第3話 サイレン
あの音は、耳鳴りではない。
僕が中学二年の夏、あの交通事故を目撃して以来、僕の日常に張り付いて離れない、遠くで鳴り響く救急車のサイレンだ。
初めて事故を見たのは、友達と自転車で帰宅している途中だった。交差点のど真ん中で、横倒しになったバイクと、その横でぐったりと動かない人影。救急車が二台、パトカーが数台、赤い光を撒き散らしていた。野次馬の人垣の隙間から見えた、アスファルトに広がる濃い赤が、生々しく、脳裏に焼き付いた。
その日の夜、ベッドに入った時だった。静まり返った部屋の隅から、「キーン」という高周波の耳鳴りに似た音が聞こえ始めた。ただの耳鳴りにしては規則的で、かすかに「ピーポー。ピーポー」という音が混じっている。意識を集中すると、それは遥か遠い救急車のサイレンの音だとわかった。
「まだこんな時間に事故かよ」
そう思って窓を開けたが、外は静寂に包まれていて、サイレンの音はどこにもなかった。音は、外ではなく、僕の頭の中で鳴っている。
次の日の放課後。
耳の中で、あの小さなサイレンが鳴り始めた。まるで遠くの街で起きている出来事の音を、誰かが僕の鼓膜に直結させているみたいだ。不安を感じながら自転車を漕いでいると、五分もしないうちに、交差点の角でタクシーと軽自動車が衝突している現場に行き当たった。
幸いにも重傷者はいなかったようだが、僕が現場に着く寸前まで、僕の頭の中で鳴っていた音は、そこで突然、現実のサイレンの音に変わった。
それから、この奇妙な現象はルーティンとなった。サイレンが鳴り始めると、僕の心臓は締め付けられ、目的地を変えて事故現場を探す。そして必ず、その音が現場で鳴っている救急車の音と重なる瞬間に立ち会うのだ。
僕はそれを「予兆」と呼ぶようになった。
何件か事故を目撃し、そのたびに予兆のサイレンを聞き続けた。しかし、そのサイレンの音が、ある時期から微妙に変わってきたことに気づいた。音の「距離感」だ。
最初の頃は、数キロメートル先から聞こえてくるような、漠然とした遠さだった。ところが、徐々に、音の振動がクリアになり、まるで近所の裏通りで鳴っているような、生々しい距離感になってきた。
そして、六件目の事故。
いつものように予兆が鳴り響き、僕は現場に駆けつけた。トラックと自転車の接触事故。アスファルトの上に横たわる被害者は、体勢は崩れていたが、派手な流血はなかった。
救急隊員が近づいたとき、僕は凍り付いた。
被害者の顔を見た瞬間、声が出なかった。それは、母方の親戚、遠い親戚のトモコおばさんだった。普段は会う機会がほとんどないが、確かに見覚えのある顔だ。おばさんは、ぐったりとしていて、顔色は悪かったが、まだ息はしているようだった。
僕の頭の中で鳴り響いていたサイレンは、現場に着いた瞬間に、本物の救急車が吐き出す、けたたましい音に切り替わった。
その夜、恐怖でなかなか寝付けなかった。なぜ僕の耳鳴りが、親戚の事故を予告したのだろう?
不安はすぐに現実のものとなった。二週間後、予兆のサイレンは、今までで一番近く、耳の奥で轟くように鳴り始めた。
現場は、僕たちの家からたった三つ目の角を曲がった場所だった。
倒れているのは、近所に住む従兄弟のヒロキ。彼は、僕より年下で、いつも僕の後ろをついて回っていた。彼は意識不明の重体で、すぐに病院に搬送されたが、そのまま目を覚ますことはなかった。
予兆のサイレンは、被害者が僕の「身内」になるたびに、その音の距離を縮めている。まるで、僕自身に近づいてきているかのように。
次は、誰だ?
僕は震えながら、家族構成図を頭の中で並べた。遠い親戚から始まり、従兄弟。次に近いのは、もちろん、僕の兄弟か、両親だ。
その一ヶ月後、最悪の予感は的中した。
サイレンは、もう耳鳴りのレベルを超えていた。頭蓋骨の中で直接、鉄が擦れ合うような甲高い音が響き、頭痛がひどい。
その日、弟は友達と遊びに出かけていた。午後四時。僕の部屋の窓ガラスが振動するほどの音量で、サイレンが鳴り響いた。
現場は、僕たちの小学校の裏手にある、普段から車通りが多いT字路。
弟は、軽トラックに巻き込まれ、意識不明の状態で運ばれた。命は助かったが、右足に重度の障害が残った。
現場で、弟のランドセルが散乱しているのを見たとき、僕は確信した。あの音は、僕が初めて目撃した事故の被害者の「意識」が、僕の耳を媒介にして、次のターゲットへの接近を知らせているのだと。
そして、ついに。
僕のサイレンは、もはや「遠い音」ではない。それは、僕の鼓膜のすぐ裏で、警告ではなく、カウントダウンのように、一定のリズムで鳴り始めた。
その夜、両親は夕食後に買い物に出かけると言った。
玄関のドアが閉まる音を聞いた直後、サイレンは、僕の頭の中で最大音量で炸裂した。
「ウー、ウー、ウー!」
僕は反射的に立ち上がり、家を飛び出した。サイレンが鳴っているのに、外は静かだ。
音の出所は、家から外ではない。音は、僕の体内で鳴っている。
僕は、無我夢中で両親が向かった方向へ走った。信号を渡り、曲がり角を駆け抜ける。
その時、一瞬、音は止まった。
静寂。
そして、次の瞬間、頭の中で鳴っていた音が、目の前の交差点で、現実の音として響き渡った。
一台の見覚えのある黒いセダンが、激しく横転している。
「お父さん! お母さん!」
僕は叫びながら現場に駆け寄った。運転席のドアが開いていて、見慣れた母のバッグが落ちている。
救急隊員が、ぐったりとした二人の人影をシートで覆い始めた。
僕の頭の中のサイレンは、現実の救急車のサイレンと完全に重なり合い、鼓膜を破らんばかりに響き渡っていた。
弟は退院し、家に戻ってきた。両親の葬儀を終え、すべてが終わった。
僕の頭の中で、あのサイレンの音は完全に消えた。事故を目撃することもなくなった。
平穏な日常が戻った。
しかし、僕は時々、考える。あのサイレンの音が、僕の身内への接近を教えてくれていたのだとしたら。そして、サイレンが最後に最大音量で鳴り響き、その後に僕の最も近い存在である両親が被害に遭った。
次に、僕に最も近い存在は、誰だろうか?
僕は、鏡に映る自分の顔を見つめる。サイレンの音はもう聞こえない。だが、僕の心臓は、いつまた、あの不気味な予兆が僕の鼓膜ではなく、僕の心臓そのものから鳴り始めるのかと、怯え続けている。
僕の耳は、次に起こる僕自身の破滅を、もう教えてはくれないのだろうか。
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