王衣石の囁き
スター☆にゅう・いっち
第1話
塚本大賢は、日本古代文明研究の第一人者として知られる学者だった。
五十を過ぎても少年のような眼差しを失わず、研究室には古地図や拓本、そして彼が各地で収集してきた土器や古文書が積み上がっている。
彼がいま熱心に調べていたのは、T県にある尖山(とがりやま)に伝わる伝説だった。
そこには「王衣石(おうえいし)」と呼ばれる巨石があり、古文書にはこう記されていた。
――その石の前に立ち、呪を唱える者は永遠の命を得る。
古代における「永遠」とは何を意味するのか。宗教的比喩か、あるいは祭祀に伴う言い伝えか。塚本は学術的な関心から現地調査を続けてきた。
その日、晩秋の冷たい風が山を吹き抜ける中、塚本はついに王衣石の前に立った。
高さ五メートルはあろうかという石が二つ、鳥居のように並んでいる。石肌は黒ずみ、ところどころ苔が張りつき、周囲には不自然な静寂が満ちていた。
彼は震える手で古文書を広げ、そこに記された呪文を読み上げる。
「……クシロ、ミトラ、オホト……」
最後の一節を唱え終えた瞬間、視界が激しく揺れた。
山の紅葉も、空の群青も、音も、すべてが闇に溶けていく。
次に感じたのは、冷たい石の感触だった。
――身体が動かない。声も出ない。
肉体は山の中に崩れ落ち、意識だけが巨石の奥深くへと吸い込まれ、そこに閉じ込められてしまったのだ。
塚本は叫んだ。しかし声は届かない。
どれほどの時が過ぎたのか。季節の移ろいすら感じられぬ虚無の中で、ただ永遠に囚われているかのようだった。
◆
やがて、外の世界で偶然通りかかった猟師が、山中で倒れている塚本の身体を見つけた。
呼吸は浅く、意識はない。すぐに病院へ運び込まれたものの、彼は昏睡状態に陥ることとなる。
医師は原因不明の症例と首をかしげ、看護師たちは「奇跡でも起きなければ目を覚まさないのでは」と噂した。
しかしその頃、塚本の意識はなお石の底に縛りつけられていた。
◆
ある日。
王衣石の前に、一人の若い登山者が姿を現した。
茶色に染めた髪。軽い格好にリュックを背負い、いかにも軽薄そうな風貌をしている。
だが、その瞳は真剣であり、石に宿る何かを確かに見抜いているように思えた。
若者は静かに呟いた。
「とんでもないところに閉じ込められましたね」
その言葉が塚本の心に響いた。
自分の存在を、誰かが認識してくれた――。
若者は石に掌を当て、低く真言のような響きを紡いだ。
「ナモ・サマンダ・バザラ……」
パン、と乾いた音が響いた。
同時に石の中の闇が砕け散り、塚本の意識は光に包まれた。
◆
――目を覚ましたとき、そこは病院のベッドの上だった。
白い天井。腕につながれた点滴。かけつけた看護師の驚きの声。
「先生! 三か月ぶりに目を開けられました!」
塚本は呆然としながらも、深い安堵に胸を震わせた。
生きている。戻ってこられたのだ。
◆
退院後、彼はまず自分を救ってくれた猟師に礼を述べ、病院関係者にも感謝を伝えた。
だが――あの茶髪の若者だけは、いくら探しても見つからなかった。
地元の登山者会に尋ねても、近隣の大学サークルを当たっても、該当する人物は誰もいなかった。
本当に実在したのか。それとも自分が見た幻覚だったのか。
塚本は夜毎に夢を見た。闇に沈む石と、そこに差し伸べられた若者の手。
◆
ある日、研究帰りに立ち寄った街道沿いのコンビニ。
店内には明るい蛍光灯と、日常の喧噪が広がっていた。
「いらっしゃいませー」
レジから響いた声に、塚本は何気なく顔を上げた。
次の瞬間、息を呑んだ。
レジに立つ店員――あの茶髪の若者が、穏やかな笑顔でこちらを見つめていたのだ。
塚本の手が震える。言葉が喉に詰まる。
若者は何も言わず、ただ微笑んでいた。
まるで「ここにいますよ」と告げるように。
その笑顔は、山の闇を切り裂いた光そのものだった。
王衣石の囁き スター☆にゅう・いっち @star_new_icchi
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