第4話

 八月中旬を過ぎた頃、佑は部活動を引退した。野球部のピッチャーで部長だった。県大会でベスト4入りしたが、惜しくも上の大会には出られなかった。

最後の試合が終わった日、佑から久しぶりにLINEが届いた。

《県大会突破を逃して悔しい。でもチームで力を尽くしたから悔いはないよ》

《ベスト4おめでとう。上の大会に行けなくて残念》

《ずっと応援してくれてありがとう》

《佑君は後輩の憧れの的だよ》

《ありがとう。ところで図書館行った時の約束、覚えてる?》

 野球で忙しかった佑が私との小さな約束を覚えていてくれた。胸の奥で、何かが小さく動き始めた。

《覚えてる》

《うのちゃん、行きたい所ある?》


 図書館で約束をしてからずっと、私は佑と一緒に行きたいところを探していた。小さな約束を、佑が覚えていてくれることを願いながら......。

 携帯で行き先をチェックしていると、小さい頃に家族で一度だけ出掛けたことのある深海水族館が閉館になってしまうということを知り、行ってみたくなった。この水族館は、深海の海を再現したような大きなトンネル型の水槽があり、美しい珍しい魚が泳いでいた。幼心に、竜宮城とはこんな所なのではないかと思ったことを覚えている。  


 最近はトンネルの水槽に、イルミネーションのような光が照射されて、幻想的な雰囲気をさらにアップしているらしい。そしてカワウソの餌やり体験は、イルカショーよりも大好きなコーナーだった。

《佑君と行きたい所は深海水族館。秋に閉館するんだって》

《そうなの? 小さい頃に連れて行ってもらったことがある。懐かしいな》

《でしょ?》

《じゃあ行き先は決まり。日時は?》

 

 佑とのLINEのやり取りで、私が行きたかった深海水族館に行き先が決定した。幼い頃の唯一の楽しい思い出が残る深海水族館を、閉館前に佑と一緒に訪ねる。それは、特別に大切なことのように思えた。

 

 突然に決まったその特別な日は、二日後だ。祖母はデイサービスへ出掛け、夕暮れまで戻らない。稑も水泳大会で、早朝から出掛けていく。偶然が重なって生まれた一日は、ひとつだけ許された小さな自由のように思えた。誰にも言えない秘密だった。 稑に話せば、母に伝わる。冷たい言葉で、心を傷つけられたくなかった。だから、今回は、胸の奥に小さな秘密をそっとしまった。


 二日後の朝、祖母を送り出した後、普段と変わらない服を選び、弟の稑に私の歓びを気付かれないようにした。それでも、心だけは、抑えようのない高鳴りに満ちて、つい笑顔になってしまう。だから出掛けるまで、できるだけ稑に会わないように自分の部屋で過ごした。稑の元気のいい「行って来ます」と、玄関を閉める音が聞こえた。その瞬間、私は中学生らしい「自由」を手にしたのだ。


 佑と私は小学校の近くの電車の駅で待ち合わせをした。一両編成の電車は、まるでバスのように見える。のどかな光景は、昔行った遠足を思い出す。

 約束の時刻よりも少し早めに到着すると、佑の方が先に来ていた。

「うのちゃん、ほら、小学校の校舎が見えるよ」

 小学校の校舎が夏の光に包まれて見える。

「懐かしいね」

「また今度、二人で寄ってみよう」

「そうだね」

 小学生の頃の佑との思い出が、スナップ写真のように鮮やかに浮かんだ。


 無人駅の発券機で切符を買うとホームに移動した。ほどなく到着した電車は、乗客がまばらだった。佑は私の隣に座った。肩が触れるほどの距離で、私の鼓動は高鳴った。佑の顔を見ることができなかった。ドキドキを悟られたくなくて、気付いたらずっと喋っていた。


「ねえ、佑が私の身長を追い越したのはいつだった?」

「それはね、はっきり覚えてるよ。小学五年生の夏休み明けだった」

「なんでそんなこと、はっきり覚えているの?」

 初めて聞く話に、息を飲んだ。

「小さい頃はさ、うのちゃんに助けてもらってばかりだったから、早く身長を追い抜いて、頼られたいって思ってた」

 

 意外な答えに一瞬、言葉を失った。今では野球部のピッチャーで部長まで務めて、誰からも頼りにされている佑がそんなふうに思っていたなんて。

「そうだったの?」

「うん。だから、小学五年生の夏休み明けの体格測定でうのちゃんの身長を抜かした時は、思わずガッツポーズしちゃったんだよね。そしたら、うのちゃんが不思議そうに僕を見たんだよ」

「へえー。そんなことあったんだ」


 私が覚えていないことも佑は覚えている。それがちょっぴり嬉しくて、ほんとは泣きそうなくらいうれしくて、微笑みたくなる。

「なんか、うれしそうだね」

「そっかな?」

 照れ臭ささを、素っ気なさで隠す。深海水族館の最寄り駅まで、佑と私は懐かしい話が尽きなかった。同じ思い出が、別々の思いで重なっていたことを知る。


 私達は、幼馴染みという関係性でそれ以上でもそれ以下でもない。告白したこともなければ、付き合っているわけでもない。ただ、お互いに大切な人だと感じ取っている。特別な関係に一歩進みたい気持ちはある。

 でも、それと同じくらいこのままでいたい気持ちがある。告白をしたら、「いつか必ず別れる日が来る」と、お互いに知っているのだろう。


 それが怖くて、特別な関係になるよりも、今の自然な関係性を続けているのかもしれない。私にとって佑は、なくしたくない大切な人で、一緒にいるのが自然な相手。だから、つきあったり、別れたりしたくない。同じ距離感でいたいのだ。

 もしも喧嘩をして、どちらかが距離を取りたいと思うことがあったとしても、それは一時的なもので、またいつか一緒にいられる日が来ると信じることができる。そういう間柄なのだ。端から見たら、付き合っているようにしか見えないらしいけれど……。


「次は、深海水族館前」 

 車内のアナウンスが流れた。電車が停止すると、佑は私の手をしっかりと握って歩き出した。

「行こう!」

 弾むような声だ。佑がはりきっていると、私までわくわくしてくる。入場料は佑が出してくれた。遠慮しようとしたら、満面の笑みで「払わせて」と言われた。電車の中で、佑が「頼られたい」と言っていたことを思い出す。入場料のお礼に、こっそりおみやげを買ってサプライズしてみよう。

 

 溢れそうな幸せに気付く。祖母のことも、母のことも忘れて、中学三年生の夏を生きていた。佑の顔が眩しくて、まっすぐに見ることができなかった。

 


 入場ゲートを入ったすぐの所には、深海の海を模した巨大水槽のトンネルが待っていた。ぐるりと深海魚に囲まれたトンネルを、群青色の光が照らしている。そのイルミネーションの中に、紅色のカサゴの群れが泳いでいる。エビスダイは深海魚の中でひときわ鮮やかな、紅緋色を放っている。命そのものが放つ色はなんて美しいのだろう。心が震えた。佑も深海魚の美しさに見入っている。


 目を凝らすと、岩場や海底にはウニや、ヒトデの姿も見える。ヒトデは四方に腕を伸ばしゆっくりと動いている。

「ねえ、ねえ佑くん。あそこの岩場のヒトデ見て」

「うわっ! ヒトデがジャンプした」

 私たちは歓声を上げた。


 捕食しようとジャンプしてひっくり返ったヒトデは、今度はゆっくり、ゆっくりとブリッジをして元に戻ろうとする。珍しい海の生き物を眺めながら進んで行くと、水色よりもっと深く青く天色にキラキラ光る場所に辿りついた。そこは深海のプラネタリウムになっていて水深の深い海に潜む発光能力をもったヒカリキンメダイが乱舞している。幻想的な空間が、佑と私を照らしていた。

「ここはまるで竜宮城みたいね、佑君」

「とてもきれいだね。自分で発光している魚が、深海にはいるんだ。太陽の光が届かない海の底にね」

 

 太陽の光が届かない深い深い海の底で、小さな魚だけれども自ら光を発して泳いでいる。しかも、のびやかに気持ち良さそうに泳いでいる。

「美しい」

 私は思わずつぶやいた。外からの光が届かないほど海の奥深くにいて、自ら光ろうとしている。なんと健気なのだろう。私は、ヒカリキンメダイがとても愛しく思えてきた。


 今の私は、人生の奥深くに沈んでいる。そして沈んだまま光を失いかけている。光を失いかけている私を照らそうとしている大切な人もいて、それでも私はまだ、自らの光を発することを忘れてしまっている。私は隣にいる佑の手をそっと握った。あたたかく、広い掌は私の手を優しく包み返してくれる。右手から伝わってくる佑のあたたかさは、彼の優しさそのものだ。

「うのちゃんに何かあったら、僕が守ってあげる」

 ヒカリキンメダイの優しい発光に包まれながら、佑はそう言った。


 繋いだ手と言葉から、私は佑の気持ちを受け取ることができた。恋人という区分にならなくても佑は私のことを大切に思ってくれている。

「ねえ、佑くん耳を貸して」

 そう言うと、佑は背をかがめて私の方へ耳を寄せた。私は佑の耳元で

「ありがとう」

とささやいて、頬にそっとキスをした。佑の頬はあたたかくて、やさしかった。

「うのちゃん」

 驚いて私の名を呼んだ。佑の顔は、これまで見たことがないくらいに朱色に染まっていた。初めてのキスだった。


 ひと通り館内を見ると、今度は野外でカワウソに餌をあげる体験をした。カワウソはとてもかわいい目をしていた。透明な窓の穴から小さな手を懸命に伸ばして、私の掌から餌をもらおうとする。肉球の柔らかさにも、心を奪われた。私はカワウソと一緒に写真を撮ってもらった。

「うのちゃん、僕と一緒に写真撮る時よりも笑顔だね」

 佑は笑いながらそう言った。

「ばれた?」 

 私はいたずらっぽく笑って見せた。 


 昼時となり、屋外のバーガーショップでチーズバーガーを食べていたら佑が真面目な顔をして予想外の提案をしてきた。

「うのちゃん、僕と一緒にK高校を目指してみようよ」 

K高校とは、この地区で一番の進学高校だ。私も、以前の成績であれば狙うことのできる高校だったが、祖母の介護が始まって以来、欠席も増え、授業に身が入らず自信はない。

「佑君は余裕だと思うけど私は……」

 

 それ以上答えることができずに黙り込んだ。

「僕がうのちゃんの家庭教師役になるから」

 佑の目は真剣だった。果たして私に勉強を教えてもらう時間はあるだろうか? 祖母が昼寝をする時間帯、デイサービスで祖母が家を留守にしている時間なら大丈夫かもしれない。......それから稑をもう少し頼ってみよう。具体的なイメージが次々に浮かんできて、私は希望を込めて「うん」と短く答えた。


 約束をしたからには、本気で勉強と向き合ってみよう。介護の大変さで根を上げている場合ではない。佑が自分の時間を割いて教えてくれるのだから。今日、家に帰ったら、早速、夏休みの課題問題集の復習をしてみよう。

 思い掛けず前向きな思考をしている自分に気付いた。佑ってすごい。私のやる気スイッチを押してくれた。


 帰りの電車は二人共疲れて眠ってしまった。肩を寄せ合いながら電車に揺られるのは、言葉を交わさなくとも、とても心地良かった。残りの夏休み一週間、自分のために時間を作ろう。しばらくさぼっていた勉強に力を入れる決意をした。うとうとと佑の肩に頭を預けながら、中学生らしい夏の日を忘れたくないと願った。



 ところが翌日、現実は容赦なく新たな課題を突きつけた。祖母がぐったりと横たわっていたのだ。返事のない祖母の部屋のドアを開けると、むわっとした空気が漂った。冷房を嫌がり、いつの間にか自分でスイッチを切ってしまったようだ。

 祖母自身も、水分補給には気を付けていた。だが、気付いた時には、唇は乾き、呼吸は浅くなり、意識が遠のいていた。震える指で携帯を掴み、救急車の番号を押した。病院に付き添うバッグに、勉強道具を入れることだけは忘れなかった。



 救急治療室に到着すると、電解質輸液の点滴が始まった。脱水症状を緩和する目的がある。祖母は軽い意識障害も見られたため、三日ほどの入院となった。母には、LINEで祖母が入院となった経緯を説明すると、心ない返信が返ってきた。


 薄暗い待合室で、処置を待つ間、祖母の容態が気掛かりで、胸の奥をしめつけられるような不安が心を覆っていた。持参した勉強道具を開いてみたけれど、文字はすり抜けていくばかりで頭に入ってこなかった。

 不安を鎮めたくて、佑とお揃いで買った深海水族館のヒトデのキーホルダーをそっと握りしめた。アクアブルーの光が、掌の中でかすかに瞬いた。あの日見た深海魚の優しい発光のように、私の心をそっと照らしていた。



 このキーホルダーをお揃いで買ったことは佑にはまだ内緒にしている。今度会った時に渡すサプライズを思うと、ほんの少し気持ちが和らいだ。けれど、心の片隅には、祖母の入院の影が、夏の夕立前の鼠色の雨雲のように重くのしかかっていた。































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