第2話

 朝六時、眩しい日差しの中、僕は未幸と二人で電車に揺られていた。

「早くない?」

「電車だもん」

「違うよ。時間の話」

「そりゃ、善は急げって言うでしょー」

「使い方合ってるのか?」

「合ってる合ってる」

 相変わらず向日葵のような笑顔で僕の方に顔を向けている。言っていることはよく分からないが――。

「ていうか、どこに向かってるの?」

「内緒。着いてからのお楽しみだよ」

 朝早くから連れ出され行き先も秘密というのは、ワクワクよりも恐怖心の方が勝つ。まさか闇金に売られるのではないか、とよく分からない思考が僕の頭によぎる。いやだから、そんな経験はないのだが。そもそもお金を借りるようなこともしていない。馬鹿なことを考えていると、未幸がとても楽しそうに口を開いた。

「久しぶりの遠出だー!」

「幸せを探す旅、だっけ?」

 少し戸惑いが混じった声で答える。未幸はこちらを気にもせず楽しそうにしていた。

「うん!見つけるぞ!」

「おー」と言い未幸と一緒に、右拳を天高く上げる。

 白色の上に黄色の花柄が描かれたワンピースを身に着け、電車の中ではしゃいでいる彼女を手で制し椅子に座らせる。

「流石に電車で立ち上がるのはやめようか。みんな見てる」

「ごめん。つい……」

 控えめに笑い、下に顔を向けた彼女の頬はほんのり紅く染まっていた。そんな姿に僕も思わず頬が緩む。

 

 目立つのは嫌だったのか、「静かにするね」と言って未幸は口を閉ざした。僕も特に話すことはなかったため、二人の間にしばらくの沈黙が落ちる。

 シトラスの香りが僕の鼻を掠めた。ゆっくりと呼吸していると、隣から指で優しく突かれる。

「どうしたの?」

「ごめん。乗り物酔いした」

 目を閉じて胸に手を押さえて、空気混じりの声でそう言葉にした。

「一旦降りようか」

「うぅ……ごめん」

 念のためビニール袋を用意し、僕の肩に寄りかかるように告げる。未幸からさっきまでの笑顔が消えて、ひたすら申し訳なさそうに俯いていた。

 僕たちはすぐ次の駅で降り、ホームのベンチに腰をかけた。僕の肩には未幸の頭が乗っている。胸の高鳴りが収まらない。近くで響くアナウンスの音が小さく感じられた。意識を外すように視線を遠くに向けると、緑いっぱいの風景が目に映る。緑の匂いとシトラスの匂いが混じり合い、気持ちが和らいでいくような気がした。


 しばらく自然を眺めていると、隣から聞こえる呼吸の音が大きくなった。未幸の方に視線を向けると、彼女は自分の胸を優しく叩き大きく呼吸をしていた。心配になり、未幸の顔を覗き込みながら尋ねる。

「大丈夫?」

「……ふぅ、やっと落ち着いた」

 未幸はこちらに顔を向け、数分ぶりの笑顔を咲かせた。

「よし!そろそろ行ける!」

「ほんとに?またしんどくなったら言うんだよ」

「はーい」


 今度は途中下車することもなく、無事に目的地にたどり着いた。どうやら最初はカフェに行くようだ。

「カフェ久しぶりに来たかも」

「ほんと?でも甘いものは好きでしょ?」

「そうだね」

 一瞬尋ねそうになったが、二年分の記憶が自分から抜け落ちていることに気づき、疑問をすぐに飲み込んだ。

 店に入ると、茶色い木製の床とガラス張りの壁に囲まれて、白いソファと机が規則正しく配置されている。それらが妙に落ち着いた雰囲気を醸し出していた。そのためか、利用客のほとんどが僕たちよりも年上のように感じられる。

 

 席に案内され、メニューを広げる。僕は人気ナンバーワンのチョコパフェを、未幸はハチミツのかかったパンケーキをそれぞれ注文した。

「未幸はここ来たことあるの?」

「あー……まぁ、ね」

 ここまで言いづらそうに言葉を紡ぐのは未幸は初めて見た。何かまずいことを聞いたのではと思い、話を即座に逸らす。

「今日晴れててよかったね。雨だったら幸せが流されて見つけられなかったかも」

 笑いながら言った僕に対して、未幸も同じように言葉を返す。

「そうだね。それは困っちゃう」

 未幸は、微笑を浮かべて頰を掻いている。


 気まずさを察知してか、甘さとほんのり苦い香りを漂わせた料理が僕らの前に置かれた。

「美味しそー!」

 未幸は目を輝かせて料理を覗き込んでいる。そしてスマホを取り出し様々な方向から写真を撮影していた。しばらく撮っているとレンズを僕の方に向ける。

「……え」

 カシャ、と音が鳴り思わず眉を顰めてしまう。慌てて表情を元に戻して口角を上げた。未幸は僕が写った写真をじっと見つめている。どこか胸の奥がざわついた。

「ちょっと、急に撮らないでよ」

 笑い混じりに告げると、スマホから目を離した未幸が少し下を向いた。

 どうしたのだろうと疑問に思っていると、未幸の大きな瞳から雫がこぼれ落ちた。僕はじっと未幸の顔を見つめていた。

 

 ふと我に返り、未幸の表情に見惚れていたことに気づいて頰を紅く染める。

「どうしたの?大丈夫?」

 自分の声が震えているのも構わずに言葉を紡いだ。パフェのアイスが溶けてきているが、未幸の涙を前にそのようなことは言っていられない。未幸の前にハンカチをそっと差し出す。

「これ使いな」

 未幸は下を向いたまま一度だけ頷きハンカチを受け取った。

 

 しばらくして落ち着いた未幸は、震えた唇の端を上げ、笑顔を貼り付けて言った。

「ごめんね。溶けちゃってるし早く食べよ」

「平気なの?」

「目にゴミが入っただけだから大丈夫」

 誤魔化して笑っている顔が痛々しく見えたが、それ以上踏み込むなと言われているようで言葉を飲み込んだ。

「未幸がそう言うなら食べよっか」

 それからは特に会話することもなくスイーツを平らげた。途中、未幸がフォークとナイフを置き、手を擦り合わせる動きをしていたが、それに関してわざわざ突っ込むようなことはなかった。


 割り勘で会計をして店の外に出る。入院費の支払いで大変だろう、という未幸の気遣いに甘えさせてもらうことにした。

「次はどこ行くの?内緒?」

「んー大和くんはどこ行きたい?」

「え?」

 聞き返した僕に、未幸は近くになにがあるのかを一通り説明してくれた。

「そのラインナップなら水族館かな」

 僕がそう告げると、未幸は一瞬目を丸くしたがすぐに穏やかな表情になった。

「なら水族館行こっか」


 僕たちは再び電車で水族館の近くの駅まで行く。

「二駅動いただけですごい涼しくなるねー」

「二駅って言っても結構な距離あったからかな」

 手を横に広げて大きく息を吸い、涼しい風と塩の香りを体いっぱいに取り込む。

 水族館までの道のりを歩いていくことにした。思ったよりも距離が遠くて汗だくになる。それでも水族館に入ると、体を冷やすほどの冷たい空気が館内を満たしていた。


 説明書きを見て魚に指さし、笑い合いながら館内を歩き回る。やがて大水槽の前まで出てきた。イワシやエイ、ジンベエザメなど目を惹くような魚が、同じ水の中を行き交っている。

「きれー……」

 言葉を失うほどこの光景に心を奪われていた。そっと未幸の方に視線を向けると、水槽の光に横顔が照らされていた。未幸の横顔に惹かれ、目の前の光景を忘れて見入ってしまう。

 

 やがてこちらを見た未幸と目が合ってしまった。慌てて顔を反対側に逸らすと、ふわりと右手から温もりが伝わった。そちらに目を向けると僕と未幸の手が繋がれていて、汗が出るほど胸の鼓動が速くなる。

「ごめん。今だけはこうさせて」

 未幸の声は先ほど食べたパフェよりも甘く感じた。

 二人の紅く染まった頰が水槽の照明に照らされ、静かに存在感を放っていた。


 パンフレットを見ながら次の行き先を考えていると、三十分後にショーが開始されるとの記載があった。

 ちょうど昼食の時間になるのでちょっとした食べ物を買い真ん中くらいの席に座る。

 話しながらご飯を食べていると始まりのアナウンスが鳴った。十五分ほどのショーがあっという間に終わる。

 

「イルカってあんなに飛ぶんだねー」

「小さい体で軽々と飛んでたね」

「私もあんなふうに飛びたい」

「いつか飛べるかもよ」

「え!ほんとに!?」

 イルカのように飛びながら目を輝かせている。なぜか未幸を見ていると胸が痛くなった。その気持ちを飛ばすように僕は跳ねた口調で言葉を紡ぐ。

「そろそろお土産見て出よっか」

「そうだね!次行く場所もあるし」

「まだあるの?」

 てっきり帰るのだと思っていた。しかし、胸の痛みの正体を知るのにも良い機会になるだろう。それに未幸とまだ一緒にいたいという気持ちが強かった。

「そうとなったら速くお土産見に行こ!」

 イルカショーの余韻はなかったかのように早歩きで土産屋まで向かっていった。それを追いかけるように彼女の後ろを駆け足で着いていく。


 未幸の提案でお互いのイニシャルが入ったキーホルダーを購入しお店を後にしたお揃いのものを手に入れただけで喜んでしまう自分の単純さにため息をつく。それでも、未幸の笑顔に照らされて少し心が軽くなった。


 水族館を後にして次の目的地に向かう。黄色を身に纏う未幸と夕日の色が溶け合って、彼女の存在が遠くに感じられた――。

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