第16話 彼の未練と儚い夢
「でも…」と彼が自分の言葉に引っ掛って止まった。
「何?」
「僕、あの頃、ミルクに子供が出来てたら、ミルクと結婚しょうと思ってたんだ」
彼の予測もしない言葉に驚いて、私は言葉が出て来なくなった。
そう云う言葉は、女の私にとってやっぱり嬉しかった。
でも、一瞬に、彼への想いが冷めていくように感じた。
どんな思いで彼がそれを口にしたのかは分らない。
でも、卑怯だと思った。
「えっ?私に子供、私は子供なんて要らないよ。あなただって私が私自身をもコン
トロール出来ないの知ってるくせに、私に子供が育てられる訳ないじゃない」
「・・・・・・・・」
「子供は好きだけど、自分の子供って、責任があるのよ、私のコトよく解ってる筈なのに、そんなコトあなたが言うのおかしいよ」
「…ウン分ってる。でも、僕、今、一緒に居る奴の子供より…ミルクの子供だったら欲しいと…もし、あの時、子供でも出来れば…何とかって、思ってたんだ」
「バカな、あなたらしくないよ」
「・・・・・」
「あの時、子供が出来ていて、仕方なしに結婚していたとしたら、今ごろ、こうして会ってないわ、とっくにお互いメチャメチャに疲れて、傷ついて…」
「・・・・・・」
「解ってたでしょう、あの頃だって、私にそんな事があったって、子供は産ま
ないし、あなたと結婚しないって…」私は少し、いつもになく感情的になってし
まっていた。
「…ウン、僕も若かったんだ」と、私の強い言葉に圧倒されたのか、小さくなっ
た。
「それで、あなたは…」私はすぐに素直に言葉が出なかった。
ちょっと引っ掛かってから「…まだ二人?」と訊いた。
彼は、すぐには私の質問が分らなかったようで、ちょっと間が空いた。
私は勢いで「子供は?」と訊いた。
「居ないよ」と言った。
「そう、私も、勿論居ないけど」と彼が質問する前に言った。
彼の顔が一瞬明るくなって私をまっすぐ見た。
「そうか、よかった。僕…」彼は言葉をフェイドアウトさせた。
「私は、これからも作る気持ちはないわ、でも、あなたの所は、一緒に居る人欲し
いんじゃない?」
「ウン」
「だけど出来ないの?」
「・・・・・・・・・」
「可哀相に…」と、言いながら何故か私は、ほっと救われたような気持ちになっ
て、心がフッと軽くなっていた。
私は、それだけでよかったのに、彼は言葉を続けた。
「…いや、そう云う事…余り…」彼は口ごもってしまった。
「嘘は、止めて、結婚したんでしょ、いいじゃない、私とは関係ないもの…」
「ミルクは、いつもそう云う言い方をする。でも、僕は…やっぱり…気になるよ」
「何が?」
「ミルクが…他の、男と…やっぱり、辛いよ…」彼は言葉をポツリ、ポツリと
落していく。私は、彼にはっきり言わせようと、黙って次の言葉を待つ。
子供のコトを言い出した彼への反発の思いで…長い沈黙が続く。
「何?」と、私がそっと、言葉を急がせる。
「あ~、やっぱり他の男とベットは共にして欲しくない」と、心の中の引っ掛りを
投げ出すように言葉を吐いた。
「そんなの、勝手よ」私は強い言葉で彼に返した。
「分ってる。勝手なのは分ってる。あ~、僕は勝手だよ、だけど、そう思うんだ、仕方ないんだ、あぁ、男は勝手だよ」と彼は自分に言い聞かせるように言う。
「本当よ」と、吐き捨てるように私。
彼は自分の言葉に自己嫌悪に陥ったかのように、辛そうにうつ向いたまま。
私は彼の勝手な思いに腹立たしさを感じながらも、じっとうつ向いたままの彼を見
つめていた。
彼にも、弱い部分があったんだと改めて感じていた。
「だけど、一緒に暮せない、暮したくもない、あなたとは、日常の事は話したくな
い。あなたも、そうでしょう?」
「ウン、そうなんだ」
「本当に、一体、私達って何なんだろうねぇ?」
「いつも、昔からミルクはそう言ってたね…何なんだろう?て…」
しばらく二人とも黙ってしまう。
「でも、逢えて嬉しいし、こうしている時が楽しい……そして…こうしてお酒飲ん
で話しているより……ベットの中にいる方がもっと嬉しい…」と彼。
「もう、駄目よ。胸もペッチャンコになっちゃったし、がっかりするよ。それは昔
のままじゃないよ」
「・・・・・・・」
「でも、ジャマイカに行こう」
「私達が、お互い一人になる時って…もう、年よ。健康でお互いが年を取ったとし
たら、私は先に一人になるわよ…順当に行けば、でも、あなたは…」
「・・・・・・・」彼は、とっても辛そうに黙ってしまった。
「まぁ、いいよ、二人が生きてたらの事ね。私の希望を言わせてもらうとジャマイ
カより、もう、少し気候のいい所がいいなぁ、考えといて…例えばオーストラリア
のパースあたりなんてのは?」と、明るく言った。
「うん、いいね。そう、そうして、すべての日常から離れて、のんびり暮す、ただ
二人で」
彼はとうとうと、夢を話し続け、リズミカルな会話のテンポが戻って来た。
でも、その透き間で私は現実と戦っていた。帰る時間のことが一番大きな問題
だったが、私は、彼が言ってくれているような生活が出来るまでに死んでしまう
ような気がしていた。
私の母は、39歳で死んだ。私はそれ以上生きれるとは思っていない。
酒にタバコ、不摂生、それにこうして、夫が居ながら、昔の恋人に逢っている。
神様のバチがあたって、明日にでも死んじゃうかもしれない。
「私、そんなに長生きしないと思うから…」
私は、急に話を現実に引き戻してしまった。
早く、帰らないといけないと云う常識的な考えが私の脳裏を支配し始めていたか
らだ。
もう、彼との時間は限界に来ていた。
「ねぇ、今までは…お互い、居場所は何らかの形で分るようになってたけど…、死
んだ時は、分るようにしといてね」
「ウン」と彼。
「私も、一緒に居る人に、何かあったら連絡出来るようにしておくから、あなたも
ね。今、一緒に居る人に…どうにかして…」
「分った」
強引に私が、夢の空間の時間を切り裂いたようになってしまった。
「もう、行かなきゃ」と私。
「・・・・・・」彼は、夢から現実に戻るため、必死に戦っているかのように固く
黙っていた。
私は、彼の心の整理が済むのをじっと待った。
「僕、その頃、車椅子だったりして…」と、ポツリと言い始めた。
私は、戸惑って苦笑した。
「いいじゃない、プールサイドを押して、お散歩してあげるわ、あぁー、ビーチに
出て夕陽も見に行きましょう…でも、砂浜を車椅子押すのって力要るでしょうね、私
の方こそ大丈夫かな?」
彼は、私の話にちょっと笑った。そして私の肩をポンと叩いて、
「じゃ、行こうか」と言って、椅子から降りた。
「本当にお互いよく飲んだわね」と言いながら私も椅子から降りた。
彼は、キャッシャーに向って歩き始めていた。
その後ろ姿は、昔とまったく変わらないスリムな青年のような爽やかさがあった。
私は、そんな彼を眩しく目で追いながらクロークのコートを取に行った。
二人とも、まったく酔っぱらっていない。
昔からそうだった、彼とは余程の事がない限り、いくら飲んでもベロンベロンに酔
っぱらうと云う事がなかった。
彼と別れてから、お酒を飲む機会がある毎に思っていた。
コップ一杯のビールを飲んでも、吐き気を覚える時もあった。
『どうしてこんなにお酒が弱くなったのだろう?』と、思う度、彼と飲んでいた時
の事を思い出していた。
『きっと、私にとって、あんなに楽しいお酒はなかったのだろう』と…
そんな事を思いながら、コートを着て、彼を待つため出口に向った。
二人で 外の舗道に出た。
私は、あっさりと「じゃぁ、又、いつか?」と手を挙げると、急に彼が、私を引き
寄せ、抱き締めた。
「駄目!」私は、少しきつい口調で彼を押し返した。
彼は、あっさり「駄目か…」と言って腕を解いた。
私は、さっと、自転車の方に歩いて行き、カギを開けた。
「じゃぁ」と言って、ハンドルを持って、手を挙げた。
彼は、はみ噛んだような仕草をして手を挙げた。
私は、そのまま、振り返る事無く、耕二さんが待つ家に向かった。
家に向かうため、なにわ筋を渡る頃には、今まであった彼との時間と空間は、
夢の中の出来事のように薄れていた。
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