王衣石の囁き

スター☆にゅう・いっち

第1話

塚本大賢は、日本古代文明研究の第一人者として知られる学者だった。

五十を過ぎても少年のような眼差しを失わず、研究室には古地図や拓本、そして彼が各地で収集してきた土器や古文書が積み上がっている。


彼がいま熱心に調べていたのは、T県にある尖山(とがりやま)に伝わる伝説だった。

そこには「王衣石(おうえいし)」と呼ばれる巨石があり、古文書にはこう記されていた。


――その石の前に立ち、呪を唱える者は永遠の命を得る。


古代における「永遠」とは何を意味するのか。宗教的比喩か、あるいは祭祀に伴う言い伝えか。塚本は学術的な関心から現地調査を続けてきた。


その日、晩秋の冷たい風が山を吹き抜ける中、塚本はついに王衣石の前に立った。

高さ五メートルはあろうかという石が二つ、鳥居のように並んでいる。石肌は黒ずみ、ところどころ苔が張りつき、周囲には不自然な静寂が満ちていた。


彼は震える手で古文書を広げ、そこに記された呪文を読み上げる。


「……クシロ、ミトラ、オホト……」


最後の一節を唱え終えた瞬間、視界が激しく揺れた。

山の紅葉も、空の群青も、音も、すべてが闇に溶けていく。


次に感じたのは、冷たい石の感触だった。

――身体が動かない。声も出ない。

肉体は山の中に崩れ落ち、意識だけが巨石の奥深くへと吸い込まれ、そこに閉じ込められてしまったのだ。


塚本は叫んだ。しかし声は届かない。

どれほどの時が過ぎたのか。季節の移ろいすら感じられぬ虚無の中で、ただ永遠に囚われているかのようだった。



やがて、外の世界で偶然通りかかった猟師が、山中で倒れている塚本の身体を見つけた。

呼吸は浅く、意識はない。すぐに病院へ運び込まれたものの、彼は昏睡状態に陥ることとなる。


医師は原因不明の症例と首をかしげ、看護師たちは「奇跡でも起きなければ目を覚まさないのでは」と噂した。


しかしその頃、塚本の意識はなお石の底に縛りつけられていた。



ある日。

王衣石の前に、一人の若い登山者が姿を現した。


茶色に染めた髪。軽い格好にリュックを背負い、いかにも軽薄そうな風貌をしている。

だが、その瞳は真剣であり、石に宿る何かを確かに見抜いているように思えた。


若者は静かに呟いた。

「とんでもないところに閉じ込められましたね」


その言葉が塚本の心に響いた。

自分の存在を、誰かが認識してくれた――。


若者は石に掌を当て、低く真言のような響きを紡いだ。

「ナモ・サマンダ・バザラ……」


パン、と乾いた音が響いた。

同時に石の中の闇が砕け散り、塚本の意識は光に包まれた。



――目を覚ましたとき、そこは病院のベッドの上だった。

白い天井。腕につながれた点滴。かけつけた看護師の驚きの声。


「先生! 三か月ぶりに目を開けられました!」


塚本は呆然としながらも、深い安堵に胸を震わせた。

生きている。戻ってこられたのだ。



退院後、彼はまず自分を救ってくれた猟師に礼を述べ、病院関係者にも感謝を伝えた。

だが――あの茶髪の若者だけは、いくら探しても見つからなかった。

地元の登山者会に尋ねても、近隣の大学サークルを当たっても、該当する人物は誰もいなかった。


本当に実在したのか。それとも自分が見た幻覚だったのか。

塚本は夜毎に夢を見た。闇に沈む石と、そこに差し伸べられた若者の手。



ある日、研究帰りに立ち寄った街道沿いのコンビニ。

店内には明るい蛍光灯と、日常の喧噪が広がっていた。


「いらっしゃいませー」


レジから響いた声に、塚本は何気なく顔を上げた。

次の瞬間、息を呑んだ。


レジに立つ店員――あの茶髪の若者が、穏やかな笑顔でこちらを見つめていたのだ。


塚本の手が震える。言葉が喉に詰まる。


若者は何も言わず、ただ微笑んでいた。

まるで「ここにいますよ」と告げるように。


その笑顔は、山の闇を切り裂いた光そのものだった。

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王衣石の囁き スター☆にゅう・いっち @star_new_icchi

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