第2話 庭園
春が来ると、宮殿の空気は変わった。
窓を押し上げれば、冷えきった冬の金属の匂いの奥から、土が息をしはじめる匂いが立ちのぼる。氷の下で眠っていた根が目を覚まし、どこか遠くで水がほどける音がした。侍従たちの靴はまだ慎重に床を踏むけれど、その足取りの硬さの中にも、わずかな弾みが混じる。廊下を漂う会話は短くなり、代わりにカーテンを抜ける風の音が長くなる。
「ジョイ、散歩だ!」
彼の声は、冬のあいだに細くなっていた糸を一気に張り直す。僕は跳ね、尾を高く掲げて走り寄った。彼が立ち上がる動作はまだゆっくりだが、目は春の色を映して明るい。上着のボタンを侍女が留め、スカーフを首に巻く手が少し震える。けれど彼の頬には、走りたいという影が灯っている。
長い長い廊下を抜ける。磨かれた床は冬よりも柔らかい光を返し、壁の肖像画は誰もが少しだけ微笑んでいるように見えた。
「殿下、どうかお足元にお気をつけください」
いつもの声。ナゴルニー。潮の香りと強い石鹸の匂いが混じる、まっすぐな匂いの持ち主だ。僕は一度だけ振り返って彼を見、また前を向く。彼の声は心配を含んでいるが、足取りは落ち着いている。彼は“もしもの時”に飛び込める距離を、いつも正確に保っていた。
扉が開く。
庭がひらく。
世界が広がる。
土の匂い。草の甘さ。去年の葉のかすかな腐れの匂い。その上を、新しい緑の気配が薄く覆っている。空気はひんやりしているのに、鼻先には陽の手触りがあった。僕は一歩外に出た瞬間、身体のなかのばねがほどけ、地面を蹴る。彼の笑い声が背中を追ってくる。
「待って、ジョイ!」
僕は走る。芝の上、獣道みたいに匂いの濃い線を選び、少し先でくるりと振り返る。彼は腕を広げ、笑いながら追いかけてくる。スカーフが風にふくらみ、靴の先が湿った土をはねた。
「殿下、ほんの少しだけゆっくりを」
ナゴルニーの声が近づく。
「大丈夫だよ、ナゴルニー。今日は調子がいいんだ。ねえ、ジョイ?」
僕は「そうだ」と言うかわりに、一声だけ短く吠えた。彼はさらに笑い、その笑いが春の空気を軽くする。僕らは並んで歩く。彼は手袋越しに僕の耳をくすぐり、僕は彼の膝に鼻先を押し当てる。
庭の中央の小道を曲がると、噴水が見えた。冬のあいだ止められていた水は再び目を覚まし、日の光を細かく砕きながら跳ねている。水しぶきの粒が空中でほどけ、そこに薄い光の帯が現れた。
「ジョイ、ほら。虹だ」
彼は指を伸ばし、子どもらしい声で言う。僕の目にはその七つの色はすべては見えない。けれど、彼が「きれいだ」と囁くものは、たしかにきれいだと体が知っている。僕は近づいて、水音を聞く。水にはまだ冬の冷たさが残っていたが、その冷たさもどこか生き生きしていた。
「ねえ、ジョイ」
彼は噴水の縁に腰かけ、僕の首元の毛を撫でる。指先は慎重で、どの毛も折らないように気をつけているみたいだ。
「僕、いつかパパみたいに皇帝になるんだって。ずっと前から言われてることだけど、最近、その意味が少しだけわかる気がするんだ」
僕は首をかしげる。彼は少し遠くを見つめた。目の色は空と同じで、けれど空よりずっと柔らかい。
「皇帝って、命令するひとだと思ってた。でも、この前、窓の外で人が争ってるのを見たとき、思ったんだ。『ごめんね』って先に言えるひとじゃないと、みんな帰る場所を失うって。怒ってる人も、寒い人も、お腹がすいている人も……帰れるように」
彼の声はまだ幼いのに、不思議と静かな深さをまとっていた。僕は彼の膝に顎を乗せ、耳を傾ける。犬の僕には、言葉の意味の細かいところはわからない。けれど、「帰れる場所」という言葉が部屋の匂いを連れてきた。毛布、木の床、夜のランプの油の匂い――家の匂いだ。
「それにね」
彼は僕の耳を指で挟み、ひそひそ声で続けた。
「僕、じつはちょっとだけ、普通の少年になってみたいんだ。姉さんたちと庭でずっと遊んで、夜はママのピアノを聴いて、パパの話を聞いてさ。そんなふうに一日が終わるのが、いちばん好きなんだ」
僕は尻尾をゆっくり振る。そんな日々を僕も好きだ。僕たちはほんの少しの間、同じ速さで息をした。噴水の水音が、それを数えてくれているようだった。
――その時だった。
小さな音。
彼の足先が、噴水の敷石の角に触れ、ほんのわずかにすべった。
世界が一瞬傾く。
彼の体がぐらりと揺れ、片膝が石に落ちる。乾いた音。彼はすぐに笑い、「大丈夫」と言った。けれど僕の鼻先は別のことを知っていた。石に触れた布の匂いの奥から、鉄に似た匂いがとても薄く立ちのぼる。僕はすぐに顔を近づけ、彼の膝のあたりを嗅ぐ。ほんの小さな擦り傷が、土の匂いと混じっているだけ――そう、ただの擦り傷。けれど、彼には「ただ」ではないことを、僕は何度も見てきた。
「殿下!」
ナゴルニーが駆け寄り、膝をつく。彼の影が、噴水の光の帯を一瞬遮った。
「大丈夫、ナゴルニー。僕、ちゃんと立てるよ」
彼は言い、手をつく。立ち上がる。僕はその手の震えを、石経由で感じ取った。ナゴルニーの視線が僕に落ち、僕は短く唸りを洩らす。彼はわずかに頷き、侍女に目配せした。
「ほんの少し中庭を歩いて、すぐ戻ろう。ね、ジョイ」
彼は僕の頭を撫で、歩き出した。さっきよりもゆっくり。僕は彼の脛のすぐ外側を歩く。もしも右に傾けば支えるように、左に傾けば寄りかかれるように。僕ができるのは、それだけだ。
小道の先で、姉たちが手袋を両手で擦り合わせていた。
「またジョイと走っていたのね」オリガが眉を上げる。
「殿下、頬が赤いわ」タチアナがハンカチを差し出す。
「虹、見た?」アナスタシアが小声で笑い、マリヤはそっと僕の背を撫でた。その指先には、ページをめくる紙の粉の匂いがついている。
彼は明るく「見たよ」と答え、転んだことは言わなかった。
姉たちも訊かなかった。春の光と、ほんの少しの沈黙が、みんなの間でうなずき合った。
その日は、温室の脇を回って戻ることにした。温室のガラスには冬の名残の白い跡が残り、内側で芽吹いた葉がそれを押しのけようとしている。ガラス越しの湿った熱気が、外の冷たい空気と触れあって、薄い霧みたいな息をつくった。僕らはその息の中を歩いた。
彼はふいに立ち止まり、僕の首元に額を預けた。
「ジョイ、僕はね、恨まないって決めたんだ。転ぶのは石のせいでも、庭のせいでも、ナゴルニーのせいでもない。ただ転んだだけ。痛いけど、それだけ」
言いながら、彼の息は少しだけ浅くなる。僕は耳をぴたりと伏せ、彼の鼓動を数えた。規則は守られている。僕は短く鼻を鳴らし、彼の頬を舐めた。塩の味。ほんの少しの不安の味。
「戻りましょう、殿下」
ナゴルニーの声がやわらかく割り込む。彼はうなずき、歩きだす。歩幅は小さいが、背筋はのびている。
途中、彼は振り向いて僕を見た。
「ジョイ、もし僕が本当に皇帝になるなら……今日みたいに転んだとき、誰かを責めずに、まず『痛かったね』って言える人になりたい」
僕は尾を低く揺らす。彼の言葉は、まだ春の芽のように小さい。けれど確かに地中で根を張っている。
宮殿の扉が近づく。重い蝶番が鳴る前に、部屋の匂いが先に来る。木の床、布張りの椅子、薪の灰。
中に入ると、暖かさが一度に肩へ降りた。彼は椅子に腰かけ、僕を膝に乗せた。侍医が遅れてやってきて、消毒液の匂いが春の匂いに重なる。小さな擦り傷に白い布が当てられ、母が短く祈りの言葉を口にする。彼は「大丈夫」と笑い、母は目を細める。
夕方、窓の外で光がほどけていく。
姉たちは机を囲み、針と糸を繰り返す。
「この刺繍、あと少し」タチアナ。
「続きを読んで」マリヤがページをめくる。
オリガは詩を口ずさみ、アナスタシアは僕の前に小さな手を差し出す。僕は前足を重ねて「ごきげんよう」と挨拶し、くるりと一回転して伏せた。笑いがふくらみ、彼が咳き込む。
ジリアール先生がそっと水を差し出してくれた。インクと紙の匂い。
「ジョイは語学も所作も優秀ですね、殿下」
「ぼくの先生ですから」彼は息を整え、いたずらっぽく答える。僕は得意げに鼻を鳴らす。笑いが再びやわらかく立ち上がる。春の庭の光はもう部屋に入ってこないのに、部屋の中は明るかった。
夜。灯りが小さくなってゆく。部屋に残る匂いは、人の体温の名残と、ほんの少しの消毒液。
彼はベッドにもぐり、僕はその足元で丸くなった。
「ジョイ、今日は少し転んじゃった。でも、虹を見たから、いい日だね」
「うん」と言うように、僕は尾を一度だけ叩く。
「ねえ、ジョイ。もし僕がツァーリになったら、命令より先に、毛布とパンを配るよ。怒っている人には、話を聞く小さな部屋も。……そして、犬には広い庭」
僕は目を閉じ、胸の奥が温かくなるのを感じた。広い庭。春の土。虹の水音。
やがて、彼の息は眠りの速さになった。僕はその速さに自分の息を合わせる。合う音は、あたたかい。
外では、まだ雪の川がゆっくりとほどけている。
僕は知っている。この光の季節は長くは続かないかもしれないことを。けれど、今日の虹はたしかにここにあった。
虹は、見上げる者の目のなかに残る。
そして僕は、その目の光を、明日も守る。
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