あとしまつ

真花

あとしまつ

 嫌いになった訳じゃなかった。ただ、もっと好きな人が出来てしまった。

 二つの好きを同時に保持するなんてあり得ない。持っている好きのベクトルはひとつじゃなきゃいけない。だから里美さとみに向いている分を根本から断ち切ることにした。決めてからすぐの定期のデートは駅前での待ち合わせから始まった。里美の顔を見る前から俺の中で言うべきことが渦巻いて今にも飛び出そうとしていた。きっとそんな顔をしていたのだろう、里美は俺を見て淀んだ。それでも「よ」「はろ」と言って横並びに歩いて昼食をタイ料理屋に食べに行った。道中は何も喋らなかった。俺から漏れるものを里美は見えない手で振り払い続けていた。タイ料理屋はちょうど個室で、その時点で俺はもう話をしたい内圧でパンパンになっていて、注文を済ませるまで堪えるのが精一杯だった。俺は「あのさ」と里美の目を見て言った。里美は悲しそうな顔をして、「嫌よ」と小さく首を振った。俺の中の圧力が釜のように高まる。「まだ何も言ってない」「嫌なの」「俺の話を聞いてよ」「嫌」里美は子供のように首を振り続けた。

「失礼します」

 ノック、ドアが開いて、生春巻きが二本テーブルの上に置かれた。ぷるんとした皮、フレッシュな野菜とエビ、スパイシーさを想起させるソース、それらを一瞥してからまた里美の目を見た。生春巻きの威力で一瞬止まった里美が再び「嫌、嫌」と首を振った。それが次第に震えを終えるうさぎのように動かなくなった。俺はそこに口径の大き過ぎる銃で撃ち込むみたいに声を発する。「別れてくれ」「嫌」「俺はもう決めたんだ。もう変わらない」「どうして?」「それは言いたくない」里美はそれ以上は訊かなかった。悲しそうな顔がもっと深いブルーに沈んだ。「誠太せいたの二十代前半の、大学生の三年間と、私の三十代の三年間は重みが違うんだよ? それ分かってる?」「分かってる」多分、俺が考える数倍以上の重みの差があるのだろうけど。「分かってるなら、どうして別れるなんて言うの?」「それは言いたくない。だけど、覆らない」里美は泣かなかった。厳かに「そう」と言って、ブルーよりもネイビーに、暗黒に染まっていった。生春巻きが乾いていって、手を付けないまま次のノックでパッタイとガパオがテーブルに並べられた。里美は何も言わずにガパオを食べ始めた。俺はそれを見ていた。ガパオが半分になった。俺は苦いため息を吐きそうになってそれを飲み込んで、パッタイにナンプラーをかけて食べた。二人の咀嚼の音だけが個室の中に響いて、それもいずれ終わった。里美はスプーンを、俺は箸を置く。それを生春巻きは見ていた。乾いた生春巻きはそこに確かにいるのに俺達は生春巻きが俺達の位牌であるかのように手を付けなかった。里美は空になった皿をじっと見ていた。でも本当に里美が見ているものは皿ではないことは明らかだった。そんなとき、いつもだったら里美の肩を抱いて、どうしたの? 俺がいるじゃん、と笑いかけるけど、今はそんなことを絶対にしてはいけない。俺は里美を見て、里美の見る皿を見て、自分の皿を見た。そこには残されたナンプラーが影のようにわだかまっていた。それは俺達の日々を照らした分の影だった。俺は生春巻きを見た。俺達ももう乾き始めているのかも知れない。

 里美が「分かった」と呟いた。俺は「ごめん」と反射的に言った。いつもなら、何で謝るの? とか、意味が分からない、とか鋭くもやさしい言葉がすぐに返って来るのに、里美は無言だった。沈黙に時間で利息が付いて、どんどん重くなる。俺達は沈み込むように動けなくなって、より喋れなくなって、息も苦しくて、でもどうしようもなくて、俺は俺のせいだからいいけど、里美には悪いな、俺は全てを破るつもりで声を出す。「出よう」里美が頷いて、俺達は個室を後にした。

 店を出ると空の高さが沈黙の重みを少し相殺した。里美が「あのさ」と俺の目を睨む。「今日はうちに来て欲しくないし、デートもしたくない。ここで別れて」その言葉には必死の色が乗っていた。何かを守るような。俺は目を伏せてから改めて里美の目を見る。「分かった」俺の声が届くか届かないかの内に里美は歩き出していた。俺は取り残されて一人、タイ料理屋の前に立つ。生春巻きはどうなるのだろうか。


 それから三日後まで俺達は何の連絡も取らなかった。これまで毎日電話をしていたのに、ないならないで落ち着かないと言うこともなかった。大学に行ってみたり、本を読んでみたりして、日常に溶け込んでいた里美の不在の影響が低いことに驚いた。ただ一つ、パチンコには行く気にならなかった。俺達は二人でよくパチンコに行った。隣同士で座って熱いだガセだ言いながら、大体俺が負けて里美が勝って、トータルでとんとんになった。里美と行くパチンコ屋は限られていたのに、それ以外のパチンコ屋も全てが里美の侵食を受けているようで、店の前にすら行かなかった。

 三日経って来たラインは、里美の部屋にあるものを週末に取りに来て欲しい旨だった。俺は、了解、土曜日の十時に行く、とだけ送った。既読は付いたけど返信はなかった。

 土曜日になり、コンビニに寄ってダンボール箱を一つ貰ってそれを手に、里美の部屋に向かった。俺がフったと分かっているのに、敗北感があった。見慣れた商店街を歩く。きっともう二度とここには来ない。馴染みのパチンコ屋の前を通る。ここで打つことももうない。カフェ、パスタ屋、公園、大きな木、ひとつひとつ目に映るものの全てに里美と付けた指紋があって、俺は胸の中で決してさよならと言わないように堪えながら進んだ。それらを見ないようにするには空を見上げるしかなかった。でも空こそ、いつでも里美と共有しているもので、だから目を極力瞑る。瞬きをするように目を開けて、閉じるのを繰り返す。そんな歩き方でも目的地に着いてしまう。部屋のある二階への金属の階段を上りながら、「ああ」と声を漏らした。合鍵は持っていない。俺は目を見開いて、チャイムを鳴らす。

 ドアが開いて、部屋着の里美がまるで普通の顔をして出迎えた。

「どうぞ」

「……お邪魔します」

 こんなやり取りは初めてこの部屋に来たとき以来だった。その日俺達は他人から恋人になるドアを越えた。今はその逆。俺は通り慣れた廊下を里美の後ろを着いて行き、リビングに到着した。開け放たれた窓からは陽光の粒が射して、まるで平和を謳歌しているみたいだった。ふわりとした風がベッドに座った里美の髪を揺らした。俺は床に座ってダンボールを箱にする。

「ガムテープ貸して」

「はい、これ」

 里美はちゃぶ台の上からガムテープを取って俺に渡す。受け取って、箱を完成させる。里美はベッドの上から俺を見ている。テレビはついていない。ラジオも流れていない。二人でよく聴いた音楽も今は止まっている。俺は部屋の中を歩き回って自分のモノを集める。文庫が二冊、洋服が二日分、CD二枚、二人で写っている写真は持って帰らないことにして、後は……お菓子のオマケの小さなフィギュアが二体。それだけだった。他の全ては里美のモノを借りていた。ああ、コンドーム。あれはどちらのモノなのだろう。今日、最後にもう一回するのかな。……しない。してはいけない。俺達はもう別れた後のカップルなんだ。コンドームのことは気付かなかったことにする。

 ダンボールにモノを詰めていく。この部屋は二人の巣だった。からっとした風が誤魔化しきれないくらいに濃密な時間をここで過ごした。街が指紋だらけならここは手のひらの中だ。喧嘩もしたし、仲直りもした。たくさん食べて、飲んで、笑った。泣くこともあった。それよりもいっぱい話した。それらはひとつひとつの記憶ではなく、多重になったひとつのうねりのように俺の中にある。里美は俺を見ている。普通の顔をしている。それが、里美が過去になった証明で、その証明と俺の中の記憶のうねりが触れて、涙が急に溢れて来た。視界が一気にぼやけて、ダンボールの中の衣類の上に沁みを作る。俺は手を止めない。ダンボールにモノを詰め切る。

 里美は何も言わない。

 何も言ってくれない。

 俺が泣いているのに。でも、俺が招いた現実だ。里美は俺に手を差し伸べてはいけない。ぐらりとやさしい心が揺れても、ぐっと堪えなくてはならない。

 俺も、独りで泣かなくてはならない。別に泣かなくてもいいけど、泣いてしまったなら独りだ。俺は梱包を終える。これを持って、ここを出る。それだけだ。出来るよ。

「終わったよ」

「うん。じゃあ、最後に、パチンコ行こう。慰謝料で一万円、誠太の奢りでやる」

 里美の言っていることが頭に入らなくて、入っても理解に時間がかかって、炙り出しのように分かるのに俺の中身がフル回転したためか、涙が止まった。

「パチンコ?」

「そうだよ。私達の最後にはそれが相応しいと思う」

 俺は考えてみた。だけど、脳が痺れてしまっていて、それは考えると言うよりも止まっているだけだった。まあ、いいか。

「分かった」

「じゃあ行こう。着替えるからちょっと待ってて」

 里美がサッと着替えて、俺はダンボール箱を持ったまま二人して部屋を出る。ダンボールを貰ったのとは違うコンビニで箱を送って、いつも二人で通ったパチンコ屋に入る。里美は何も言わないし俺も何も喋らない。大きな音が混じり合って騒音になっている中を歩く。里美が台を決めて、俺が隣に座って、打ち始めた。

 無言で、パチンコの玉が弾かれ続けるのを感じ、演出を眺める。

 当たらないでくれ。

 初めてそう願った。飛ぶ玉の数だけ祈った。

 当たったらこの終わりに水を差されて、何か曲がったことになる気がした。

 強い予告が出てからハズレた。いつもならガッカリするのに今日はホッとした。横を見ると里美は普通の顔でパチンコを打っていた。それは熱中するときや集中したときの顔ではないし、感情を浮かべるのとも違う。凪の顔だった。この一万円が増えることを期待した顔ではなかった。きっと俺と同じことを祈願している。

 これまでならあっという間に感じた一万円の時間が、今は長い。まるで永遠にパチンコをしなくてはならない刑に処されているみたいだ。それでも度数は少しずつ減って、当たってはいけない図柄達が無為に回り続ける。

「終わっちゃった」

 里美がぽつりと言った。俺の方も当たらずに終わった。

「俺も」

「行こっか」

「そうだね」

 俺達はパチンコ屋の外に出た。自動ドアが閉まるときに中の音を閉じ込めて急に外の気配が強くなった。俺達は決して触れずに、ほんのわずかな間だけ目を合わせた。揺れて離れた視線を俺はもう一度里美に向ける。

「これで、終わり、だよね」

「そうね」

「じゃあ、さよなら」

「さよなら」

 里美は動こうとしなかった。俺は歩き出す。もう振り返らない。パチンコ屋から駅までにある指紋をせめて、拭き取りながら進む。


(了)

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