その魔蚕は転生者につき

あーる

第0話 転生

 僕はマジシャンを目指している──もっと正確に言えば、人に見せないマジシャンだ。


 人の視線を浴び、拍手や歓声をもらうためじゃない。僕が求めているのは、舞台の上での喝采ではなく、どこまでも静かな、自分だけの空間で生み出す「奇跡」だ。


 マジックを始めた理由? 簡単だ。世界をちょっとだけ自分の思いどおりに動かせる気がしたから。人は日常の中で無力を感じる。

 

 それともう一つあるけど今は教えない。

 

 でも、糸一本で、たった一瞬でもそれを裏切ることができる。

 僕はそれに夢中になった。


 いま特に夢中なのは、糸を使ったトリック。極限まで細くした糸は、1メートルを超えると人には視認できなくなる。髪の毛よりも細く、光をほとんど反射しないその糸を使えば、消失、発生、浮遊──どれもが「本物の魔法」に見える。


 糸の動きは微妙な指先の力で決まる。0.1ミリの差でも、効果は一変する。その緊張感こそがたまらない。練習を重ねるたび、僕は自分の手の感覚が少しずつ磨かれていくのを感じる。


 もちろん誰かに見せるつもりはない。クラスの出し物でやらされるなんてまっぴらだ。拍手や驚きの声なんて、僕にとっては雑音だ。

 

 僕は、誰にも知られない秘密の魔法を愛している。独りきりで、静かな空間の中で、精密に動く糸を操る──それだけで世界は僕のものになる。


 だから今日も、独り部室で糸を操る練習に没頭していた。昼下がりの光が西の窓から差し込み、机の上に細い影を落とす。


 その中で、糸は静かに、そして確実に僕の指先に絡みつき、思いどおりの動きをする──はずだった。


「よし、今日の練習はここまで……っと」


 糸をそっとたたみ、箱に収める。極細の糸は扱いに気を使う。ちょっとした振動でも絡まるし、落とせば跡形もなく消える。


 この繊細さこそが、僕の好きなところだ。論理的で、予測可能で、コントロール可能で……そんなものに、なぜか安心する。周囲の世界が曖昧で、誰が何を考えているのか分からない時ほど、この糸の確かさが僕を救ってくれる。


 部室の静けさを破るのは、自分の呼吸と指先の微かな音だけだ。糸を巻き取る音、箱に納める音、わずかに紙が擦れる音。すべてが、僕の小さな宇宙の証だった。


「あ、今日スパマジだ」


 スパマジ──僕の毎月の楽しみ、マジック専門のテレビ番組だ。


 家に帰る理由はそれだけでも十分だった。番組の中では、世界中のプロマジシャンが、種明かしされないまま華麗な技を披露する。僕はその一つひとつを録画し、何度も巻き戻しては確認する。あの時間だけが、僕にとっては勉強であり、祈りのようなものだ。


「ふう……さっさと帰ってスパマジ見よう」


 足早に部室を出る。戸締まりは完璧だ。鍵を回す音、窓の施錠の感触、鞄を背負う重み。それらすべてが儀式のように整っている。


 いつでも無駄なことに巻き込まれないよう、慎重に生活している。世界は予測不能で、僕の思いどおりにならないことだらけだ。だから、せめて自分の行動だけは完全に制御したい。


 玄関を開けると、そこには女の子――幼馴染の澪――が立っていた。


 夕陽を背にしたその姿は、どこか非現実的で、まるで映画のワンシーンのようだった。


「あ、やっと来た。やっぱり今日もこの時間だったんだ」


 小さい頃からの付き合いだが、中学に入るあたりから急に大人びて、可愛らしさが増していた。名前を呼ぶのが少し照れくさい。


 彼女の制服はきちんと整えられていて、髪は少し風に揺れている。その横顔に、子どもの頃にはなかった影と光が差し込んでいる気がした。


「部活は?」


「終わったよ。私は毎月この日は片付け当番から外してもらってるし」


 毎回同じ会話だ。僕は覚えているのに、空気を壊さないために毎回聞く。


 この会話は小さな儀式のようなものだ。互いに安心するために交わす台詞だと、僕は密かに思っている。


「ふぅん。僕は帰るけど、どうする?」


 彼女は笑みを零す。その笑顔はどこか挑発的で、どこか寂しげでもある。僕はそれを読み解けない。


「うん、私も一緒に帰る」


 家は隣同士。二人で歩く帰路は、慣れた道だ。


 アスファルトに落ちた影が二つ、夕陽に伸びてゆっくり重なり、また離れる。彼女は少し歩くのが遅いので歩調を合わせる。会話がなくても心地いいが、彼女は違う。沈黙に意味を与えようと、いつも何かを話してくれる。


 だから僕は少しだけ話題を探す。


「ね、今度私にマジック見せてよ」


 唐突に、彼女はそう言った。

 もちろんだ。僕のマジックを始めた理由は、他でもない君のためだ。

 決して声には出さないことを考える、その時、目の端に光が走った。


 瞬間、反射で彼女を押し、光から遠ざける。


 ドンッ


 何か硬いものにぶつかる感触と共に、体に激痛が走った。

 耳鳴り。目の前にチカチカと光が散る。血の味。寒気。息が浅くなる。


 くそ……僕はどうなっているんだ?

 何が起きたのか正確にはわからない。だが、一つだけ浮かぶ疑問があった。


 ――澪は無事なのか?


 声が出る。


「澪!」


 こんな状況になってようやく名前を呼ぶ。


 「澪……」


 久しぶりに呼んだ名前。だが何も返ってこない。


 視界が白光に染まり、幻影が揺れる。空気の匂いが急に遠くなり、世界の輪郭が崩れていく。


 ああ、本当に……死ぬのかもしれない。

 澪は、無事だろうか。彼女の泣き顔は見たくない。せめて笑っていてほしい。


 意識が薄れていく中で、最後に願った。

 彼女の前で、名前を呼べたら……


 そして、世界が崩れ、眼の前が光に包まれた。

 天に伸びる光の柱も見える。


 暖かく、柔らかく、どこか安心する感覚。

 まるで誰かの腕に抱かれているような、そんな不思議な安堵感だった。


 視界がなくなる直前、僕は思った。


 ――死ぬ、というより、変わるのかもしれない。


 耳の奥で、微かに声が響いた。


『……変わりますよ。マスター』


 それは、誰の声なのか。

 いや、声ではない。感覚――意識の一部のようなものかもしれない。


 痛みが、温かさに変わる。


 そして意識が糸みたいに、ぷつりと切れた

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