他に似た惑星が地上から見えたら、その美しさを比べて、優劣をつけてしまうのが人間の性だ。

 暗闇の中で、肉眼でだけ見える唯一の−12.7等星。

 月が美しいのは、他に比べる惑星がないからなのだろう。その代わり、日中は、太陽が独り占めしている。

 相対的な美しさ。

 それとも、月の美しさは、絶対的なものだったのか。


 病室で、彼女の瞳を見つめるたびに思う。

 ――それでも、やっぱり月より美しい、と。


 唯一無二の価値が、そこにはあった。

 言ってしまうと、僕は、彼女に恋をしている。

 それだけのこと。

 こんなベッドから起き上がれない状態になっても、人の、中身は変わらないらしい。

 彼女は、今日も、僕の目を見つめる。

 かわいい。その目を、僕はただ見ている。

 見ていることができている。

 それだけが、僕にとっての、人生の全てだった。

 終わりよければすべてよしとはいうが、つまり、こういうことだったのだろう。

 これまでの、僕の冴えない人生が、全てどうでもいい。彼女がそこにいるなら。彼女の姿が見れるなら。一瞬でも、見れたなら。いや、生きてさえいれば。それだけで、充分だ。

 一呼吸だけで、幸せを感じられる人生を達観した僧侶がいるなら、僕のように、ひとりの女性がいるだけで、幸せを感じられる頭のおかしな人間もいるだろう。

 病室で、弱った人間がいた。

 それが、僕のことだとは、思いもしなかった。

 なにが、どうなっているのか、わからない。

 スマホを表示すれば、『本当』の意味すら、わからなくなる現代の情報過多社会において。

 偽物の情報と、本物の情報。

 本当の恋なんて、大人の年齢になった僕としては、あれは、あったことなのか、なかったことなのか、曖昧に薄れていく。

 しかし、こうして、窮地に陥ってみるとわかる。

 圧倒的な痛みによる、孤独。

 自分がどうなっているか、わからない、不安なんて生やさしいく感じられる恐怖。

 それで、人生が追い詰められるのだ。

 最後には、人間は、いずれそうなるのだと納得することもできないまま、僕は、縋るように、彼女を見つめていた。

 彼女が僕を見つめるから、嬉しくて、それだけが、僕の全てで。

 その吸い込まれそうに深い黒い瞳に、うっとりする。

 側から見れば、病室のベッドに横たえられた患者と、客人の図でしかないのだが。お互いの目を見つめ合う時間が長引けば、それはそれで、異様な光景として映るだろう。

 だが、僕には、それしかないのだ。

 どんなに悲惨な状況でも、明るくいられるのが、人間だろう。当の本人が気づいていないだけで、なにが起こっているか、わからない。

 それでも、マイナスではない。

 むしろ、僕にとってはプラスだ。

 だって、彼女がいるのだから。

 縋るしかないのだ。

 縋れるものが、できた。

 何のために、働いているのか、最早わからない人間にとって、この病室の時間は、天国行きのチケットに思われた。そう、この場所にいる前は、僕は働いていたはずだ。

 白いベッドに横たわる僕は、じっと彼女を見つめる。

 美しい瞳。

 その丸が、月より美しいことを知っている。

 月の近くに、同程度の大きさの星があれば、どちらかが美しいかを選んでしまう。

 そういえば、僕が仕事をしていた頃は、それについて悩んでいた気がする。

 絶対的なものと、相対的なもの。

 どちらが正しいのか。僕の働きぶりの評価が低いのは、絶対的なものか、それとも他の社員を比較した相対的なものか。

 この地球に絶対的なものなど存在するのだろうか、と。

 どの会社にも横行するささやかな不正について、悩んでいた。

 そう、思い出した。

 僕は、仕方なく不正をしていた。でも、それはやむを得ない事情があって、そうだ、上司にも報告をしたけれど、取り合ってくれなくて。

 いつか、死んでしまった方かいいと思うようになった。

 間違いだらけの人生だと、思って、逃げ場も失っていたのだ。そんな時、病気が発覚した。

 そして今回の脳神経外科の手術によって、命からがら生きている。

 やはり、僕は、生かされた命なのだ。

 なら、これをどのように使っても差し支えはないだろう。主治医には、感謝している。

 記憶は、残っていないけれど。たぶん、僕を救ってくれた執刀医もいたはずだ。

「…………」

「…………」

 ……いつまで経っても変わらない世界。

 彼女の目を見る。

 彼女も僕の目を見る。

 もし、僕の命が、今日まででも、この瞬間を心から愛おしく思う。

 正しさなんて、なにもわからなかったけれど。

 真実はここにある。

 痛みを忘れるくらいに、絶対的な、絶対値。

 彼女の双眸を見つめる。

 この瞬間が永遠に続けばいいのに。

 僕の心を、知ってか知らずか、彼女は目を半月にして笑いかけていた。


 ――ああ今日まで、生きていてよかった。


 頑張って、学校に行った。

 頑張って、働いた。

 その全てが、病気によって報われた。

 ありがとう。手術を成功させてくれて、ありがとう。


 だって、こんなにも、幸せなのだから。

 名前も知らない彼女に恋をして、僕は一生を終えるなら、それも悪くないと思う。

 


 *


 ある日、夢をみた。

 小学生の頃の夢だ。

 ガキの頃は住宅地が遊び場だった。

 マンションと呼ぶには小さく、アパートと呼ぶには大きすぎた、集合住宅。その四階に僕は住んでいた。最上階の五階には、誰も住んでいなく、その間にある階段を上がった踊り場を、僕達は秘密基地にしていた。

 大人には知られてはいけない、秘密基地。

 僕達は、そこにダンボールで工作をしていた。

 ハサミとガムテープを使ってダンボールを繋ぎ合わせて、子供二人が入れる秘密基地を作った。夢の中で、僕は、こんなことしたら、大家さんにまた怒られるぞ、と思っていた。しかし、本人は楽しそうだった。

 僕は、そのダンボールで作られた空間を意味もわからないままマッドハウスと名付けた。我ながら、誇らしい城ができたと喜んでいた。大人の目を盗んで、よくこんなものを作っていたものだ、と夢の中で感心する。

 建築者は僕と、古賀祐大こがゆうだいというお兄さんだった。敷地内の向かいのマンションというか、アパートに住む、友達だった。いつも、暇があれば、四階から五階の間の階段に座って、好きなおもちゃやゲームを持ち寄って遊んでいた。ゲームボーイ、ボードゲーム、工作、カードゲームが主な遊びだった。

 やがて、ここが、僕らのアジトになった。

 祐大くんの妹も、たまに遊びにきた。彼女は、僕と同学年だった。名前は、古賀美郷こがみさとという。彼女は、眼鏡を掛けている生真面目そうな印象を受ける女の子だった。いつもヤクルトのような形状の容器と、吹き棒を持っていて、シャボン玉を吹いていた。

 ある日、僕のアジトマッドハウスに彼女がやってきて、「食べれるシャボン玉」を持ってきて、吹いた後に球になって膨らんだ水玉を食べてみた。

 とても甘かった。

 フルーティーな味だった。イチゴ味だ。それを、アジトに吹きまくったら、マンションというか、アパートの壁が甘い液体でベタベタになった。

 ガムテープも、階段の至る所にこびりついていたので、この四階から五階の間の階段の空間は、色んな意味で魔境と化していた。でも、当時の僕は、善悪の判断の基準のわからないガキだったので、それをどうとも思っていなかった。


 *


 目が覚めた。

 夢だったらよかったのに、と後悔した。

 昔の記憶を思い出して、現実を見ることになる。

 決して、触れてはいけないことだった。

 健康で楽しかった頃を思い出してしまえば、今の自分の惨状と、比べてしまうから。なぜ、僕は、こんなことになっているのだろう。こんなはずじゃなかったのに、と。

 病室の寝床。

 頭には開頭手術をした後にホッチキスのようなもので接合した鉄の留め具が残っている。いずれ、抜糸をする時に取り除くのだろう。

 ベッドで寝ている僕の隣りに座るのは、彼女。

 彼女さえいれば、僕は構わない。

 そう思うことによって、平静を保っていたのに。

 感動の全くない、涙が瞼の端から流れてくる。

 そんなことをしたところで、誰も救われない。癒しにもならないのに、そんな不合理なことを、僕はしている。声を上げることはなく、誰にも気づかれることもなく、僕は、顔を涙で濡らしていた。

 ――彼女は、それに気づいているのか。それは、わからない。

 感情の読み取れない美しい彼女は側にいて、僕は彼女のことをだと思っている。

 彼女はこちらを心配しているのが見えた。

 なんで、泣いているの? とでも言いたげだ。

 口は動かしてているが、僕には聞こえない。僕は、とうに聴覚を失っている。慰めの言葉も聞こえないんだ。

 なにか伝えようとするが手足や喉が動かない。

 涙が出てきた。次から次へと。

 

『ああ、自分よりもっと酷い目に遭ってる人もいるのに、なんて弱い人間なんだ』といつも思って弱音を吐かないようにしていた。

 でも、それは間違いだった。

 どちらにせよ、僕は、僕を悲しんで、望みを発していいのだと気づいた。

 涙が出てくるように自然に、つらい時はつらいと言ってよかった。

 告白をしてもいい。

 僕は、この病室で、決して叶わない恋をする。

 体を管に繋がれたまま、彼女のことを愛している。

 結婚をしたい、なんて言ったら、また気弱な男がちょっと優しくされただけで、自分もワンチャンあるんじゃないかって勘違いしているだけと思われるだろう。

 でも、今はため息や諦めの言葉ばかり口にしていた学生の頃や社会人時代とは違う。

 僕は、もう諦めることを諦めた。

 この白い壁で囲われた病室で、外の広々とした青い空間を思い浮かべる。空はどこまでも、澄み渡り、草原で二人の男女が肩を並べる。

 美しい自然と共に在ること、地を踏み鳴らして自由に歩ける喜びを感じながら、二人は歩き出す。

 そんな空想を、した。

 当たり前の日常が、幸せだったと気づけなかった頃の僕へのプレゼントだ。

 隣りには、彼女がいる。

 椅子に座って今も、こちらを見つめている。

「…………」

「…………」

 本当に美しい女性だと僕は思って、恋をしている。

 言葉の足りない世界で、目はものをいうのなら、どうか彼女に、この想いが届いてほしい。

 そして、このちっぽけな人生で、彼女に最大級の感謝とありがとうを伝えたいのに。

 僕は伝えられないから。

 黙って、一生を終えようと思う。

 月が綺麗だねと言えない場所より。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

言葉の足りない世界 @rrugp

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画