好きな子の幼馴染が妹候補になった話

妹野河内

第1話

 小学四年生の秋口、俺のクラスでは「何時何分何秒地球が何回回ったとき」という定型文に対して大真面目に返答するというノリが流行った。

 言い出しっぺは計算が速かったメガネの志田しだ君。一年が365日あるいは366日であることに加え地球ができてからおよそ46億年が経っていることを知っていた彼は、友人と口論をする中で「地球が何回」に目ざとく反応した。そしておもむろに鉛筆を握ったかと思えば、目にもとまらないスピーディ筆算の末に地球の回転はこれまでに約1680150000000回だと導き出してしまったのだ。

 そのとき光った眼鏡のレンズが完全にマッドサイエンティスト(当時の偏見に基づく)で、目の当たりにした俺たちはその説得力に息を呑んだ。

 だから、全員で安易にパクった。

 翌日から教室内では脈絡のない「地球が何回回ったとき」の問いが増えていった。志田君は苦い顔をして、自分から乗りにいくことは無かったと思う

 元は男子の一部のノリだったものだが、いつのまにか女子にまでも伝播した。クラスで一番可愛い女子がそれを口にしたときには、流石の志田君も満更じゃない様子だったと記憶している。

 筆箱を買ってもらったと言えば、何時何分何秒地球が何回回ったとき?

 今度野球の試合があると言えば、何時何分何秒地球が何回回ったとき?

 転倒してあざができたと言えば、何時何分何秒地球が何回回ったとき?

 一週間が経った頃には、問われなくとも何時何分何秒地球が何回回ったときにさあと話し始めるパターンが一般化した。

 日ごと回転回数は更新されるため、それを数えるゲーム要素のおかげで比較的長く流行ったのではないかと今の俺は考察する。因みに、その流行がぱったり止んだ日は地球が1680150000012回回った日だった。なぜかはっきりと覚えている。

 クラスメイトの半数ほどが少しずつ飽きを感じてきた頃、意外にもそこに切り込んできたのは無口な古家こけさんだった。彼女は中学受験の勉強をその時点には始めていた超絶秀才で、志田式の計算方法には前々から違和感を持っていたらしい。

 曰く、地球ができた当初の自転速度は今以上だったとされているため回数はもっと多いはずだ、と。あと、おおよその値である1680150000000という数字に端数を足していくのはバカバカしい、とも。後者に関しては志田君は全く悪くない。

 しかし、彼は不適当な情報を提供したとして古家さんを始めとするクラスメイト全員に対して丁重に謝罪をした。今となっては珍しい、流行りが目の前で寿命を迎えた瞬間だった。


「てことを、秋になると思い出すんだよな」

「そうなんだ」


 気まずい無言に耐えかねて吐き出した苦しめの話題はたったの五文字で終わらされ、この図書室がさらなる気まず空間へメタモルフォーゼするきっかけを作った。重ね重ねごめん志田君。

 俺のネタ振りに無理があったのか、こいつが会話下手なのか。

 どっちにしてもこの話題を蘇生することはできないし、やっぱりこいつ好きくないわぁと諦念を込めて天井を仰ぐ。図書室のパイプ椅子はクッション素材が繊維質で、若干高級だ。背もたれに全体重以上の圧力をかけても痛くない。調子に乗っているとあわや後転しかけたので、反省。


「はぁー………………」


 整列した薄暗い蛍光灯は焦点をぼやかすと無秩序に踊りだす。バレエではなく、コンテンポラリー。その光の泳ぎはコバエの軌道を連想する。

 気持ち悪ぅ……。

 眼球を泳がせるのに疲れて現に意識を戻せば、会話が聞こえた。どうやら、隣に座ってるやつが仕事をしているらしい。


「うん、明日だよね。あ、出席番号いくつ? にじゅう、に……ね、おっけ。家出のことは親にちゃんと言ってあるからそこは平気なはず。え、そういうもんでしょ。少なくともうちはそう。いやいや、忘れてるわけないでしょ、約束破らないよ。そうそう、そういうこと……じゃないってば。もしかして信用されてない? やっぱし……うん、そうだよー。ちゃんと楽しみにしてるからね。あ、そう、了解。朝にメールする。ん、気をつけて帰るんだよー。はは、ばあちゃんじゃねーし。はいはい、ばあい」


 本を借りるためというよりは会話のために来たと思しき、たしか同じクラスの女子が手を振って去っていく。俺にくれた五文字は好感度の低さに起因するものだったと今察した。まあ、薄々わかってはいたけど。というか家出って、駆け落ちでもするのか。

 しかし、早々に落ち込むことなかれ。俺が特別に嫌われている訳ではない。嫌われるという段階にさえいなくて、眼中にすらないのだと思う。


「あれ、曽根先輩。図書室とか来られるんですね、意外」


 この女は性格に難がある。と、聞いたことがある。たった一人の友人が言うことなのでその信憑性やいかに、とは思っていたが。


「悪い意味じゃないですって。あは、貸し出しですよね、出席番号お願いします」


 今、上級生の女子生徒への貸し出し作業をしながら、こいつは同情してしまうほどだらしなく頬を緩めている。


「へえ、吉田先輩から……。いや、そんな、馬鹿にするわけないじゃないですか。このシリーズ面白いですよ。ええ、おすすめです」


 教室にいても見目麗しい女子に囲まれては調子の良いことを口走りながら満面に笑みをたたえている。


「あそうだ、この間のお菓子屋さんまた連れてってくれませんか? お母さんが気に入ってくれて。しょうがないじゃないですかぁ、私方向音痴だし」


 授業中に時折体調が悪いと手を挙げるのは美人の養護教諭に会いにいくためだとも友人は言った。


「いいんですか? やった。今日の夜電話していいですか? 了解です。じゃあまた夜に、はい、お気をつけて!」


 この女、三島路みしまみちの目は可愛い女しか映さないようになっている。その噂が、目の前で信憑性を帯びていく。前々からあまり好意的には思っていなかったが、益々だ。

 上級生が出ていくと、しばらく並んでいた同級生の男子生徒が若干不満そうにカウンターへ距離を詰めてくる。そこでようやく、三島はその男子生徒に気がついたらしい。


「あ、ごめん。借りる? 何組の何番? あ……下の名前は? 朗らかのロウ、あ、これか。うん。ごめんね」


 その口調は無愛想でこそないが、先程の軽口に比べるとよそよそしい。三島がわざとらしく両手を重ねて上目遣いをすると、男子生徒はバツが悪そうにその場から逃げた。本は忘れていった。

 俺は彼の性格が割と理解できる。不服を表明しようにも謝られると強くは出られない気の弱さ、それでいて低姿勢になって取り入ることはできないプライドの高さ。

 つまり俺にそっくりということ。もしこの考察が合っていればあの本を取りに来る度胸は無いだろう。もう返却作業をしておこうと、手繰り寄せた。

 ハードカバーをぼんやり見つめ、訳者の表記があることに気が付き外国の本なんだろうと推測する。タイトルを一瞥すると殿堂入り級のイギリス文学だった。考えてみれば表紙の少女と白うさぎのイラストだけでもわかったことで、初めに訳者を目に留めた理由がいよいよわからない。

 ああ、ぼんやりしてるんだな。きっとそれだけが理由だ。


「てか西松にしまつ

「…………」

「ぼーっとしてるなら貸し出し作業してあげてよ。結構長いこと並んでたっぽいよ、今の子」

「………………………………あ、俺?」

「この場のどこにあんた以外の西松がいんの」

「……あそこの勉強してる人がそうかもしんないじゃん」


 最近名前を呼ばれなさすぎて上手く認識できなかったと赤裸々に言ってしまうのはあまりにも情けないので、見栄を張る。三島は心底興味がなさそうに「あっそ」とこぼしてプリントシールの貼られた携帯電話を開いた。

 文字通りパカリと。

 もはや世界から孤立しているその原始的電子機器は携帯電話に高尚な機能を求めない俺でさえ今年の春には別れを告げた。新しい携帯はちょうど今ポケットの中でハイテクノロジー感のある通知音を鳴らしている。

 そんな世界で、殊更流行りに敏感であろう女子高生という生き物が臆面もなくピコピコガラパガラパしている様子は、どこかミステリ感があるというか。単に親が買ってくれないというだけなのだろうけど。


「何?」


 じろじろ眺めていたのがバレた。不愉快そうな視線が俺のソフトハートを焼く。

 口ごもって要領を得ないことを発声しているうちに、向こうで勝手に納得が生まれた。


「ああ、そうだった。あんた、リンちゃんのこと好きだもんね」

「は?!」


 薄ら笑いに見事に煽られ、よれよれのままのハートが跳ね返る。三島はわざとらしく肩をすぼめ「図書室だけど」と文句を垂れた。いや、だって。

 なんで知ってるのお前。

 俺が以前から三島を好意的に思えなかったのは、つまりこいつが俺が好意を寄せる女子こと早乙女さおとめさんの幼馴染かつ一番の友人だからだった。その携帯電話のプリントシールは、よく見ると二人で撮ったものらしい。

 ただの友人に嫉妬するほど狭い心ではないつもりだが、しかしこいつは女好きだと来ている。現に、教室で見かけるときも女子とベタついていることが多く、それが女子特有の過剰接触なのか下心なのか判別がつかない。もし後者なら取り返しがつかないことになるので良い目では見ないことにしている。

 三島は俺の敵になり得るということ。その敵がなぜか俺の弱点を知っていて怖い。


「なんで知ってるのお前」

「なんでこの期に及んでバレてないと思ってんのお前」


 この期に及んで、とは言うが、俺がいつそんなボロをこぼしたというのか。言ってしまえば悲しいことだが、俺は教室では目立たないし、三島と会話をしたこともろくにない。

 まさか単にカマをかけただけのところに引っかかってしまったのではないか。ならば俺はとんだ失態を犯したことになる。しかしそれ以前に三島の性格が悪いだろ。

 視線がバレないくらいの位置まで椅子にもたれかかる。メールの内容を覗いて弱みでも握れないかと冗談半分に思ったが、その手元は針にひたすら糸を通すゲームをしていた。流石に慣れているようで90本近くまで通っている。

 つまんねーと思いつつ見続けてしまうのは、俺も春まであのゲームに夢中だったから。100本を達成する直前には応援する気持ちが勝っていたようで、それゆえに携帯が唐突に閉じたことには拍子抜けした。


「返却はその箱に、はい、お願いします」


 カウンターの側にいる生徒に遅れて気がつく。そういえばここは図書室で、委員会の仕事中なのだった。

 図書委員。二人で。


「ああ……」


 三島がカマをかけたわけではないことに気がついた。


「俺が早乙女さんのこと好きって知ってるんだったら、早乙女さんに図書委員譲ってくれればよかったのに」

「なんで私がお前に気を遣ってやらなきゃいけないんだ……。そっちこそ後出しなんだから、リンに譲ってあげれば良かったのに」


 後期の委員会決めの際に好きな子、つまり早乙女さんが挙手しているタイミングで俺も慌てて手を上げた。下心が二の腕を押し上げたことは言うまでもないが、目の前さえ見えなくなっていたのだから下心って恐ろしい。

 三席前に座る誰かも手を上げていたことにまったく気がついていなかった。

 連なる背中のせいでピンと直立した腕の正体が掴めなかったが、正体に関係なくこの状況が良くないことを早々に悟る。

 委員会決めは二学期初日の四限ホームルームで行われた。その日は半ドンで全ての委員会が決まり次第帰宅して良いとのお達しがあったため、教室中を連帯感が結んでいたのだ。

 時短こそ正義。そんな中、俺は図書委員がぴったり二人で決まりかけたところに水を差したわけだ。視界の端に引っかかった複数の視線がクラスメイトの非難だと察したとき、俺は手を下げて譲るべきだったのかもしれない。

 しかしそのとき、不幸にも三席前が誰なのか思い当たってしまった。


『じゃんけんっ、しよ!』


 三島なら譲っちゃ駄目だ。

 超個人的な意地に突き動かされ、自己主張の少ないキャラクターでやっている俺が高らかに宣言した。KYの烙印を押されても構わないからと、主人公ばりのパッションを以てじゃんけんに臨んだ結果。


「お前さっきから全く仕事してないよね」


 それがこの小言である。

 KYが露呈したことで中心格の男子数名とは距離ができた(女子とは元より月ほどの距離があるので言及なし)。

 下手にじゃんけんに勝ったせいで三島と気まずい時間を過ごす羽目になった。

 そして、あろうことか、あのとき食い下がったせいであの子への慕情が三島にバレた。

 考えうる限り最悪の状況。頭を抱える他ない。


「う〜……」

「拗ねる暇あるなら仕事してよ。私もう四回応対してるから、次の四回はそっちの仕事ね。よろしく」

「え〜……」


 文句を無視して押し付けられたのは用紙が何枚か重ねられたバインダー。汎用性の高そうなシンプルな表にはクラス、出席番号、名前、本の名前を記入する欄がある。返却時には『返却済み』という欄にチェックを入れるだけという、非常に簡潔でアナログな仕組みだ。

 以前は本に付けた貸出カードだけで管理をしていたそうだが、本が大量に失踪した事件以降からは管理方法を変えたらしい。無くなった本のうち殆どはいつの間にか返却されていたが、未だ戻らないライトノベルのシリーズが一つだけあると図書委員顧問が憤りを顕にしていた。

 何というタイトルだったか。


「何だっけ、行方不明の本のタイトル」

「何それ」

「初回の委員会があったとき顧問が言ってた」

「あー、いきなり大声出す顧問」

「そう、これは許してはいけないまがいもなき犯罪行為である! つって」

「実を言うと、その大声まで寝てたから話聞いてない」


 不良だ!


「……さっきの人が置いていった本、もう返却ってことにしていいかな」

「んー、いいんじゃない?」


 四回がノルマにはなっているが、凪のように全く人が来ない。自習の人もいつの間にか退散している。先程の彼が置いていった本の返却処理をして、一回分を消化した。あと三回。

 廊下に耳を澄ます。昼で雨は止んだものの、風は依然吹き荒れて桜の木の葉を散らし窓をも揺らす。階段ではグラウンドを使えない野球部が走り込んでいる。その向こうでは女子生徒が連れ立って帰宅する高い声がするが、会話の内容はわからない。

 数分間それを聞いた頃だろうか。雑音の中に、明確にこちらへ向かってくるびったびったという足音が混ざる。そして開け広げられたままの扉に見覚えのある人物が現れる。


「あの、さっき借りたやつ」

「あら」


 俺に似ている小心者の彼。まさか戻ってくるとは。しかし、これで二回目消化だ。

 ただの二度手間ではあるが、二回作業していることは間違ではないためしっかりカウントさせていただく。

 彼の若干曲がった背中を見送ってから、悪知恵が頭を出す。

 返却してまた貸し出せば、二回分が得られた。プラスマイナスゼロなので破綻はない。

 誰かが本を借りにきたのだと捏造して、すぐ返せば残りの二回分が消化できるではないか。

 幸い三島は針通しに夢中だし、こっそりやればバレないだろう。自分の名前でやればせっかくの閃きが台無しなので、唯一の友人の名前を借りることにする。


「ちょっと本見てくる」

「えー、まだ接客ノルマ残ってんじゃん」

「すぐ戻るから」


 どうせなら変な本を借りて友人の貸し出し履歴を変にしたい。奴は未だ中学二年生のメンタリティを保存しているため、好きや可愛いといった言葉を忌避している。小動物、可愛い女優、それから美味しい食べ物に至るまでに寡黙を貫いているのだ。もはや天然記念物である。

 本棚を流し見ていくうち、素敵な物を目に留める。


ハムスターの正しい飼い方〜写真・図解で隅々まで解説〜


 ネット検索から小動物の写真をいくつか見せたとき、ハムスターがペレットを頬に詰めている写真のときが最もひきつっていた。ハムスターが好きなんだろう。ハムスター見たさにこれを借りたという履歴を残してやろう。

 カウンターから死角の位置を探し、バインダーに本のタイトルを記入しようとしたところ、ポケットが不意に鳴る。

 悪巧み中なので驚きも割り増しだ。本とバインダーをあわや落としかけ、既のところで拾い上げる。

 電話を取り出すと、妹からの着信が表示されていた。三島がわざわざ顔を出すので、死角の意味はなくなる。

 なんというタイミングの悪い妹!


「西松?」

「ああ、そうそう、俺の電話」


 三島は「あっそ」と引っ込んでいった。安堵して一旦は携帯に意識を戻す。図書室だが人はいないし良いだろうと受話器を取る。


「もしもし」

『あ、じんくん。何か用事中かい? 申し訳ないね』

「いやまあ、それはいいんですけど」


 二つ違いの妹の口調はなぜか紳士風味であるし、俺を兄貴と呼ばない。


「いきなりどうした?」

『いきなりって、三十分ほど前にメッセージ送っただろ。さては見ていないな?』

「あー………………」


 そういえばさっき、通知音が鳴った気がする。


「見てないわ。いや、てか、何かあったの? もしあれなら、今からそっち向かうけど。ごめん」

『あはっ! お兄さんは心配性だな。急用は急用だけど、何かに巻き込まれたとかではないよ。安心してくれていい』

「ああそう……じゃあ何用?」

『渡す物がある。正門にいるから降りてきてほしいな』

「え、来てんの?」


 そこで途切れた。妹は少々強引な所がある。渡す物があると言われても、結局何の用なのかはわからないし。

 悪巧みは一旦諦めて、カウンターへ戻る。

 あ、まずい。


「返却期限は二週間後ですので。延長の場合は必ず手続きしにきてください。必ず」


 若干棘のある声の三島が積み上げられた本の貸し出し作業をしているのを目の当たりにする。俺がバインダーを持っているため、漢字比率の高い本のタイトルたちは新たな用紙に書き連ねられていた。アナログ作業の面倒くささが見事に詰まっている。

 本を抱えた生徒が出ていってから、一応は愛想笑いをしていた顔が漂白される。怖いタイプの無表情。


「すぐ戻るって言ったのに?」

「申し訳ありませんでした」

「書くのしんどかったから、接客ノルマあと十回分くらい追加ね」

「はい……」


 良い言い訳が思いつかない。縮こまって着席する。


「あ、駄目だ」


 下に妹が来ているんだった。


「駄目って、自分の一連の行動が?」

「違う、いや、それもそうなんだけど。妹が渡す物あるとかって下に来てるらしいんだよ。だから受け取りに行かないと」

「お前こっそり帰るつもりだろ」


 飛躍しすぎだ。しかし、違うと言って信じてもらえるだけの信頼は無い。

 そういえば妹はメッセージを送ったと言ったか。証拠になり得るかと思いメッセージアプリを開くと、そこには一言だけ『のぞみ』と送られてきていた。

 …………証拠かなぁ。

 一応見せてみる。


「……こういうわけなので、本当に妹が来てるんです」

「どういうわけ……」


 これは急いでそちらへ向かっているという兄妹間の隠語だ。因みにただ向かうだけなら『ひかり』、のんびり向かうときは『こだま』とバリエーションがある。口語で使うならば「俺も今起きたとこだからこだまちゃんでいーよ」的な感じである。これは待ち合わせの日に二人揃って寝坊したという状況だ。


「信憑性に乏しい」


 ごもっとも。


「が、現に妹が待ってるんで」

「じゃあ私が行く。その妹が西松の見ている幻じゃなければ私にも見えるはずでしょ」

「はあ?」

「あ、逃げちゃだめだぞ」

「ちょっと、おい!」


 静止を振りほどいて出ていってしまった。

 足音が止むと思考がようやく追いつき、慌てて追いかけようと廊下へ出る。

 と、通りかかった人影とぶつかった。そして俺だけが後ろへ倒れそうになる。


「危ない!」


 咄嗟に伸ばされた手を掴むと、細長い指は少しだけザラついていた。


「ごめんなさいごめんなさい!」

「わたしこそごめんね、平気?」

「……え。ちょ、超平気!」


 ほぼ同じ高さでぶつかる目線。頼もしい肩幅と小顔が互いに引き立て合うようで造形美を感じざるを得ない。丸くぱっちりと開かれた上下まぶたの中に輝く瞳は世間一般よりも少し薄く、瞳孔の控えめな開き方がよくわかる。あとは、動くたびに茶髪の小さなポニーテールが揺れて可愛らしい。まるで子犬のようだ。因みに言うと俺は犬が好き。

 美しい人、彼女こそが早乙女さんである。

 握りしめられた手はすぐに解かれたものの、温もりが残ったままになっている。彼女の手が温かいことを初めて知った。

 掴まれた手を眺めて耽っていると、あろうことか彼女は図書室の中へ入っていった。利用するのなら、原則として図書委員または司書が一人いなければならない。ゆるふわ系の司書は残念ながら留守にしている。

 ということは、二人きり。二人!

 全身のあらゆる場所が感激して喚き出すので、舌を思い切り噛む。全くと言って良い程に意味がなく、熱を帯びたあらゆるのうちの一つが舌になるだけだった。少し前屈みになって早足で早乙女さんの背中を追う。そして、すぐにカウンターに入って彼女と距離を取った。

 ここで距離感を見誤ってはいけないのだ。中学時代のトラウマがクールダウンに一役買う。小さなポニーテールがぴこぴこと揺れるのを遠目に見て悦に浸るくらいが、今の俺のキャパだと思う。

 ガン見していると、彼女は急に振り返ってこちらを見据えるので図らず目が合ってしまった。

 全身の高鳴りが増して強ばる。向こうはとくに気にしない様子で口を開く。


「本ばっかりだねぇ」

「わかる。俺もそれ思った」


 自然に言えているだろうか。自然に言えていなければ、発言の内容も含めてただの馬鹿なのだ。というか、超当たり前なこと言ってる早乙女さんが可愛すぎる。


「いっぱいありすぎて何を手に取るか迷っちゃう」

「あ、俺、俺図書委員!」

「そうじゃん。おすすめ図書とかありますか?」


 歓喜にもはや声も出ず、ひたすら頷くことしかできない。早乙女さんは苦笑いにも近い微笑で「じゃあ教えてよ」とカウンター越しに俺を見つめる。


「喜んで!」


 全身固いままカウンターの外に出て、本棚へ向かう。

 ここで気がつく。勧められる無難な本が全く思いつかないことに。脚が不自然に固まる。


「平気?」

「マジ余裕す」


 中学の頃から新刊が出るたびに買っている小説のシリーズがあるが、異世界ファンタジーハーレムモノという好きな子に勧めるにはアクの強い内容である。

 新しく入ったばかりの人気図書を勧めるにしても、あらすじを問われると詰む。元来読書家ではないのだ。

 読んだことがある中でパッと思い出せる小説は、思春期の男の内情がやや大袈裟に綴られていたり、平気な顔で浮気する男が主人公だったりと、総じて勧めるのが恥ずかしい。そんなこと言ってたら何も勧められないといえばそうなのだけれど、無難があるならばそれが最適で間違いないのだ。

 脳細胞を活性化させて急速に計算する。カチカチ。恥ずかしくない本とは。今の俺にとって恥ずかしくない本とは。カチカチ。全く関係ないが、脳内の計算が電卓で行われているていだと気がついた。カチカチカチ。


「強いて言えば、小説じゃないほうがいいかなぁ」


 パチン!

 最後はなぜかそろばんのイメージで、解が導き出される。

 早乙女さんを引き連れて、その解へ直進。当たり前だが、思った通りの場所にあった。


「はい」

「ハムスターの飼い方……表紙可愛いね。西松君飼ってるの?」

「ああ、うん。飼ってる」


 飼ってない。さっきから取り繕う嘘ばっかりついている。破綻が恐ろしいものの、赤裸々になどなれない己もいて、結局興奮が嘘八百を口走らせる。


「色々知ってるんだ」

「マジ、博士だよ、俺」

「じゃあ、色々聞いちゃおっかなぁ」


 破綻が目の前に来ている。もうなりきるしかない。

 俺はハムスター博士だ! 何でも聞いてくれ!


「三島路って今日当番じゃなかったっけ?」


 何の気無しの鋭い視線が俺に注がれる。ハムスターの話じゃなかったっけ。

 頭が冷えて、全身の力が抜けていく。緊張だけがとれて、愛想笑いをする余裕さえできた。


「ははっ」


 嫌なことに気がつく。

 早乙女さん、俺が好きになる前から三島と仲良かったんだよな。ここへ来たことだって、三島に会うのが用に決まっている。俺については無関心どころか、図書委員の席を取った奴でしかなく。


「三島は、なんか、図書室飛び出してったよ」

「何やってんのあの子」


 呆れ半分で残りは楽しそうに笑うのが苦い。ハムスターでは引き出せなかった表情だから。どこまでも空回りで泣けてくる。

 早乙女さんは三島の不在を知るとハムスターの飼い方を俺に押し付け、小言を言いながら出ていった。残された俺は本を抱えて肩をすくめるしかない。


「あ、ごめんねぇ、うるさくして。ありがとうねー」


 最後に言い残した言葉を、カウンターの内側へ戻りながら何度も反芻する。

 彼女のカジュアルな謝罪はうるさくしたことに対するもの。では、ありがとうは何か。三島の不在を教えたことへの感謝か、或いは。


「ハムスターなら、脈アリかな……」


 苦しめだが、こう思っていないと四肢が散れ散れになってしまいそうなのだ。

 早乙女さんはハムスターを見せてくれてありがとうと言ったんだ。持ってきてしまったハムスター本の表紙を見ると、感謝したくなるだけの可愛さはある。

 もし万一にそうだった場合、俺は本当にハムスター博士にならなければならない。飼っていると言った手前、まずは飼い始めることだ。脊髄反射のごとくハム本をカウンターに置いて『ハムスター 相場』と検索をかける。回線が弱いのか表示に時間がかかり、その間に正気に戻りかけてしまう。

 こんなことをするよりも、教室で早乙女さんに話しかけるなりした方が絶対に効率良い。


「ハムスターは可愛いから飼うんだよ………………!」


 ハムスターは可愛いから飼うんだよ!


「……ハムスター飼うの?」

「うわ!」


 いらぬことを聞かれてしまってから真隣の気配を察知したのでは遅い。完全に意識から外れていた。知らぬ間に戻ってきていた三島が、ランドセルほどの大きさのビニール袋を抱えて着席していた。先程とは質の違う胸の高鳴りと脂汗に不愉快を覚える。


「いつの間に戻ってたの」


 俺が鈍いのも災いしているのだろうが、しかし戻っているなら声をかけてくれればよかったのに。また嫌味でも言われるかと思い身構えると、意外にも「今さっき」と素直な返事が来た。声色は弱々しいし、斜め上を見つめているし、どこか様子がおかしい。


「それ、荷物?」

「うん。これ、妹さんから」


 ろくにこちらも見ないままに抱えていた荷物を手渡され、予想ちょい上の重みに腕が硬直する。ビニール袋越しの丸みと金具の触感から、懐かしさとともに物の正体に気がつく。そう言えば、この間電話したときに返してくれって話をしたっけ。

 小四のとき、志田君の言うとおり俺、1680150000000回回して本当の地球を再現しようとしたんだよな。


「あいつ、どこが急用だよ」

「それ地球儀?」


 三島が珍しく関心を示す。よりにもよって説明がややこしいところに食いついてくれる。


「引っ越しの荷物に俺の地球儀が混ざってたっていうから、返せって言ったら今持ってきた」

「引っ越しって、一緒に暮らしてないの?」

「親が離婚して、れいは母親について行ったから……いや、家庭の事情はどうでもよくて」

「妹さん、礼さんっていうんだ」


 やっぱりおかしい。呆けたかと思えば、妹の名前を出すと前のめりで食いついてきた。まさか、と最悪の状況を想像してしまう。

 断っておくと、妹は母親に似たのか俺が比較対象にもならないほどの美形で、取り分け髪は絹のようになめらかな黒髪である。


「あの制服、確か結構頭良い中学だよね。最初歳上かと思っちゃった」


 そう、俺と違って頭の出来も良い。


「俺の妹にしておくにはもったいない良い子だよ」


 劣等感が自然と口を動かす。あれで性格も良いのだ。今回だって、重たい荷物をわざわざ持ってきてくれたということには変わりなく。

 三島は否定するどころか「まったくだ」と頷いている。これが友人ならオイオイお前とツッコめるが、三島は心から言っているのでいたたまれなくなってきた。突っ伏して、嘘泣きのフリをする。


「えーんえーん」


 鼻の奥が痛い。


「おお、おお、泣かないでおくれよお義兄ちゃん」


 完全に冗談だと思っているのか、おどけた口調とともにばしばし背中を叩かれる。それで涙は引っ込んだが、しかし何か釈然としない。嫌に陽気というか、気安いというか、距離近くない?

 おにいちゃんと言ったか?


「お兄ちゃんって言った?」

「言ったね」

「お義兄ちゃんって言った?」

「言ったよ」


 お前にお義兄さんと呼ばれる筋合い、本当に無いが。三島は頬を染め、口元を指先で隠している。

 うつむき加減の横顔は、これだけ見れば思わずときめいてしまいそうなものだが、しかし前情報があまりにもヘビー。


「妹さん、つまり礼さんと交際を前提としたお友達関係を結んできたの。だから、先んじて義兄と呼ぼうと思い」

「待ってほしい……」

「お前にそう呼ばれる筋合いは無い、的な?」


 それよりもっと前の段階のことである。少し整理する時間がほしい。


「え、因みに礼はなんて」

「快諾してくれたよ」


 何考えてるんだあいつ。こんなあらゆる女にちょっかいをかけているような胡散臭い、それも女を、拒絶しないなんて。確かに容姿は良いの部類に入るのかもしれないが、類稀ではない。

 騙されてるって連絡しないと。


『騙された覚えはないよ。面白い人だから、交際前提のお友達とやらを引き受けた。それだけの話だろう?』


 ばか!


「それ見たことか」

「でもお前色んな女子に手出してるじゃん」


 今日だけでも、本を借りにきた同級生と一緒に家出するとか何とか話していたし、上級生には今度一緒に出かけようと誘っていたし、極めつけにはあの早乙女さんまでもが訪ねてきたというのに。三島は得意げな顔を引っ込めて眉をひそめる。


「あのね、あれはみんな友達だから。交際を前提にしないただの友達」

「信用できない」


 お前が俺のことを信頼していないように。我々はお友達じゃないのだ。

 三島は苦笑いをして「そうねぇ」と首をひねる。子供をあやすみたいな態度が鼻につく。


「気持ちはわかるけどね。証明できる何か……そう、あの子たちはみんな、普通に彼氏作れちゃう人なんだ」

「うん?」

「私がガチで好き好き愛してるって言うと、向こうは冗談のつもりで私もって返してくれる。そりゃ友情的なのはあるんだろうけどね。でも、それとは別の場所で、みんな私に断りもせずに彼氏を作っていくの。で、私と遊ぶことは後回しになっていく」

「それは、まあ」

「当たり前だと思った? そうなの、当たり前なの。だから、あの子たちは当たり前に友達。お前の好きなリンだってそうだよ」


 後半の早口に怒気が混ざった気がする。根拠と言えるほどに明確な輪郭はないものの、僅かな感情が本気を演出している。

 言うことも確かにわかる。同性間の気安い遊びはあまりにも容易に恋愛に取って代わられてしまう。

 俺だって『女子のノリは面白くないから男子だけとつるもう』という中学の友人らとの口約束を破って早乙女さんに夢中なわけで。


「わかった、そこは信じる」

「そりゃ良かったお義兄ちゃん」

「でもさ」


 周りにいる女子は彼氏を作れる人だから友達。とは言うが、俺の妹だって普通に彼氏を作れる人である。小六の頃には彼氏第一号がいたし、特別に女が好きだという雰囲気も感じたことがない。


「あいつ、普通に彼氏いたことあるよ」

「恋多き女性は素敵」

「お前のこと恋愛対象として見られないかもしれないじゃん」

「そのときはそのとき」


 言ってることがころころ変わる奴だ。


「節操ないわけじゃないんだよ。普段は付き合うってなればちゃんと女を好きになれる人か見極めてるし」

「その審美眼が妹のこと同性愛者だって?」

「いいや?」

「何だよお前それなら誰でもいいじゃんかよ」

「いや、ほんと……誰でもいいわけじゃなくってさあ。言う? 言っちゃう? でもなぁ……」


 三島は後頭部をぽりぽりと掻いて徐々に顔全体を赤らめていく。耳まで完全に染まると表情を決めかねたのか、額を割る勢いで机に叩きつけた。「いてぇ〜」何やってんのこいつ。

 何やら葛藤しているらしい三島のつむじを見下ろしながら、廊下の方からの足音を聞く。野球部は引き上げたようで、窓の揺れる音の中で規則的なサンダルの音だけが凛と鳴り響く。

 音からイメージできる足下、胴体、胸、顔、極めつけは小さな茶色のポニーテール。なぜか、誰の足音なのかが察せた。

 そしてそれは、だんだん大きく。

 三島は赤みを増して今にも爆発しそうだ。

 まずいことになる。本能がそう訴えかけた。


「三島路は戻ったぁ?」

「ぶっちゃけると、完全に一目惚れなの! 黒髪……綺麗だし、顔すごいタイプだし」

「あー……」


 二人の声はほぼ重なっていた。

 そしてより声の大きかった三島の方は来訪者に気が付かない。


「あと、ちょっと低めの落ち着いた声も良い。なんかいい匂いもするし。五感で得る情報の全部がこう、良くて。あ、好き……って思ったの」

「三島」

「わかった? 私、割と本気に好きになっちゃったんだよ」

「三島黙れ」


 入り口で早乙女さんが立ち尽くしている。気まずさが決壊したのか、その愛想笑いは筆舌に尽くしがたい。強いて言えば笑いを堪えているようであり、泣き出しそうでもある。

 ゴネながら顔を上げた三島は早乙女さんを見止めるやいなや、わかりやすく苦笑いをした。血液循環が激しいまま、額には脂汗をかいている。


「まじゅい」


 目だけをこちらに向けて助けを求めてくる。俺のほうが助かりたい。目線で意思疎通を図ったせいで、早乙女さんはなにやら重大な誤解をし始める。


「ごめん、告白シーンの邪魔したね」

「はぁ?!」

「リン!」


 引き止める声も虚しく、早乙女さんは自慢の健脚でだかだか走り去っていった。

 風さえもが止んでしまって、廊下は遂に静まり返る。唾液と空気を飲み込む俺の喉だけがぐぅと鳴り、隣でも同じ音がした。

 この場に妹がいないことを恨む。そのせいで、こいつのキツい独白が俺宛みたいな雰囲気になったんだから。


「やばいやばいやばいやばいやばい」

「え、リンめちゃくちゃ誤解してるよね」


 二人してカウンターの中をぐるぐる回る。肩がぶつかって三島が大げさに吹っ飛んだので口先だけで謝罪するが感情がこもるはずもなく。司書室の扉にぶつかってそのまま背中を預けると、俺の全身を舐め回すように見つめてからため息をついた。


「黒髪しか一致してねーし……」

「お前な……てか、電話! 早急に誤解をとけ」

「あ、うん、それがいいね」


 ポケットから取り出すやいなや、開いて耳につけた。おそらくは履歴が上の方にあったのだろう。仲が良いし、よく電話をするのかもしれない。

 ああ、どうしたって羨ましい。自分でかけられたらどんなに良いか。他人に頼らなければコンタクトも取れないのか、と萎れる。

 少し曲がった背筋のままで様子を見るが、電話が繋がる気配がない。痺れを切らして携帯が閉じる。


「あの子チャリ通だから、気づいてないのかも……」

「もうチャリ乗ってんの……」


 彼女がここを飛び出してからまだ3分と経っていない。流石体育会系というか、それ以前の問題でかなりせっかちなのだと彼女の生態をまた一つ知る。ちなみに僕は自分のそっくりさんをキャラメイクするときには『キビキビ』よりも『ゆっくり』寄りに性格を設定するタイプだ。足りないところを補い合えるなんて、最高じゃん! なんて。なんちゃって。


「駄目だよ!」


 叫びといっても過言でない大声が現実逃避を引き裂く。


「……どこが」

「誤解とくのに全部説明したら私が西松の妹に惚れたのがバレる!」


 面倒くさいことを、真剣に言い出した。


「『西松の』って部分が気に入らないんだろ」

「それはマジでどうでもいい。妹って部分が駄目。リンは私が女の子に好きって言うの冗談だと思ってるから。冗談っていう前提で、私のこと信頼してくれてるから」

「あー……じゃあ弟ってことにすれば?」

「嘘で好きな男がいるって言うのは、なんか逃げじゃん」

「面倒くさ! お前面倒くさ!」


 もう遠慮もしていられなくなってきて、自然とフランクになる。三島にだってそれを咎めるだけの余裕がない。

 兎にも角にも言い訳を考えなければならない。一目惚れという言葉を恋愛以外のことに向けられないか。他に目を向ける、と意識して周囲を見渡す。と、すぐ目の前、カウンターの上のハードカバーが目に入る。


「あ」


 俺が思いつきを口走ろうとしたとき、遮ったのは着信音。この懐かしい着メロは、きっと三島の方だ。その手に握られた携帯電話には早乙女さんの名が表示されていた。指に力が込められ、握りしめたまま開かない。


「どうする?」

「一旦出なきゃ余計怪しまれるかも」

「んねー」


 不承不承といった様子で携帯を耳元まで移動させるが、依然通話は開始しない。この期に及んでも渋っているらしい。

 苛立ってきて、俺も大きく出た。


「言い訳思いついたんだ。指示出すから切られないうちに出ろ!」

「お義兄ちゃん……!」


 不愉快すぎるあだ名にツッコみを入れる暇もなく、潔く携帯が開く。三島が他愛ない挨拶をしている間に足元の鞄からノートと筆記用具を引っ張り出し、適当なページに言い訳のあらましを書き記す。速く、簡潔に、とにかくわかればいい!


「違うの。嘘っていうか、リンの早とちりなの。いや、隠してるとかじゃなくって!」


 三島に泣きそうな目線で急かされる。口パクで待てと言うが、俺だって焦っている。ここの出方次第では、俺の玉砕さえあり得るのだ。書き出した作戦を一度読み直し、本当にこんなので良いのかと懐疑的になってきた。

 いや、絶対に書き直した方がいいな。他の案があるとすれば何だ。何!

 極度のストレスで頭を抱えていると、こちらでもまたストレスを感じていたらしい三島にノートを奪われた。

 文字を見て顔を歪めている。当たり前だ、こんな苦しい言い訳。ノートを奪い返して別の言い訳を考えながら、また読み返して鼻で笑う。


一目惚れしたのは俺が飼ってるハムスターにってことにしろ!


「私が一目惚れしたのは西松が飼ってるハムスターでぇ!」

「は?」


 言った。


「顔と声と匂いがタイプっていうのは超可愛い黒毛のハムスターのことなの!」


 なんと、これで押し通そうとしている。そのガッツはぜひ称えたいが、無理があるだろうとも思う。ハムスターの声ってどんなのだろう。


「そう、超羨ましくなっちゃって。うん、そういうこと、わかってくれた? ああ、西松に言っとく。はいはい、地面濡れてるから気をつけなよ」


 なんかいけたっぽい。早乙女さんは疑うということを知らないのだろうか。そういうところも可愛くて好感は持てるのだが。

 ハイカロリーな通話を終えた三島は、通話が切れただけの状態になった携帯を放り出して、背もたれに体当たりをした。


「つかれた」

「成功? だよな」

「そりゃあもう、大成功すよアニキ」

「良かった……」


 俺の名誉は守られた。

 誰かと共謀するなんて何年ぶりだろうか。そしてそれが成功するなんて。無言でサムズアップを交わすと、充足感が胸のあたりで広がる。

 これ、友情かもしれない。


「ああ、リンもハムスター見たいらしいよ。連絡先教えるから写メ送ってやって」


 ほぼ確定で友情だ。


「あ、やっぱ駄目。交換。妹さんの連絡先と交換で」


 友情じゃなかった。


「他人の個人情報で取引ってどうなの。倫理的に」

「その他人の同意があればいいんじゃない?」

「早乙女さんはともかく、妹は同意してない」

「真面目だなぁ……」


 度々いただく真面目という評価が褒め言葉でないことくらい知っている。


「じゃあ、私のアドレス教えるからハムスターの写真送って。リンには私から送る」

「……わかったよ」


 一瞬傾きかけたが、しかし妹を売ってはいよいよクズだ。中学時代の自分を裏切っても、張りぼての嘘をついても、どうしても超えてはいけないラインというものがある。だいたい、連絡先なんて直接聞いてこそ気兼ねなく連絡が取り合えるものだろう。己にも突き刺さった。そうだ、努力しよう。

 俺の端末では赤外線通信が使えないため、面倒な手入力で別段欲しくもないメールアドレスを打ち込む。反面、携帯の画面を掲げるだけの三島は頬杖で退屈そうにしている。


「てか、ハムスター飼ってたんだね」

「これから買いにいく」

「は?」


 アドレスを打ち終えたので、試しに何かを送ってみようか。


「え、飼ってないの?」


 放り出された三島の携帯が通知音を鳴らす。そちらに指をさすと、不服そうに携帯を拾った。


「『飼ってない』……まどろっこしいな。直接言ってよ」

「じゃあ、もう人も来なさそうだし帰ろうかな。ノルマはまた次回で」


 荷物をまとめる半ばでハム飼い本も鞄に入れてしまったため、貸し出し名簿に名前を書いた。どうせ必要になるのだから。

 あとは地球儀をビニール袋に戻す。この薄っぺらいビニールでは重みに耐えられず穴が開くかもしれないので、腕に抱えて立ち上がった。


「ハムスターの写真は夜にでも送る」

「お前意外と行き当たりばったりだな!」


 否定はしない。


「じゃあ、施錠たのんます」


 一方的に言って図書室を脱出した。

 足取りが軽いのは、どうしてか。

 苦い思いはしたものの、早乙女さんの手を握った。連絡先を知るチャンスを得た。あとは三島との友情が芽生えかけた。

 そのどれもに少しずつ起因しているのだろうけど、しかし、それら良い思い出は早足の説明にはならない。何か目的があるからこそ、人は急くのだ。

 つまり、俺はまだ見ぬハムスターとの出会いに心を踊らせているのだった。

 早乙女さんについた嘘を誤魔化す方法に他ならないし、それがなければ飼おうと思うこともなかっただろう。しかし、それ以前に、俺にはハムスターを飼い愛でる使命があったのだと思う。

 本当は、幼い頃からずっと小動物に興味があったのだ。しかし、母親が動物嫌いでとても言い出せなかった。

 両親が別居中の今、チャンスである。なぜ早く気が付かなかったのだろう。


「可愛いから、ハムスターを飼う!」


 こんなに合理的で、素晴らしいことがあるだろうか!

 廊下であることを忘れて走り出した。回し車のハムスターがそうするように、必死で床をかき混ぜる。ハムスターと違って、俺は進んでいる。ハムスターは回し車で足踏みしているから、俺はハムスターに近づいている。それが嬉しい。

 前へ、と意識しすぎたのが良くなかったのかもしれない。廊下のつきあたり、階段前の窓から入った雨はまだ蒸発しきっていなかった。

 水たまりに気が付かず軽快に着地した右つま先が数十センチスケートして、重心が置いてけぼりを食らう。左脚を後ろに引いて安定を図るものの、着地の瞬間に水を散らして華麗に滑る。結果、脚がクロスして窓のある左側に傾いた。

 傾きが増していく中、腕の中のビニール袋をより一層強く抱きしめる。と、中身のつるつるが頭を出した。


「まずい」


 時既に遅し。地球儀は腕から飛び出して、あろうことか窓の外へこぼれ落ちてしまった。

 因みに、ここは三階である。真下には中庭があり、ちょうど木々により遮蔽されていない。何に引っかかることもなく、純粋な三階を自由落下である。

 俺の方は窓サッシに打ち付けられ、落下こそしないが代わりに頭から肩にかけて左側を強打する。

 脳が揺れて、宇宙を見た気がする。へたへたとその場に座り込み、見上げる。


「脳震盪ってこれかも」


 待てど意識は失われない。ただのたんこぶで済みそうなので安堵して頭を撫でる。

 が、待てど痛みが来ない。そもそも、打った瞬間も痛くはなかったのだ。羽毛に頭を埋めるかのように、まるで痛みを感じなかった。窓サッシはアルミ製で、改めて触ってみても当然硬度がある。

 首をひねる。風が吹いて、空のビニール袋を揺らす音だけが響く。


「あ、地球儀」


 慎重に立ち上がって窓の下を見下ろすと、真下にそれは見当たらない。見つけてからが怖いなぁと破損具合を想像しながら下に降りたが、探せど見つからない。

 ひとしきり探してから時間を確認すると、17時を過ぎていた。そのままペットショップの営業時間を検索すると、一番近所で18時までと出た。店頭でハムスターを吟味することも考慮するともう時間はない。

 中庭をもう一度見渡してから無いのを確認すると、このどこかにいるかもしれない地球儀へのせめてもの誠意として頭を45度振り下ろした。


「ごめん! 明日探すから!」


 それだけ言って、その場から逃走した。


 思えば、このときにきちんと確認していれば後の災難は免れたのかもしれない。しかし、その災難と引き換えに最愛のハムスターに出会えたのだと思えば、やむを得まい。

 地球儀を落とした一週間後に、俺はまなハムスターと共に軟禁されていた。

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