第2話 拾いの女神

悟は踏ん張って耐えていた。

満員電車の中、手摺りが届かない位置で発進と停車を繰り返す車両の重力に耐えながら姿勢を保ち立っていた。

前に立つ老人は、自分で立つことを諦めているのか重力に任せて悟に体重を乗せて倒れてくる。

そして、悟の隙をつくように電車が発進し始めた。老人の体重が悟にのしかかり、後ろの座席に仰向けに倒れてしまった。

背中には柔らかくて気持ちの良い感触が伝わる。

目の前には自分を見下ろす、若い女性たち。

席に座っていた女性二人組の膝の上に倒れてしまったのだ。


慌てて、「すみません。わざとではないんです。」


女性たちはクスリと笑いながら、

「大丈夫ですか?」と優しい言葉を投げかけてくれた。


恥ずかしさのあまり、会釈するのが精一杯だった。


電車から降りて、気分転換に自動販売機の缶コーヒーを飲もうとした時に財布を紛失している事に気づいた。

幸いにも切符はパンツのポケットに入れていたので無事に改札を抜けることはできたものの、最近に購入して気に入っていた財布だっただけに、気持ちがヘコんだ。



「あれ?この財布は?」

腰から伝わる異物の感触に気付き、梨奈は隣に座る美和に聞いた。


「あっ、さっき転んだ人の物じゃないのかな?」


「こういう場合は、駅員さんに忘れ物として届けるんだよね?」


「そうだね。でも財布なだけに、お金だけ抜き取って善人ぶる人もいるし、ややこしいかも。気になるんだったら、中身を見てみたら。身分証明書とか入っているかもしれないし…」


梨奈は2つ折りの財布を開き、カード入れを調べてみた。

身分証明書は無かったが、店の名刺を見つけた。


Antiques   Heizou

Ambassador 平倉  平蔵

住所 神戸市中央区北野……


「あの人の名前、平蔵っていうんだ!凄い違和感があるんだけど。」

横目で名刺を見た美和が声を上げた。


「ここの住所って?」


「私たちの学校の近くだね。なんなら、帰りに寄って届けてあげたら?今日は彼氏と会う約束をしているから、私は付いて行ってあげれないけどね。」



「カラン」

来客を知らせる扉の鐘が鳴った。

悟は緊張の面持ちで店の入り口を見た。


「あっ、貴女は!」

倒れた時に嫌な表情もせずに、自分の身体を気づかってくれた女性。


「あのぅ…ヘイクラ ヘイゾウさんですか?」


「え?」


梨奈は悟の顔をじっと見つめた。

「あの時、財布を落としませんでしたか?…不躾だと思ったんですけど、財布の中身を確認させてもらったら、このお店の名刺が入っていたので。」


「えーと。その名刺は爺ちゃん…この店のオーナーの物でして…僕の祖父の名刺なんです。」


「お爺さん?…そっ、そうですよねー」

梨奈はスッキリとした表情で笑顔を 返した。


「これ、貴方の財布ですか?」


「はい。わざわざ届けに来てくれたんですか?」

お気に入りの財布が返ってきたことよりも、彼女に再会できた事に悟は幸せを感じた。


「私、この近くの短大に通っているんです。帰りのついでと云うか、アンティークショップにも興味もあったので。」


「そうなんですか。ありがとうございます。」


「こういう店に入るの初めてだし。


「僕も、こんな店で働くのは初めてなんですよ。」


「………」


改めて、梨奈は悟を見つめた。


「あっ、急に用事を思い出したので、帰ります。」


梨奈は悟の財布を入り口の側にある棚の上に置き、勢いよく扉を開けて店を出た。


店の中には、梨奈が残したシャンプーの香りが漂っていた。











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