第2話

 親父から地球儀を貰った小学四年生の俺は、寝食も忘れて回しまくった。これまでの自転回数は約一兆六千億回だとクラスメイトの志田くんが教えてくれたため、実際に回してみて再現を図ったのだ。

 しかし数日後になると飽きており、地球儀と回転数を記したわら半紙は中途半端なままで学習机の側に放置された。いつの間にか無くなっていたことにも気が付かず、礼が持ってきたときに数年ぶりの再会となった。そして再会後すぐに窓から落としてなくした。


「なので、俺は持ってない」


 正直に答えればこの薄暗く埃っぽい打放しの部屋から脱出できるかもという推測は、甘かった。

 俺を誘拐した犯人であろうメガネをかけた細長い男は元々不景気な顔を更に歪め、解読不可能な戯言を叫びながら地団駄を踏み始める。大の男が本気で幼稚な行動をするというのは、なるほど恐怖を感じざるを得ないというものだ。地面に置いたケージを拾い上げ、せめてハムスターの緊張を解こうとケージごと抱きしめる。

 ある程度身の自由が確保されているにも拘らず逃亡を企てないのは、このハムスターごと人質に取られているためだった。俺が寝間着だけの丸腰である事実も自信を削ぐ。無論通信機器の類も所持していない。


「なんでハムスターごと誘拐すんだよ。用事は俺にあるんだろ」

「お前が手放さないんだから、連れてこざるを得ないだろ。今みたいに、入れ物ごとハムスター抱えて寝てたんだよ」


 男は乱れた髪とメガネを整えながらボヤいた。改めてじっと見てみると、ヒゲは剃ってあるし案外真面目そうな奴だ。しかし、目つきの悪さと青いクマのせいで正義では無さそうな陰気さが付きまとう。

 確かに昨晩はケージを眺めながら寝落ちしたような気がする。幼い頃同じベッドで寝ていた妹は俺の寝相に耐えかねて一人部屋を所望したというくらいなので、男の言い分が嘘だと断定できない。不甲斐ない。


「ごめんなギガ」


 真っ黒なハムスター。名前はギガ。父からはドブから拾ってきたのかお前だの散々な言われ様だったが、尻尾はちゃんと丸い。そして可愛い。ケージ越しに目が合うときゅきゅきゅと静かに鳴く。少々呑気なところも愛らしい。これで、まだ一週間なんだもんな。

 本やインターネットで調べた情報によると懐くには時間がかかるそうで、初日は程々の距離感を心がけていた。しかし、二日目の朝になると巣穴から出てケージの外に出せととせがんだ。異例のスピードに驚愕しつつも指を差し出すと逃げもせず、むしろ手に載せろとせがんだ。本当にハムスターなのかという疑惑は度々浮上したが、現に姿がそうなのだからそれ以上でもそれ以下でもなく、その常識離れの落ち着きのおかげで随分距離が縮まったものだ。

 その結果、共々誘拐されちゃったわけだけど。


「小動物って人間よりストレスに弱いんだよ。死んじゃったらお前のせいだからな」

「…………それでも、ただで逃がしてやることはできない」

「今金欠なんだよー」

「カツアゲじゃねえよ。とにかく、地球儀の所在がわかるまで西松にはここにいてもらう」


 それでは、地球儀がこのまま見つからなければ俺とハムスターは一生このままなのか。


「……………………ふむ」


 餓死という問題がある以外は、割と好条件だ。学校に行かないで、社会的なあらゆる行動から開放されて、ハムスターと戯れるなんて。将来の夢を聞かれて、無邪気に答えて良いのならそう答える。


「俺らの食べ物とトイレは用意してくれるんだろ?」

「……図々しくないか」

「垂れ流して餓死しろって言うのかよ。これでも最低限の要求しかしてないつもりなんだけどな」

「餓死するまで生きる前提かよ」


 男はしゃくりあげるように笑いながら額の汗を拭う。怪奇だ。そのままジーンズのバックポケットをまさぐり、手のひら大で棒状の赤い何かを取り出した。

 中学時代に友人宅で見たことのあるそれの正体が思い当たったときには、鋭いものが鼻先に突きつけられていた。


「ひ」

「今ここで首を突き刺してやることだってできるんだ。血いっぱい出るよな。嫌だよな。大人しくしてるよな」


 十徳ナイフを握る右手は強気な言葉にそぐわず震えて、見上げると目尻には汗と見紛うような涙が溜まっていた。

 ただの脅しだと白状しているようなもので、内心の余裕は維持する。

 そもそも、俺を殺すメリットというものが存在しないはずなのだ。単に口封じで手をかけられるような奴が、中途半端な短剣片手に涙が出るほど震えたりしない。

 しかし、人間に手をかける度胸のない人間ほど小動物への加害衝動を秘めているものだ。ギガの安全は依然として保証されていない。


「……わかりました」


 表面上は従うことにした。奴もそのうち、何の利も生まない俺達を捕まえておく不毛さに気がつくだろう。それが餓死する前だったら好ましい、なんて現実逃避にも似たことを巡らす。


「脱走する素振り見せたら……あの、この部屋爆弾仕掛けてあって、それが爆発するから」

「……はい。脱走しません」


 ナイフを収納して懐に入れた男は不愉快そうに後頭部を掻きながら部屋を出ていった。もしものときの脱出経路になれば、と淡い期待を抱いていた扉には外鍵が掛けられてしまい、いよいよ本格的に閉じ込められてしまう。

 開閉の合間、扉の向こうからは光の一筋も差し込まなかったため、この建物全域が同じ薄暗闇で飽和している可能性がある。ならば、この部屋から出られてもさほど変わらないのかもしれない。


「なあギガ……」


 きゅきゅ。


「爆弾、ほんとにあると思う?」


 きゅきゅきゅ。


「だよなぁ」


 きゅ。


「あ……早乙女さんに今日の分の写真送れてない」


 きゅきゅきゅ。


「ワンチャン心配して助けに来たりしない?」


 きゅ。


「……そういえば、なんであいつ俺の名前知ってるんだろう」


 きゅ。


「えぇ……何か知ってんのギガちゃん」


 きゅきゅきゅきゅきゅ。


「てかお前すごいな!」


 ハムスターは本来会話ができるものではない。餌を提示して意思疎通をはかるならばいざ知らず、人間の一方的な話に相槌を打つなどあり得ないことなのだ。それに、言わんとすることが仕草や声色からも伝わる。都合よく推し量っているわけではない根拠としては、ハムスター嫌いの親父さえもがたまに会話をしていることがある。

 再度断っておくと、ギガとはまだ出会って一週間しか経っていない。

 実は人間が化かされているのではないかと考えそうになるが、しかしそのほうがよほど非現実的な話ではある。


「ギガって人間だろ」


 冗談で言ってみると、様子は一変して一心不乱にケージを噛み始めた。外に出たいというこのサインは調べた通りのハムスター仕草だが、会話の文脈からどうしても疑惑が深まる。


「……マジなの〜?」


 ケージを一度置き、四畳半ほどの部屋を這いつくばってギガが脱走できるだけの隙間がないか隈なく探す。四方八方に小さな隙間はあるものの、幸いギガが通るには小さすぎた。

 誘拐犯が俺を軟禁し、俺がハムスターを軟禁している軟禁マトリョーシカ状態に気がついたが、俺はあいつのように脅して捕まえているのではないので明確に違う。ペットを飼う罪悪感を感じている暇など無いのだ。

 最後に扉が開かないのを確認し、扉に背を向けて壁を作ってから施錠を解いた。ギガは器用に自分で扉を開けて出てくる。


「ギガ、俺のこと怖い?」


 聞いておきながら、その線がないことには気がついている。なぜならば出てきて早々に俺の腕をよじ登ってきているから。肩まで登るとまた鳴くので、そちらを向いてみる。

 すると、目が合ったギガが顔に正面突進してきた。くすぐったさに目を細めるのもつかの間。

 ガブリ。


「痛っ」


 どさくさに紛れて唇を噛まれた。痛みよりも唐突の謀反に肝を抜かれる。呆然としているうちに流れていく血を一舐めしたギガは、肩からずり落ちてあぐらをかいた腿に着地した。

 途端、腿へかかる圧力が増していく。

 見下ろすと、ギガが膨張していた。


「なんだお前!」


 ぎゅぎゅぎゅ!


「声でっけえな!」


 声帯が大きくなったのか、鳴き声が低く大きい。

 数秒前にはモルモット程だったギガは既に大型犬程度にはなっており、それでもなお膨らみ続ける。

 気圧されて背中から倒れたとき、その大ボリュームのモサモサを改めて認識すると呑気にも和んでしまった。姿はハムスターなのだから当然ではある。

 むしろ、大きさゆえのロマンというものもあるのだ。

 飼い始めて気がついたがハムスターはじっと見ていると案外ただのネズミである。もちろんただのネズミも非常に愛らしいのだが、それが巨大化すれば流石に怪獣っぽさが勝ってくる。怪獣は幼い頃から好きだ。

 少しだけ魔が差した。

 貧弱な腹筋が例外の力を発揮し、両手を広げ膝上の巨大生物にダイブする。大きくなっても毛並みは柔らかく、大型犬で例えられそうな触感だ。また、鼻を寄せると少々ツンとした匂いがする。早々にトイレを覚させたうえ欠かさずケージの掃除をしているため平常時はあまり目立たないが、巨大化すれば粗も目立つようだ。


「あ」


 我を忘れて堪能してしまったが、異常事態である。何よりギガが一番戸惑っているはずなので、安心させようと強く抱擁する。


「デカくなってもギガはギガ、うちのハムスターだ。家の中でどうにか飼えないか親父にかけあってみるからさ。うん、もうひと回りくらいならデカくなってくれたほうが、むしろ親父も喜ぶよ」


 己の欲望を親父に転嫁する。

 と、抱擁の効果か、俺の欲を見透かしてか、巨大化はその時点で治まってしまった。現実的に考えるならばせいぜい太った人間ほどの、今の体積で成長が止んだほうが良い。心のどこかには落胆している己もいたが、理性で納得させた。

 と、


「ぎゅ」


 ギガのここまで明瞭な声を聞くのは初めてかもしれない。鳴き声の延長にない、言葉を紡ぐような発声。

 先程の戯言を思い返す。


 ギガって人間だろ。


 突然、抱きしめた毛の塊が萎みだす。ふと、庭の金木犀が夜のうちに降った雨ですべて流されてしまったのを連想した。

 小さくなっているということは元のハムスターに戻るのかという期待も虚しく、それは細長い芯だけを浮かび上がらせた。

 そうして覆う毛が完全に消失して、ハムスターではなくなった。


「なんだ」


 状況が飲み込めず、静止する。ハムスターが消えた。死んだ? 早計だ。もし仮にそうだとして、俺が今抱きしめているものって何だ。骨ばっているが柔らかくて、温かで、そして先ほどとは打って変わって良い匂いがする。

 例えたばかりで何だが、金木犀のようだ。ならば金木犀か?

 いや、金木犀は温かくないし、呼吸もしない。呼吸をしている。ということは、生命体か。


「ごめんね、私、ほんとはハムスターじゃないの」


 吐息とともに、耳元へ運ばれる。早乙女さんよりも少し低く、三島よりも少し高い、そして滑舌の良い明瞭な声。


「ん?」


 早乙女さんと三島。なぜ今その名前が出るのかといえば例示したいがため。

 そうした身近な比較対象からつなぎ合わせて、ようやく人間の女を抱きしめていることに気がついた。

 脱力して腕を解けかけると、すかさず女の腕が俺の背中に回される。


「ちょっと待って」

「え? え? え?」

「ギガは私なんだよ」


 ギガは私。

 私ってつまり私、俺のこと。じゃなく。

 君。あなた。お前。

 その人間。


「ギ? ん? あれ? ぎじっ、擬人化? 擬人化アニメ?」

「まあ、そう。摩訶不思議なことに、ハムスターのギガが人間の私に変身しちゃったの。だけどその前に人間の私がハムスターのギガになる過程があったから、つまりどっちかと言うと擬ギガ化かな? 今それが解けたってだけ」

「ギギガガ?」


 ギガが人間になった。

 だけどギガになる前にギガは人間で、その前はギガではなかった。

 つまり、ギガであるよりこの人であった時間の方が長いということ。

 すなわち、俺が可愛がったギガは、ハムスターの皮を被って成熟した人間の精神を宿しただけの空虚だったということ。

 提示されたものを列挙したところで、まだ現実味を帯びない。なぜならば現実的でないから。


「ごめんね、騙したかったわけじゃないの」


 女は畳み掛けるように早口で言って、力が抜けた俺を殊更強く抱き寄せる。

 本当にごめんと思っているのかと疑ってしまうほどに、反省が滲んでいない。いや、俺も反省を求めているわけではないのだが。それほどまでに、まだ理解が及んでいない。

 若い(と声からは判断できる)女との身体的接触に、ここまで心が踊らないことも珍しい。肋骨の下の辺りから背中にかけてがっぽり穴が空いたような気がしていて、虚無感以外に何も感じない。

 俺は女よりギガがよかった。もっと遊んでやれば良かった、なんて、もう受け入れ体制に入っていることに落胆を覚える。

 心のどこかには、ギガの異様さの答え合わせをして納得している自分がいるのだ。

 それでもっても、ギガが異様で無二の可愛いハムスターであることに何ら変わりはないわけで。


「ギガ」

「………………」

「ギガ」

「私はギガだけど、ギガじゃないよ」

「そんなこと」


 俺が一番わかっている。しかし、ギガに一番近い存在がこの女なのだとすれば、縋ってみたくもなるだろう。


「ギガは、ギギッガには、なることは? には? ギガにもっかい変身できることに?」

「西松さん落ち着いてね。私がまたギガになれるか、だね。一応、可能ではあるよ」


 縋ってみるものだ。どさくさに紛れて腕から逃れようとすると、背骨を折る勢いでぐっと引き寄せられる。


「ただ、私がやりたくないから限りなく不可能に近いかな」

「なぁんで」


 項垂うなだれると、肩の辺りまで伸びた髪に鼻先が触れる。くすぐったく、くしゃみをもよおす。出なかった。それはそれで気持ち悪い。


「あと、さっきからなんで離してくれないの」

「正体を知られるのはマズいから。というか、恥ずかしいじゃん。西松さんも、この一週間甲高い声で可愛がっていた相手と改めて目を合わせるのはキツくない?」


 ギガにしてきたことを思い返す。

 それを単純に人間相手だと置き換えると、訴えられてしかも負けてしまうレベルのことをしている。罪状はセクハラ的なやつだろうか。ペットとの触れ合いをセクハラだなんだと断じてしまうのはあまりにナンセンスだが、しかし。

 そのペットだった存在が人間として目の前にいれば話は変わってくるわけで。


「お互いに正体は秘密で……」

「まあ、お互いではないけどね」

「釈然としねえ」


 自分だけ一方的に知られているというのは、決まりが悪い。


「まあ、そこは後から議論するとして。一旦はさ、逃げようよ」


 なるほど、躊躇いのない今、逃げるハードルは格段に下がっているというわけだ。そういうことを、元躊躇いが喋っている。


「外鍵かかってるし、敵が戻ってきたときが狙い目だね。凶器出される前に飛びかかってのしちゃえばいい」


 俺の背中に設計図でも描くように指でなぞっているが、無論何も見えてこない。しかし脳筋な作戦に意見しようにもアイデアがない。

 復帰直後にも拘らずすっかり人間仕草をする元ギガに心が急速に冷めていくのを知覚しながら、感じが悪くなりすぎぬよう相槌は打つ。


「じゃあね、西松さんは敵に飛びかかってやっつける係お願い。平気平気! あの人貧弱だから不意打ちは避けられないよ」

「係って……お前は何の係なのよ」

「己の安全を確保すべく脱兎する係」

「俺もそれがいいっ」

「私女子。あなた男子」


 男子たるもの女子どもを護るべし。


「古い、時代錯誤」

「誤解だ誤解、これは階級の問題なんです。男バスと女バスがあるように、男子高校生には男子高校生を、女子高校生には女子高校生をぶつけるのが道理でしょう」


 道理とやらで体よく面倒事を押し付けられている気がしてならない。そもそも、誘拐という不道徳の上に道理が成り立つはずがない。というか、あいつは高校生なのか?

 しかしここでゴネれば不名誉だけをいただくことが確定している。

 第一、この女とあの誘拐犯をバトらせればたとえ奴がガリガリだとはいえ体格差で負けてしまう可能性は高く、それは望んだところではない。一応の味方が減るのは都合が悪いし、一応はギガ因子だし。


「じゃあ仮に女子高生が突入してきたらお前が戦えよ」


 そういう軽口で、文句を昇華させた。元ギガは見ずともわかる満面の笑みで「もちろん」発する。

 耳元で生まれたその言葉は吐息の温度を伴って鼓膜を揺さぶる。ショックにより鈍っていた触覚が急速に取り戻されていく。頬に触れる柔らかくひんやりとした髪、背中を掴む細い指、胸から腹にかけた温もり、そのそれぞれが相まって存在の解像度を上げる。

 結果、衝撃が一気におそいかかる。


「どうかした?」

「あ、いやあの、脚がしびれた、みたいな」


 あぐらの膝にギガを載せた延長で、元ギガは俺の足の上に載っかって、雪そりの要領で跨がっている。顎は肩に載っかっており、互いの髪が耳の辺りで擦れ合う。


「あのー、えっとー」


 ジャージと思しきなめらかな素材を纏った恥骨が腹のあたりに触れる感覚が、どうも。どうにも。

 不道徳、は、違って、不憫、は、もっと違って、不健全、だと直接的すぎて、不、不、不、不、不、不適当である。

 ペットであった存在にそのような情を覚えることは避けたいが、姿が違いすぎるので仕方がないと思う。

 このまま密着していてはマズい。身と心が融解してただのドロドロな物体になりそう。


「とりあえず、ざひ、ざ、膝から降りてくれない? おも、おも重いから」

「あ、ごめん。まだハムスターサイズのつもりでいたらしい」


 本当は喋らないでほしい。その度に耳が綿でくすぐられるようで、手汗が止まらなくなってしまう。


「ナッハッハッハ!」


 言わずもがなだと思っていたが、耳元の大声もやめてほしかった。糸が張り詰めるような音が耳を伝って脳を支配する。痛みはなくとも、いずれかの感覚が阻害されたとき人は不快を感じずにいられない。

 しかし、これによって危険な情が吹き飛んだ感も否めない。ほとばしる諸々は萎えて身体の節々へ帰っていった。

 元ギガは顎を俺の肩に引っ掛けたまま腰を上げ、顔を見せないように背中側へ回り込んだ。そして背中合わせに座り、首のあたりに元ギガの後頭部が触れる。


「こっち見ないでね」

「努力はするけど、扉がそっち側だからなんとも」


 背中を向けた誘拐犯の不意をついて飛びかかるというのは、不可能ではないのか。


「そうじゃん。方向転換するよ、ほら」


 のそのそ動いて向きを入れ替えた。

 一旦はこれで安定する。


「結構経ったしそろそろ戻るんじゃない? 戦う準備しといてよ」

「準備ったって丸腰だしさぁ」

「心の準備的なやつがあるでしょう。あ、武器もあるじゃん、これ」


 振り向かないギリギリで横を向くと、指がさされているのはギガのケージだった。大部分がプラスチックで、扉を含む側面の一部がアルミ製の網になっている。

 あまり武器と認識したことはないが、頭に向かって振り下ろせばかち割れるだけのポテンシャルはあるように見えた。しかし、鈍器として振り回しても壊れないだけの耐久性があるかと言えば、そうではなさそうだ。


「……これはさぁ」

「丸腰よりマシだと思うよ」

「………………」


 武器としての性能が心配なんじゃない。

 仮にも一週間住んでいた家が壊れてもどうでも良いというような態度であるのが、少し虚しい。


「だよな」


 吐露しては押し付けがましいような気がして、思うところは飲み込んだ。座ったまま横に倒れて、ケージを手繰り寄せる。

 床材のおがくずを指先でつまみ上げると、背中にいるギガ因子よりもよほどギガの気配があるように思えた。

 ぱらぱらと指の間から溢れる度に、それは生を失う。やがては完全になくなってしまう温度や質感を一つずつ噛みしめてようやく、会えないということを実感するのだった。

 遅れて痛みだした鼻の付け根を人差し指の関節で揉んでいると、扉の方から鈍い音がした。扉に頭でもぶつけたかのような異様な響き。ややあって何かが落下したような甲高い音が立て続けに鳴り響いた。ケージを掴んで中腰でにじり寄る。

 途端、スズメバチがブンブン飛びまわるような野蛮な音がした。数秒で止んだかと思えば、今度はガチャリと鍵穴が回る音がした。

 立ち上がって扉の側へ駆け寄るが、扉の開く音は視界と連動しなかった。

 他所の扉が開いただけらしい。呆気に取られていると他所の扉は暴力的に閉ざされ、この部屋まで衝撃が届く。

 いよいよ来る、と覚悟を固めていると、ノブに鍵が挿し込まれ扉のきしむ音がした。

 今度こそこちらが解錠された音だと判断して、ケージを構え直す。ノブが回ったのを目視で確認してから腕を振り上げ、扉が開いたのをきっかけに、


「助けにきたぞおにーちゃん!」


 振り下ろし「あっぶねぇお前何やってんだアホ!」た。


 直撃にはあと一歩分が足りなかったようで、所在なくおがくずがこぼれ落ちる。俺の計算ミスと言うよりは、向こうが咄嗟に一歩引いていたというほうが適切だ。まあミスであることに変わりはないのだが。

 不意をついたところで勝てねえじゃんと穴だらけの作戦に呆れつつ、しかしダメ押しの二打目を用意する気にはならなかった。それは強敵に恐れおののいたわけではない。

 憎たらしい友人の声に安堵したのだ。脱力してケージが滑り落ちるが、あまり気にする余裕はなかった。


「助かったよ、みし……」


 改めて味方の姿を眺めると、知っている姿とは程遠く、ハチミツ色の髪束が頭に揺れていた。肩ほどまであった髪は随分軽くなって、毛先が顎より少し高い。なんだか丸い。

 おまけに頭より高い位置まである大きなバックパックを背負っているため、それもミステリアス。


「誰お前」

「誰ってお前そりゃあ私だよ、みし」「女子高生?!」


 背後でばたばたと忙しない気配がした。

 嫌な予感がするが、振り向いてはいけない規則である。


「西松さんそこどいて、あとあっち向いといて!」


 言われたまま左側に避け壁と対面すると、足音が急速にこちらへ向かってきた。そして若干それた位置から、間もなくドシンと床が揺れるような衝撃がきた。


「な、何! 何だきみ!!」


 見たわけじゃないが、2Pカラーの三島が元ギガにタックルされているような気がする。どちらかが、おそらくは三島が抵抗することで衣擦れが発生して、まさしくもみ合いという状況になっている。のだと思う。

 事件的な音の応酬を聞きながら、まずは律儀に約束を守る元ギガに感心してしまう。そして、その後に心配が来た。


「ん?! 君は何、敵? 痛いから、関節、変な技決めんなって! おい西松露骨に目そらすなてかこの人何! すごい、融通が利かな痛たたたたたたた」


 元ギガが三島に関節技をかけているような気がする。


「ふ」


 日頃から強者ヅラしているやつが痛めつけられているのは、少々気分がいい。


「ギブギブギブギブ西松笑っただろお前今! あー来なきゃ良かった、助けに来るんじゃなかった! マジで折れる折れるからそれそれそれ!!」

「ギガ、でいいのかな、そいつ離してやって。敵じゃないから。味方、お友達、フレンズね」

「お前なんか敵だ、もう。お友達なんかじゃねー」


 二度と戻れないフレンズ。

 というのはおそらく過言で。

 我々はこの一週間で3度も友達になっては友達解消している。


「え、敵なの?」

「いてててててててて腕とれるとれるとれる」


 元ギガが困惑しつつ腕ひしぎしている音、な気がする。三島のオーバー気味なリアクションでコミカルになっているが、物音はかなりただ事じゃない。


「お友達です! 味方です!!」


 鼻声の叫びが痛切さを演出する。

 三島と友達になったのはこれで4度目だ。特別嬉しくもない。


「そうなんですか。失礼しました」


 元ギガは平坦を意識して言うが、こみ上げた笑いが隠しきれていない。律儀だがかなり危険な茶目っ気があるらしい。あまり刺激しないようにしようと律する。

 後ろ歩きでそろそろと二人の方へ寄る。俺だけ蚊帳の外にいるつもりでいたが、どの程度危機が排除されているのかをまだ知らないのであった。

 助けに来たという言葉に安堵したが、誘拐犯の身柄を確認していない以上まだ安心すべきではないのだ。ケージを拾い直し、後ろ向きのままで問う。


「なあ」

「はいなんでしょうかお友達」

「俺らを誘拐した奴、メガネかけた細長い男なんだけど、来る途中でそいつ見てない?」

「ああ、見た見た。その人に鍵貰ったよ」


 こいつフレンドリーすぎないか。


「貰ったって……てか、そいつどこ?」

「隣の部屋。ちゃんと鍵は閉めてる」

「……閉じ込めたってこと?」

「そういう言い方もできますわな」

「じゃあ鍵は奪った的な」

「的なね」

「もしや撃退しちゃった?」

「そういう解釈もあるね」


 細男情けねぇ。

 しかし、これで一旦は安心だ。敵が一人とは限らないが、三島が無傷でここまで来られたということは追手がわんさかといるわけでは無いだろう。


「さっさと出よう」

「だね」

「なんか普通に話してるけどさ、誰? 西松とハムスターだけって聞いたんだけど。あと、西松さっきから身体の向き間違えてるよ」

「極めて正常だ。じゃあ、俺が先に出て、あ、帰り道わかんないな。えっと、道案内は任すから、俺が二番目に出て、その後にギガが出て、一列になろう」

「そうだね」

「どういうこだわりだよ……」


 簡易的に状況を説明するならば。


「俺は彼女の正体を知ってはいけなくて、顔を見ないって決まりなんだよ」

「君らは平安時代の貴族か?」


 ぶつくさ立ち上がる三島の足音の方へ寄ると、元ギガはそそくさと下がった。方向転換して出入り口を向くと今は三島の後頭部が見える。

 そうして、元ギガの顔を見ないためだけの縦列ができあがった。前後を女子で固めて身を守る卑怯者みたくなっているが、不可抗力であるので許されたい。


「さあ出発進行」

「ポッポー」

「…………」


 後ろ二人で雑な電車ごっこをするも、先頭が微動だにしない。足踏み電鉄。

 かと思えば、急に振り返って金髪が微風に吹かれたカーテンのごとく揺れる。進まんとしたところに突然顔が現れるものだから、心臓が縮こまって咳が出そうになった。

 まだ見慣れない髪型の友人は怪訝な顔をして、俺の手元を見下ろす。


「まさか、また奇襲かけるつもりじゃないだろうな」


 出会い頭の攻撃失敗を根に持っていたらしい。そうなれば、こちらは分が悪い。


「かけねぇよ。これはただ、護身用にって」

「護身用のケージって何! てか、中身、ハムちゃんはどうしたの」

「あー…………」

「はーい」

「それは何の返事……? というか、結局君は誰なの」

「ギガです」

「キッカ? キッカさん。ああもう……なんでもいいや。そのケージ置いてくか、私に寄越すかして。出発するよ」


 差し上げた。かくして謎の牢屋を脱出した。曖昧に開いたままの扉がぶら下がった鍵の束を揺らしている。

 一歩踏み出すと左側に長い廊下が続いていた。床には缶詰と備蓄用のペットボトルが複数転がっている。誘拐犯の気遣いを見たような気がしたが、誘拐している時点でアウトなのだ。刃のはみ出た十徳ナイフが落ちているのも確認して、許せなさを高める。

 右側は行き止まりで、正面はただの壁のようである。俺がいた部屋は一番端にあったらしく、左隣へずらりと扉が並んでいる。

 部屋の中と同様に窓の一つもなく、ずっと向こうの突き当たりに扉があるのが見えた。壁や天井の隙間から自然光が入り込むだけで、照明もない。ただの倉庫にしても殺風景すぎる気がした。

 誘拐犯を閉じ込めたという隣の部屋を通り過ぎる際、中から扉を叩く音を聞いた。迎えに来るにしてもこの身に機関銃的な圧倒的な武器を装備してからがいいなぁと思う。あんなひょろっとした野郎に従えられていたことに今さら腹が立っていた。

 まあ、誰かが助けるでしょう。


「クックックッ……」


 後ろでは、部屋を出たときからずっと元ギガ改めキッカが声を殺して笑っている。名字は野口なのかもしれない。

 三島の聞き間違いが面白かったのだろうか。俺もあの早とちりには少々面食らってしまった。

 つられて口角を上げていると三島の視線がキッと俺の眉間あたり刺すので、心臓がキュッとなった。ちなみにキッカの笑いは増した。

 ギガにもこういう図々しさはあったと回顧。しかし、可愛さがないとウザいだけである。姿を見ていないので容姿が可愛いかどうかはわからないが、しかしここで言う可愛さとは小動物特有のそれであって、人間である以上ウザいもんはウザいのであった。


「…………ふーんふん」


 音に集中してみる。

 足音はあまり反響せず、各々の足元に落ちて曖昧に消える。廊下の全体を見ても声は響かないし、部屋にいても扉周辺で音がなる以外は静かなものだった。防音設備があるのだとすれば、いよいよこの建物が謎を帯びてくる。

 まるで、何かを閉じ込めておくためだけの建物みたいだ。

 疑惑を深める間もなく、出口までやってきた。


「今日はいい天気だから、覚悟するように」


 突き当たりの扉を開く直前の言葉の意味を、溢れる光を浴びて察する。


「まっ、ぶし」

「ひょー、ぴかぴかしてるよー」


 世界が白い。手で覆っていたカメラのレンズが急に光に晒されたときと同じ写り方をしている。あと空気が格別に美味い。もう二度と戻りたくねーって思った。

 ふらつきながら薄目を開けた先には青と緑が3:7くらいの割合で広がっている。山か森の風貌をしていた。日が強い割に肌寒いため、これは山でなおかつ森なのだろう。

 深緑の中で、三島が外国の俳優が愛用していそうなパンダ目のサングラスをかけているのが見て取れる。


「かっちょいいの着けてんじゃん、貸してよ」

「やだー」


 数歩先で元気そうにひらひらと回っている。俺ら、へろへろ。


「諸君らが愛してくれたあの誘拐犯がなぜ閉じ込められちゃったかわかりますか西松」

「愛してはないが。え、なぜ……なんで?」

「坊やだか」「言うな言うなお前」


 共通点と言えば金髪にグラサンをかけていることくらいだろ。

 日の下で改めて全身を眺めると、白地にマーブルチョコを散りばめたようなロングTシャツに体操着の長ズボンを履いただけの部屋着同然の姿をしていた。あと空のケージと巨大バックパック。羽目を外しちゃった家出少女である。


「そのなりでよくもカッコつける気になったな」

「あー本当いい天気だよー」


 出てきてからの三島は心なしか機嫌がいい。もしかすると光合成とかをするタイプなのかもしれない。さして驚きもなかった。

 光に慣れてきたのでようやく、行進を再開した。流石に裸足は酷だろうとバックパックから長靴を出してくれた。これでザクザク行ける。

 いったいそのバックパックは何なのか。

 いや、そもそも。


「なんで助けに来てくれたの」

「正義の心がそうさせたよね」


 ザクザク。あ、花。


「あと場所、ここはどこで、なんでわかったのかとか」

「それは私のヒーロー的直感により」


 ザクザクバキ。


「……あっそう」

「ダルがんなって。色々あったの。取り敢えず帰ったら礼さんに五体投地だな」


 妹の名前に驚いた耳がぴくりと動く。ついでに足も止まる。


「……なんであいつが」

「機嫌悪くなんないでよ」

「別に」


 ザクザク。

 咄嗟に取り繕うが、妹の名の響きに不愉快を感じたのは紛れもない事実だった。


「さっさと仲直りしちゃえば? 向こうは喧嘩とも思ってなさそうだったよ」

「そういうところが……腹立つよな」

「因みに、西松が変なのに攫われたって知らせてくれたのも、この場所に目星つけたのも、カバン持たせてくれたのも、全部礼さんです」


 そういう用意周到なところも気に入らないんです。ポキポキザクボロボロ。

 そもそも、なぜ諸々を知って三島に向かわせたのか。


「兄貴を心配するんならさあ、自分で来いって話じゃん」

「言いながら無茶だってわかってるでしょ」

「…………きゅうきゅう」


 ザクザク。


「キモ。あんな子が武器持ったとこで敵をやっつけられないし、そもそも山登りに耐える体力なんてないよ」


 言っていることは正しいのだが、わかったような口をきく三島に反発が生まれる。身体を揺すって喉まで出てきていた薄っぺらい反論を胃液に落とす。

 反発心を掘り下げれば不本意な答えにしか行き着かないはずなので、


「それもそうだな」


 目の前の友人の言葉に同意するに留まった。今どき兄妹愛なんて流行んねぇんだ。ザクザクザリザリ。

 てか、


「山って言ったよな」

「山だよここ。さっきから傾斜とかすごいでしょ」


 足場はずっと不安定だし、開墾などがされた跡も見当たらない。道無き道である。ボロボロボロ。


「倉庫の裏側に軽トラがあったから、二人はあれで来たんじゃない?」


 想像以上に土臭い話になってきた。きな臭さと土臭さが半々くらいになる。そして、意識した途端傾斜がキツく思えてくる。ペッタペッタポキザク。


「その運転手がいるなら、あの人の他にも少なくとももう一人敵がいるということになるのでは」

「わっ」


 背後から突然声がしたような気がしたが、ずっといたのだった。久しぶりに口を開いたキッカ(暫定)の言葉を噛み砕く間に、消化を終えた前方からは既に反応がきていた。


「それはどうだろう。あいつが運転したのかもしれないじゃん」

「無免許運転だよ?」

「誘拐犯に余罪があったってだけで、大した衝撃も無いような。というかさ、なんであいつが免許持ってない前提なのよ」

「…………見た目、あんま年上には見えなかったんだよねー」


 少なくとも俺の中の印象とは乖離している。奴は青ヒゲ生やして青いクマまで浮かべており、青臭さとは縁遠く老けているように思えた。バキボキザクザク。


「そう? まあ、暗くてその辺よくわかんなかったけどさ」


 俺は夜目が利く方だ。バキ。


「とにかく、警戒はしたほうがいいと思うんだー……」


 あえて言及するのは控えることにした。なぜならばキッカが、奴は若者だと断定したがっているようだから。バキバキ。

 薄々察してはいたが、奴とキッカには面識があるのかもしれない。それを隠すのは、やはり俺に正体を悟られぬためか。この場で俺がさっと振り返ってしまえばキッカの正体は簡単に割れてしまうというのに、変なところを徹底しているものだ。

 随分信用されているようで、自分への過大評価がくすぐったい。応えようと口をつぐむあたり、俺も素直なものだと若干自虐る。ザクザク。

 そんな感情の機微も知らない金髪バックパッカーはキッカの隠すものにずかずか踏み込んでいく。


「これでも警戒はずっとしてるつもりなんだけどな。敵があいつだけとも毛頭思ってないし」


 言ってからぴたりと足が止まる。へちょり。三島に合わせて急停止した我が両足は丁度大木の根っこに乗っており、安定を求めた結果片足が野花を押し潰した。足裏の感覚は葉っぱを踏みしだくのと代わり映えしない。

 罪悪感を三島に転嫁しつつ、上半身のみで振り向いた若干上向きの顔を見る。バックパックからひょっこりと顔を出しているように見える。渡し渋っていたサングラスはいつの間にか額で装飾品になっていた。

 お友達の俺だからわかるが、これはカッコつけ九割の表情だ。眉間に寄せたシワと釣り上がった眉尻。その割に、口角は不敵に上がっている。

 しかし、言わんとすることは単なる冗談ではないらしい。


「………………」

「やぁねぇ、あんまり見られると照れちゃうよ三島さん」

「自己紹介したっけ?」

「ごめん、西松さんがそう呼んでたから勝手に呼んじゃったよ」

「ふぅん」


 訝しみMAXでぞんざいに言い放ったかと思えば、振り向いたままの体勢で歩みが再開した。ザクザクフラフラ。


「お前転けんなよ」

「この際だからちゃんと自己紹介しよう。私は三島路、みっちゃんか、しーちゃんか、みっちゃんとでも呼んでくれれば」


 窮屈な選択肢である。


「高一で、西松の同級生です。学校はサボって来ました。こっちは西松仁、高一で、私の同級生です」

「他己紹介まですんな」

「他己ってなんか気持ち悪い表現だね。私はキッカ、二人と同じく高一」


 ただの軽口に気持ち悪いとまで言われてしまった。柔らかい口調の割に言うことはかなりキツい奴だ。ギガは確かにそういう雰囲気のハムスターだったのだが。

 というか、聞き間違いから始まったキッカを名乗っていくのか。強かと呼ぶべきか、面倒がりと呼ぶべきか。ザクザク。


「てか、キッカ高校生だったんだ」

「なんで知らねんだおめ。しかもさ、その体操着の校章、賢いとこじゃん。こいつの妹もめっちゃ賢くてさ、そこの中学通ってんだよね。知ってるかな。あ、妹って言っても名字は違うんだけど」


 再び妹の話になり、眉間にシワが寄るのが自覚できる。三島はそれを見て、心底愉快そうに顔を歪めた。知ってはいたが、性格の良くない女だ。

 そして、自分よりかなり偏差値の高い人間(ハムスター)をペットとして扱っていた事実が発覚して胸から熱がせり上がる。恥ずい。あと今さらギガがいない悲しみも来る。わざとらしく両手で顔を覆ってみせると、前方から「変顔?」と的外れの期待をいただいた。

 変顔で顔を上げて期待に応えてやることも一瞬過ぎったが、心無い評価をいただくだけだと予知して真顔で顔を上げた。つまんねぇなお前とでもご挨拶いただけるかと若干期待していたが、興味は元ギガに戻っていた。

 俺に小さな嵐が発生している間にも、薄い空は晴天を振りかざし、滞りなく会話は続く。歩みも続く。ザクザク。


「中学の方とはあまり関わりがないから、知らないと思うな」

「ふぅん。今からどうでもいいこと言うんだけどさ」


 急に話が切り替わったかと思えば、顔が前に帰る。


「君、行方不明になってるっていう子でしょ。たまに行くお菓子屋さんがあって、そこに情報提供求むってポスターが顔写真付きで貼られてたんだけど。なんか今合致したわ」


 どっかで見たと思ったんだよなー。と、一人で納得している。俺ら、置いてけぼり。


「えっ」


 キッカの正体が少しだけ浮き彫りになった。衝撃よりも、いたたまれなさが勝つ。少なくとも、辿り着けるだけの条件は知ってしまったのだが、現状辿り着きたくなければ辿り着いてほしくないわけであり。ザク。


「あんま、キッカのこと俺に教えないでほしいっていうか……」


 ふらついた足が脆い土の塊を砕き、傾斜に足が持っていかれそうになる。木にしがみついて事なきを得たが、その手には冷や汗をかいていた。


「危ね……」

「キッカさんが一方的に正体隠してるって何のため? 西松はなんでバカ正直に付き合ってやるの。まさか、本当に平安貴族やってるわけじゃないでしょ」


 歪であったところを、不意につついて崩しにかかってきた。ずっと気にしてはいたらしい。穏やかを取り繕う声の表面には茨のような威嚇を纏っている。

 三島は初対面にして正体を隠そうとするキッカを敵ではないかと疑っている。無理もないが、なかなか弁解し難いために頭を抱えてしまう。

 口裏合わせて嘘をつけるほど、俺とキッカの間に絆はない。ギガとの間に芽生えたものは、おそらく持ち越せないだろう。

 信じてもらえる可能性は低いが、事実を伝えるべきなのかもしれない。俺だってまだ実感が無いのだが。


「実はキッカは」


 空気を切り裂いて、チープな着信音が鳴り響く。

 音の発生元を探る必要もなく、携帯を持ち得る人間は一人しかいない。あと、この時代にガラケー内蔵の『ワルキューレの騎行』を着メロにしているような人間の心当たりも一人だけだ。

 ケージを草むらに置いてポケットから携帯を取り出した三島は、突然振り向いて俺達に短く断ってから通話を始めた。


「はい、三島のみっちゃんです。えっ気が付かなかった、ごめん、こっちは平気だよ。うん、西松君も無事よー、なんか変なの引き連れてるけど」


 後ろで変なのが「失礼しちゃうねー」だなんておどけている。なぜそこまで呑気でいられるのか、疑問で仕方ない。


「まあいいじゃん。そっちは、というか、先生はなんて? ……それはそれは、つまんないね。え、そこまで言わんでよくない……? いやまあ、うん、諸々は後で説明するよ。この後まだ予定があってー、忙しくてー」


 珍しく狼狽えている。

 ということから、電話の相手がある程度察せられる。妹だ。


「ごめんね、リンちゃん」


 早乙女さんだった。


「えっ早乙女さん」

「寄るなアホ。あ、ごめん西松が盗み聞きしようとしてきて、やーねー、え、いいよこんな奴と話さなくて」

「え、俺俺俺話したい」

「小学生かよ。あー? もー、甘いんだよリンは」


 疎ましそうに携帯から耳を離した三島は、腕を組みながら俺を一瞥する。サイレンになって熟考した末に、腕を伸ばして携帯を突きつける。顔には依然として不服が張り付いていた。


「お前余計なこと言うなよ。私は山登りで迷子になった西松を助けに来たって設定なんだから」


 小声だ。ありさんだ。


「警察に任せろよそれは」


 いや、そもそも誘拐だって警察に任せるべきである。


「とにかく誤魔化せやい」


 半ば放り投げられた携帯を捕まえる。この先に早乙女さんがいるらしい。


「やべー………………もしもしぃ」

『西松君?』


 息づかいが克明に感じられる。対面して話すよりも近い位置にいるような気がして、緊張してきた。そういえば、電話をするのは初めて何だった。一旦引いていた手汗がまた出だして携帯が滑る。


「あわ、あわわ」

『泡?』

「絶対落としたりすんなよ……あと、こんなとこに長居すんの怖いからさっさとして」

「あ、敵が来るかもしれないんだった」

『敵?!』

「おっまっえっ、それ言う必要無かっただろっ」


 怒り心頭に発してもはや飛び跳ねている。小学生だ。ちなみに本当にうっかりである。薄笑いでヤンキー小学生を見ていると緊張が和らいだ気がする。

 ズボンに手汗をなすりつけて携帯を持ち替え、安定を図る。


「いや、てき、テキーラ? の瓶が山道に落ちてたんだよ。登山客が落としてったのかなぁ、良くないなぁ」

『結構人気ひとけがある感じの山なんだねぇ』


 これが通用するのが早乙女さんである。断っておくと、蒸留酒片手に登山することは推奨されていない。


「さっきあわあわ言ってたのも、あれ、泡盛あわもりの瓶が落ちてて」

『………………?』


 この期に及んで変なチキンレースを始めてしまうのは良くない癖だ。

 退屈のあまりサングラスをかけなおした三島がレンズ越しに睨んでいるが、既に言葉が出ているのだから取り返しようもない。先程よりもいくらか粘度の低い手汗を握りしめ、言葉を待つ。

 意味深な突風が枝と葉を荒らしたあと、電話口から吐息が吹き返す。


『お酒飲んで陽気な感じの人が多い山なのかな』

「そうそう」


 蒸留酒片手の登山は推奨されていない。


『酔っぱらいに絡まれたりしてない?』

「酔っぱらいは、特に見てないかな」


 変な男は見たけど。


『なら安心だね。あ、変なの引き連れてるっていうのは』

「あれ、あの、肩にてんとう虫さんが着いてるのを三島が大袈裟に言ったんだよ」

『はぁ、そっか。それは良かった。無事で何よりです』

「心配とかしてくれてたり……」

『当たり前じゃん』


 雑味のないただの声。素直な鈴の音。

 涙が出そうだ。早乙女さんが、ということもそうだが、俺のことを気にかけてくれる人がいる事実が効く。五臓六腑にしみわたる。


「ありがたいなー……」

『平気だとは思うけど、路のことよろしくね。帰ったらまたギガ子の写真送ってよ』

「…………………………………………………………」

『西松君?』

「はいもう終わり終わり! 返せっ」


 返答に窮する間に、携帯を取り上げられてしまった。携帯を握りしめていた右手から右肩にかけて、自然と硬直する。頭が水底に沈むように冷えて、あらゆる感覚が鈍くなっていく。冷静とも少し違う、秋を再確認するような冷涼が脳を満たす。

 ギガが早乙女さんとの唯一の接点なんだった。

 そのギガは現状この世に存在しないのと一緒である。


「西松さん、失言でもした?」


 この呑気極まりない声の主の写真を撮って送ったとして、接点が持続されるわけがない。そもそも写真を撮れない。見てはいけないのだから。

 危機的状況。ついでにギガに会えない悲しさがせきを切ったように大挙して心を覆い尽くす。あと、よくわからない山にいるし。そしてなんとなく目を背けていたが、義妹を名乗る同級生に命からがら助け出してもらった事実も心をいたぶるのに加担している。

 嘔気に近い息苦しさが徐々に両方の下まぶたを塗らして、間もなくなにかが頬をなぞった。


「終わりだ」

「えっ泣いてる」


 年甲斐もなく昂って横隔膜を痙攣させている。情けなさで更に涙が溢れる。

 十数年ぶりに泣いている。中学校の卒業式も、小学校の卒業式も、もちろん保育園の卒園式でも泣かなかった俺が、である。入学式でも泣いたことはない。開会式でも閉会式でも方程式でも葬式でも戴冠式でも恒等式でも西洋式でも銀婚式でも泣いたことがない。後半のいくつかはそもそも参加したことがない。

 じゃあレアじゃんって冷やかすような感情もどこかにはあって、その微塵の冷静さが溢れるものを放ったらかしにする。

 結果、キッカが一人で焦っているという事態に。


「赤ちゃんになっちゃった感じかな?」

「わりと生まれなおしたいかも」

「なになに、どうしたのー」


 三島は知らぬ存ぜぬで電話に集中して、切るタイミングを探っている。羨ましすぎる悩みだ。

 なんて、ぼんやり眺めていると「え!?」いきなり叫ぶのでびっくりした。


「予定変更、今からリンの家に向かう」


 衝撃の予定変更が行われている。涙がいくらか引いた。


「なんか、西松さん本当に赤ちゃんみたいだね」

「わかる」


 どこまでも軽薄だ。耳も軽薄だから、電話を盗み聞きしようと躍起になっている。


「いや、それちょうど探してたところでさ。え、それは悪いよ、リンのお母さんに開けてもらうから平気。あ、お母さん耳鼻科? あー…………ごめん! ありがとう! えっとー、二時間くらいで着くと思う。マジでありがとう、お礼は後日また丁重に……はい、はい、マジで感謝す。うん、大好き!」


 俺が一生かけても言えなさそうな言葉で、通話は打ち切られた。軽薄さを好意的な言葉にして使える三島を羨む。

 が、今は嫉妬する余裕もなくて、吊るされた餌によだれが止まらない。


「あの、早乙女さんの家に向かうって」


 三島は機嫌の良かった顔を引きつらせる。


「なんか連れて行きたくないな……」

「でも、俺を礼の元に届けてから早乙女さんの家に向かったら遅くなっちゃうし」

「勝手に帰れよー」

「帰り道わかんねーよー」

「前に同じー」

「キッカさん関しては何、あのお菓子屋さんに連れていけばいいの? てか正体って結局」


 またしても物騒な着信音が遮る。先程まで通話していた延長で、自然に通話が始まる。そしてキッカの正体開示はまたしても先送られる。


「はいはい三島のみっちゃーんですけどー、え、あ、ごめんなさい礼さんでしたか」


 今度こそ妹だ。


「お兄様はそれはもうピンピンしており、ええ、誘拐犯は一旦あの倉庫に閉じ込めてありやすグフフ。え? あ…………でもな、困ったな。あ、いや、今ちょうど例のブツの居場所が判明したとこでして」

「西松さんの妹さんって組長的なあれ?」

「いや、三島が勝手に手下ごっこをしてるだけ」


 一世一代の一目惚れをしたと言った翌々日には、既に尻に敷かれていた。初めから対等な関係を放棄する仕草は、俺が言えたことでもないがアホ極まりない。

 同時に、本気なのかもしれないとは思わされるのだが。


「あ、それはいいんすね。承知しました、じゃあ私はブツの回収に参ります。はい、えっ、それは恥ずいすよー…………んー、じゃあ、ま、わかりました」


 三島がまたしても振り向く。そして、携帯を付けていない方の耳に人差し指を突っ込む仕草をして何かを訴えかける。やや紅潮した中での口パクが何を行っているのかは、その仕草と合わせてようやく理解した。


『耳ふさげ』


 言われた通り両手で両耳を覆う。おおかたどんなことを口走ろうとしているのかは察しがつく。

 それを盗み聞きたいとも思わず、真空を作る手のひらの力を強める。

 俺たちから一歩分離れて背中を見せた三島が何かを発し、そのあとで通話を終了した。そして俺の外耳孔が息を吹き返す。


「ごめん、聞かれると恥ずいことだったから」


 それは本質的には聞かせているのと同じである。こちらまで照れてしまう。

 早乙女さんに対して言えば軽口であった言葉を、いざ妹に言うとなれば耳の端まで赤くしてしまうというのだから変な話だ。


「お前、マジで礼に惚れちゃってるんだな」


 あんな奴のどこがいいのか。顔か。まあそうなんだろう。


「そうだって、ずっと言ってるじゃん。あ、西松とキッカさんの下山は一旦見送られました」

「は」


 照れ隠しのトーンで理不尽を突きつけられた気がする。突きつけられてる。


「あ、ごめんなさい、ナマ言って」

「八つ当たりとかじゃないから。礼さんからのお達し、倉庫に戻って誘拐犯を開放してやれってさ」

「え、嫌」

「お願い! ほら、鞄と携帯は置いていってあげるから。武器とか缶詰とか色々入ってるよ。サングラスもあげる。あ、待って財布とヌンチャクはもらってくね」


 ヌンチャクって。

 サングラスを強引に俺にかけさせたかと思えば、足元に置いたバックパックを手早く漁り、ヌンチャクと財布だけでなくトートバックとヘルメットも取り出していた。ヘルメットは人数に足る個数あるようで、俺とキッカにも手渡された。一応着ける。


「いや、なんで俺が礼の言う通りにしなきゃいけないんだよ。てか、開放ってなんで」


 反発心が復活する。しかし、勢いで放置してきちゃった感は否めないのだった。


「閉じ込めといて死なせでもしたら私らタイホされちゃう」

「三日くらいは飲まず食わずでも死なないって言うじゃん」


 言いながら酷い言い分だと思う。


「あいつ見るからに不安定だったし、舌噛み切って自殺をはかるかもって礼さんが」

「しかも、あの人部屋に爆弾がどうのこうのって言ってたよね」

「あれはハッタリだろ」

「そう思ってたけど、でも、万一のことがあるかもしれない」

「それならさ、三人であいつ助けに行ってから早乙女さん家に向かえばよくね? 危ないじゃん」


 これに関しては正当性を認められたい。


「あの倉庫に戻ってから向かうってなると、結構時間食っちゃうよ。リンには二時間くらいで着くって言っちゃったし」

「電話して三時間って訂正すりゃいいよ」

「一刻も早くブツを回収しなきゃいけないんだよ」

「一時間程度も駄目かよ、てかブツって何なんだよ」

「地球儀、この間礼さんが持ってきてくれたやつ」

「はあ?」


 またしてもその名が出る。

 そういえば誘拐犯も言及していた。俺からすれば単なる思い出の品にすぎないそれを、謎の男と妹が意味深に欲しがっている。意味不明だ。そもそも、それなら妹はなぜ俺に一度は渡したのか。

 そして、ブツが早乙女さんの家にあるということは、つまり俺がなくした地球儀を彼女が持っているということになり、そこもうまく繋がらない。


「あー? どうなってるんだ……」

「とにかく、分担しようよ。合理化だよ」

「でも」

「もし他にも地球儀狙ってる人がいて、その場所まで突き止めちゃったら、リンが危険にさらされるんだよ」

「………………」


 俺はいまいち地球儀を所持することによる危険を理解していないが、早乙女さんが危険というところだけが強く印象付けられる。現に俺は疑惑だけで攫われてしまったのだ。

 三島も冗談を言う顔ではない。似合わないサングラスをかけたままの俺が滑稽な者として印象付けられている気さえする。

 状況とか、対比とか、そういうものにちょっと流されてみる。


「私は一刻も早くあの子の安全を確認したい」


 利害が一致する。サングラスを外して再度目を見ると、決意は固く見えた。


「わかっ」

「よし、じゃあ私が一人であの人を助けに戻るよ」


 思わぬ方向から提案がやってきた。後ろ。


「早乙女さんを守らなきゃいけないんでしょ? じゃあ、男手がある方が安心だよ」

「それじゃあそっちが危ないじゃん。さっき男子には男子のパワーで対抗しろって言ってただろ」

「実はあの人は私の知り合いなの。だから、パワーを使わない対処法だって知っている」


 知り合いなのはそうなのだろうけど、それなら「体当たりしてやっつけちまえ」みたいなことは言わないでほしかった。正体を隠すために仕方がなかったとはいえ。

 しかし、その正体を今いくらか明かさんとしている。体を張っている。ならば、応えるべきだと思った。


「わかった、頼んだぞキッカ」

「いやいやいや」


 思わぬ方向から茶々が入った。前。


「私はその人のことまだ信用してないんだけど」


 そういえば、正体については先送りにし続けていたのだった。


「誘拐犯と知り合いって、怪しくない?」


 ごもっとも。


「あの、実はキッカはハムスターのギガなんだよ」

「はあ? もっとマシな言い訳あるよ」


 受理されず。溜めすぎたのが良くなかった。

 三島の言い分は頭からつま先まですべて正しい。

 非現実的な事実だけがキッカの武器だ。互角に戦えないことは自明である。

 しかし、勇敢なことにキッカは丸腰同然で立ち向かう。


「じゃあ、ここでハムスターになって差し上げましょう」

「え?!」


 ぜひお目にかかりたいイリュージョンであり、また最も効力のある武器が繰り出された。やりたくないと言っていたのに、どういう心変わりなのだろうか。


「いや、もちろんやりたくはないよ。でも、仕方がないってこともあるし」

「キッカ……」

「じゃあ西松さんは目つぶっておいてね」


 従順に目を結ぶと、キッカが俺の隣を経由して三島の側まで歩いていく。ザクザク。三島が少し下がる音が聞こえた。


「……なんでしょうか」

「三島さん、私の唇を噛んで」

「は?」


 唇。噛む。


「表面の薄皮を上手いこと噛んで、出血したら舐め取るという感じのことをしてもらえば」

「え、いや、はあ?」


 たじろぐ三島と対照的に、キッカは淡々としている。

 それってつまり、と絵面だけを想像すると、そういうことだった。白昼堂々、なんという破廉恥だろうか。


「プレイボーイ的なキャラなんでしょう。西松さんが言ってたよ」


 言ったか? ギガにはそれっぽいことを言ったかもしれない。


「ボーイじゃないし、別にそんなキャラでもないし、え、噛むの? なぜ」


 そういえば、ギガは俺の唇を噛んでから巨大化したのだった。表面で固まりかけていた血の塊を指の腹でなぞると、蓋がほろりとこぼれ落ちて汁が溢れる。

 噛まれたらハムスターになって、噛んだら人間に戻るというシステムなのか。

 釈然としない。


「さっきのは人間の血を飲んだから人間に戻った的なニュアンスじゃねえの?」

「違うね。成分じゃなくて、あくまでも行動が重要なの。噛んで舐めるって行動がスイッチになって人間になれたって流れね。同じように、噛まれる舐められることに起因してハムスター化するっていう、そういうのね」


 すべてが結びつかない。が、ギガがそうして人間になるところを目の当たりにしたわけで、あまり強くは否定できない。

 しかし、三島は目の当たりにしていないので信じる材料が足りていない。

 案外潔癖な友人にあまり無茶もさせられないだろうと冷静に判断。


「俺もキッカと一緒に倉庫に向かう」

「よろぴく」


 信じてもらうことは諦めた。そもそも、どちらに行くにしてもあまり油は売っていられないのだ。


「また落ち着いたらリンの携帯から連絡するから」


 視界が閉ざされた中で、足音が離れていくのを聞く。草の根や葉を踏みしだく音は忙しく、そしてすぐに遠くなる。

 断っておくと、山を駆け下りることは推奨されていない。

 一方の足音が俺の背中側に回り込んだのを確認して目を開くと、不細工に口の開いたバッグパックだけが三島の抜け殻のように放り投げられていた。その中から携帯だけ取り出し後ろポケットに入れ、口を閉めて背負………………背負う。

 足を強く踏み出して立ち上がると、早々に不安定になる。キッカが後ろを支えてかろうじて安定を得る。倒れたのが前だったら滑落していた。


「なんであいつは平気だったんだ……」

「体よく押し付けられたのかもね」


 ちなみに中には大量の缶詰とペットボトル、懐中電灯、タオル、スタンガン、バール二本(二本もいらないそもそも一本もいらない)、救急箱、いくらかの現金、笛、地図なんかが入っていた。

 ひっくり返せばまだあるかもしれない。しかし、ここで一つずつ取捨選択をしていくなんてことはできないので、よく見ないで持っていくことにした。バール一本は捨てていけば良いかもとか、今になって思ったが背負い直すのが面倒なので進むことにする。

 振り返って歩いてきた道を見ると、想像以上に高さがあってげっそりした。倉庫はとっくに見えなくなっている。まっすぐ行けばたどり着くのだろうけど、少し不安になってくる。

 しかし、降りても帰り道がわからないのが現状であり。

 携帯の充電も心許ないし、いつ圏外になるか、すなわち遭難してしまうかはわからない。

 ならば、一旦は戻ってミッションを達成すべきだろう。

 ハメられたのかもしれない。しかし、邪推しても今は仕方がない。


「行こう」


 ケージだけ拾って、出発だ。




*




 携帯を置いてきたのは悪手だったかも、ふもとまで降りてから気がついた。バスの時刻がわからない。そもそも今の時刻がわからない。

 しかし、あの二人に連絡手段を与えずまた遭難させるというのも酷な話で、ならばこれで最適解なのだ。取り敢えずバス停にたどり着ければ、バスには乗れるのだからそれで良い。

 大前提として、現状に余裕はない。


「なんでこんなことしてんだろ」


 歩いているうちに退屈を訴え始めた頭が現実逃避を始める。私が一刻も早くバスに乗りたい理由は、それはリンを守るためである。

 そういう、細々とした理由の集合が私を突き動かしている。それらは個々で拾い上げても大したことは無いのだが、しかしどれが欠けても私は動けなくなってしまう。

 理詰めといえば聞こえはいいが、その実、流され続けた結果色々なものを抱えすぎて窮屈になってしまったに他ならない。


『君には大義がないな』


 愛おしく、甘く、少し憎らしいその声がリフレインする。その場では軽く流した言葉が、じわじわと効いていた。

 走ることにする。内面で発酵されていく毒を振り払う意識で、腕を振る。

 ただ、走りながら落ち込んでいる人ができた。

 一週間前に知り合ったばかりの彼女は、その歴を思わせないほどに私を見透かしている。だから、的確に毒を盛れる。私は奇跡的なバランスで毒から逃れられない。

 なんでこんなことをしているのか。

 それは、彼女の甘い味の毒に当てられたからと言える。甘みに依存して、誰にも毒抜きを頼めない。

 バス停にたどり着くと、帰りの登山客が数名並んでいた。この時間にもう登り終えているという前提もあって、その老若男女がとても健康的に見えた。

 時刻を見るも現在時刻がわからないため、取り敢えず最後尾に並ぶ。

 私が登って降りてきた場所と少し離れたところに登山道があり、そちらの方にはちらほらと人がいるのを横目に見た。軽装で走る私に気がついた人は奇異な目で見つめてきたが、今日に限っては爽やかに手を振り返す余裕はなかったので無視してきた。

 今も、隣に並んでいる少女に見つめられているが無視している。父親と思しき男性と手を繋いでいるが、さっき誘拐犯がどうって話をしてきたところなので、変な先入観が加わる。


「お父さん、のどかわいた」


 少女が男性の手を引っ張ってそう言った。疑ってごめん。

 男性は腕時計を一瞥してから列を離れ、おそらくは自販機へ向かった。

 そうして、少女が残される。


「……不用心なおっちゃんだ」


 私が誘拐犯だったら大変だったぞ。


「ほんと、お父さん不用心なんですよ」


 君も十分不用心だと思う。


「知らない人の世間話に乗っちゃいけないよ、お嬢さん」

「お嬢さんとか、はじめて言われました」

「あらそう」


 ただの言い回しにきゃっきゃと感動してくれるので、気分がいい。いや、自分よりかなり幼い子と話をして気分良くなるのは大分危険そう。

 少女は見たところ小学三年生くらいで、年相応よりも少し抜けているような印象を受ける。リンの幼い頃を連想して、胸に温いものが巡る。


「お姉さん? は山登りの帰りですか?」

「お姉さんにクエスチョンマークはいらないね。まあ、そんなとこ。お嬢さんは、学校サボって登山?」

「さ、サボったとかじゃないですからっ。お父さんが休んでいいよって」

「親公認のサボりってことかぁ」

「違いますよー……」


 少女はチューリップハットの端をつまんでくねくねしている。揺れるおさげは黒髪の一本ずつが細くサラサラで、子供特有とわかっていても羨んでしまう。あと、単に手触りを知りたくもなる。

 伏し目気味の目元は若干潤んでいるが、表情の全体を見ると眉毛が呑気に弧を描いており切迫感がない。リンとは少し質の違う透明度を見る。

 幼さもだけど、この子特有に輝くものを持っているように思えた。逸材だぞ。


「可愛いねぇ」


 しまった。声に出てしまった。

 断じて下心などではない。西松がハムスターを溺愛するのと似た感覚である。多分。

 その小ささ純粋さが愛おしい。それだけ。しかし、自分が女で良かったとこれほどまでに思ったのは初めてだ。

 冷や汗でべしょべしょの私と対照的に、少女は顔を上げて太陽みたいな笑顔を浮かべている。その潤んだ瞳が光を反射して、あわや目をやられそうになる。眩しい。


「どのへんが可愛いですかっ」

「え、どのへん? 全部可愛いよ」

「きゃー」


 正直に答えると、少女がまたしてもくねくねする。先ほどとは違って、帽子からちらりと覗く耳が赤く染まっていた。

 間違いなく可愛い。この子はおそらく、成長しても可愛いままだと思う。元も子もないことを言うが、顔が可愛いから。

 しかし、これ以上言ってしまえばバス待ちの数名に不審者を見る目で見られそうなので自重する。


「特に、どこが可愛いですかっ」


 黙ろうとしたところ、食い下がってきた。思いの外強情だ。

 並んでいる他の大人を一瞥して、特別気にしてもいなさそうだったので危ない橋を渡ってみる。


「素直なとことか、可愛い」

「素直とか、幼稚園ぶりに言われました」

「嘘だぁ。あと、髪が綺麗だからおさげがすごく似合う」

「これっ、自分で結んだんです」

「へえ、上手じゃん。すごく可愛いよ」

「きゃー、きゃー」


 さて、そろそろ周りの視線が怖い。少女がくねくねするのを傍目に、目線は前に向ける。

 木々だ。自然だ。車も割と通る。鳴いている鳥の声は地元では聞かないが、初めて聞いたわけでもない。

 またしても退屈に脳が侵される。そういうときに、また毒が回る。彼女といるときには甘みが勝るのに、一人になると急激に蝕みモードになるので厄介な毒である。


「きゃー」


 隣を見下ろせば、少女がまだおさげを振り回していた。毒が抜ける。


「……………………」


 しばらくは、少女を横目に見て退屈を耐えた。おかげで心が冷え込むことはなかった。

 ややあってバスが到着したが、少女は乗らなかった。なぜならば父親が自販機で何か苦戦していたから。

 ただ飲み物を買うだけで何を苦戦することがあるのかと疑問に思いつつ、本来の目的を思い出してさっさとバスに乗り込む。名残惜しいがお別れだ。


「お姉さんもその髪すごくきれいですねーっ」


 一人席に腰掛けた後、ドアが閉まる直前に聞こえたものだから、返事はできなかった。しかし、手を振ることはできたので良しとする。

 さて、戯れは終わりだ。

 やるべきことをせねばならない。

 リンの家に行って西松の地球儀を受け取り、礼さんに届ける。それだけ。なのにげっそりしてしまう。戯れで満たされた心が早くも空腹を訴えていた。

 まず第一に、なぜあの地球儀を欲する人が複数名いるのか。西松が強制山ごもりさせられている現状から、もはや持つこと自体が危険なのではないかと思える。だからこそ早く行ってリンの身の安全を確保する必要があるのだけど、自信がなくなってきた。

 トートバッグの中を覗くと、財布とヌンチャクとヘルメットが入っている。ヌンチャクは、発泡スチロール製のおもちゃを遊びで振り回したことがあるという程度だ。どう考えても経験値が足りていない。変に冒険せず、バールも持ってくれば良かった。

 そして、私の使命ではないが、同時進行しているミッションに思いを馳せる。


「死んでなきゃいいけど」


 誘拐犯が。

 西松は武装しているし食料もあるから、死んでいたらただの間抜けである。

 キッカさんは……よくわからない。不意打ちとはいえ完璧に関節技を決められるポテンシャルはおそらく信用には足るが、しかしそれは味方であった場合の話である。

 キッカさんの正体は西松のハムスターだといった。もちろん信じてはいないが、あの場に一緒に連れ去られたはずのハムスターがいなかった事実に惑わされる。

 いや、そんなわけはないのだけど。


「総じて、わけわかんないな」


 思考停止して眠ってしまわぬよう、このカオスを改めて見つめることにする。

 あの小悪魔と出会った一週間くらい前から、事は始まっていたのだ。

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好きな子の幼馴染が妹候補になった話 妹野河内 @ohoshisama_kirakira

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