兄のいない、二面生活の始まり

17年前、4月2日


4年生になる前の春休みが、もうすぐ終わる日。

ぼくは引っ越しするとお母さんから聞かされた。

「最低限のもの荷物だけ持って、行きましょう」

「お母様?お兄様は一緒じゃないのかしら?」

「あとで話すわ。今は時間が無いの、急ぐわよ!」


ぼくは、お兄ちゃんの姿を1週間前から見ていませんでした。それ故、お兄ちゃんを捨てての引っ越しを理解することが、当時は出来なかった。



新幹線で、お母様とフローラは名古屋駅に着くと、新居の部屋へ向かった。部屋は少し広いが、かなり年季が入っていた。

あらかた荷解きが終わると、お母さんはぼくを抱き締めた。


「お母様、どうしたのかしら?」

「ごめんね、ハナ...」

「どうして、お母様が謝りますの?」

「今まで、あなた達のこと、見れてなかったわ...そのせいで、私は取り返しのつかないことをしてしまった」

「どういう...ことなの?」


フローラは、その意味を理解するには幼すぎました。


「もうお姫様らしくする必要はないわ」

「え?いきなりどうしまして?」

「今までのは、ママのエゴだったの。人形遊びしたかった。それをあなた達に向けてしまったのよ...」

お母さんは、ここに来るまでの雰囲気が嘘だったかのような、辛そうな表情を浮かべていた。


「悲しそうな顔をしないで、お母様...それを見ると、フローラも悲しいですから...」

ぼくは、非力でも出せるだけの力でお母さんを抱きしめ返した。



始業式。

ぼくの新しい学校での生活が始まった。

今までとは違って、ランドセルの色は男の子っぽい色。洋服も。


「転校生の赤崎ハナです、よろしくお願いします」

ぼくはそう言ってみんなにぺこりと頭を下げた。



ハナという男の子らしくない名前から、好奇の目は多少あったし、孤立気味なのも変わらなかった。でも今までの終わらない地獄のような日々はなく、何より安心感が大きかった。



新しい学校での始業式の前、お母さんはこう言っていた。


「ハナ、これからは男の子らしくね。それとお兄ちゃんのことは、外で言っちゃダメよ」

「お兄様のことを...?どうしてなのかしら...?」

「お兄ちゃんは、してはいけないことをしてしまったのよ...それをみんなが知ったら、あなたはきっと嫌われる」

「してはいけないことって、お兄様は何をしましたの?教えて」

「あなたは、まだ9歳だから...きっと受け止められないと思うわ。それに、知ったらあなたも傷つくことになるから」

「フローラが傷つく、ですって?」

「...」

お母さんは黙ったままだった。その顔が言いたいことがあっても言えないほどに辛そうだったことは、今も忘れられない。


「分かりました。今は聞かないことにします。でも、いつか受け止められるようになったら、教えてください。それまで...ずっと待っています」

ハナは、そう言ってこの話は終わらせることにしました。



(お母様は男の子らしくって言ってたけど...それってどういうことかしら?)


「男の子らしく」

この言葉も、フローラは引っかかっていた。

だから、お母さんに聞いてみた。


「男の子らしく...?

ママも考えたことはないけど...


でも、今までのハナの喋り方やお洋服に男の子らしさはないのは、分かるわ。

いくつか本や漫画、ファッション雑誌を買ってくるから、それで一緒に学ぼうね」

お母さんの言葉は優しかった。



「でも、フローラは今まで通りお姫様がいいの!」

「それじゃダメなのよ。きっと今まで通り辛い思いをするから」

「辛い思い、ですって?リボンもスカートもフローラは大好きですわ!そっちを付けられないほうがずっと辛くてよ...」

「そうかもしれないけど...それらを着て、きっとママも想像できないほどの辛い思いをしたはずだわ。あの頃は取り合わなかったけど、髪の毛も乱れて切れていたし、お洋服は汚れていたこともあった。ハナは、嫌にならなかったの?」

「ありましたわよ!何度も!でも綺麗でかわいいものは、嫌いになったことはありませんわ!」

「...」

お母さんは黙っていただけではなく、驚きの表情も浮かべていた。



「お母様...男の子らしさは学んで、外ではそうして振る舞いますわ。でもこのお家の中だけでは、フローラとして過ごさせてもいい?」

「...ダメよ。きっと、どこかで素が出てしまうわ。そうなれば前に逆戻りするし、子供がそんな演技みたいなことをする必要はない」

「お願いします、お母様...かわいいものが好きなのは、フローラの少ない居場所だから、お願い...」

ぼくは懇願した。



「...仕方ないわ。でも勉強、宿題、それから男の子についての学びもしっかりするようにね。

それらが終わったら、1日に1時間まではいいわ」

「たった1時間ですって...?」

「二面生活だから、スイッチのオンオフは切り替えないとね。ママもメイクや着せ替えは手伝うから」


こうして、ぼくの二面生活は始まった。

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