書痴魔導師の長く短い夜

日暮奈津子

書痴魔導師(しょちまどうし)の長く短い夜

 帝室魔導学師院・名誉顧問の勤めを終えて、彼女は帰路についた。

 六百歳を越えてなお若く美しく、生まれながらに魔導の才にけた長命種エルフの彼女であったが、それがかえって常人族ヒューマン大勢たいせいを占めるこの国では憧れよりも近寄りがたい存在として扱われることが多かった。

 だが、その孤独こそが彼女には心地よい。

 本来であれば、帝室お抱えの大魔導師として宮殿内に住居を与えられてしかるべきであったが、彼女はそれを丁重に辞退し、代わりにさほど高級でもないが貧民街からも充分に離れた商業地の小さな一軒家に住んでいた。


……なぜなら、そこが彼女の行きつけの大規模書店から最も近い住宅だったからである。

 

 書店のドアを開けて中へ入ると、いつも彼女は真っ直ぐに買い物カゴ置き場へと向かう。

 買い物カゴが書店にあるなどとはご存知ない向きもおありかもしないが、帝都有数の大規模書店マールゼン書房には、普通にある。

 プラスチックの買い物カゴを左肘に引っ掛けて売り場に立つ彼女の姿は一見、スーパーで夕食の材料を買い求める主婦のようでもあった。

 だが、その足早あしばやな歩みと隙のない目配りは、どこに本日発売の新刊が面陳され、どことどこに自分好みの作者の既刊を揃えた出版社の棚があるのかを完璧に把握した者以外の何でもなかった。

 お目当ての本がある売り場を巡ってカゴに入れつつも、それ以外の棚もじっくりと眺める。

 棚差しされて背表紙のタイトルと作者名しか見えない本でも、どこか何故か惹かれるものを感じて手に取り、裏表紙カバーに書かれた煽り文句や本文の文体を確かめて、「これだ」と思ったものも買い漁る。

 すべての棚を心置きなくチェックし終わり、ようやく彼女はレジへと向かった。

 もうすっかり重たくなって肘に引っ掛けていられなくなったカゴを両手でカウンターへ持ち上げようとするのを、男性店員が手助けする。

 どかっと置かれたカゴの隣に、彼女は書店のロゴ入りトートバッグを二つ取り出した。

 マールゼン書房オリジナルのトートバッグはクラシキ帆布はんぷ製で、長期の遠洋航海にも耐え得るとして重宝されており、新刊書籍の二十や三十で破れるほどやわではない。

 レジカウンターに二人並んだ店員のうち、一人がレジを打ち、もう一人が手早くだが丁寧に本をバッグに詰めてゆく。彼女がカバーを断るのはもう店員の全員が知っていた。

 合計金額を伝える前に書店員の一人がカウンター後ろから本の束を出してくる。

 「お取り寄せ」だ。

 昨日までに彼女が店員に頼んで、書店に置いてなかった本を書籍取次店から取り寄せてもらっていた品だった。

 そしてさらに。

 「これもお願いします」

 会計を終えた彼女が、すっ、と白く小さな手を店員に差し出す。

 細い指先に小さなメモ用紙が挟まれている。

 「本日のお取り寄せ」だ。

 店内をすみずみまで巡回した彼女が、「読みたいから探していたのに売り場になかった本」を今この場で魔力を使ってメモとして錬成したリストだ。タイトル、著者名、出版社、ISBNコードまで完璧に記されたそれは、明日の早番出勤者が本部に伝達し、そろい次第、転移魔法の使える幹部社員がこの店に送付する手はずになっているのだ。

 うやうやしく、店員が受け取る。

「承りました。では、明日のご来店をお待ちしております」

「ありがとう」

 にこりと笑顔を見せて、彼女は書店を出た。


 夜の商店街を、戦利品とともに歩く。

 両手にひとつずつ下げたバッグの重さはどちらも腕がちぎれるんじゃないかと思うほどだが、自宅が近いのでかろうじて我慢して持ち帰る。それが仕事帰りの彼女の欠かせぬ日課だった。

 だが、なぜそこまでして偉大なる帝室魔導学師院の名誉顧問たる彼女が取り憑かれた書痴のごとくに本を買いあさっているのか。

 しかし、それこそが彼女を大魔導師たらしめているのだとしたらどうか。


 書痴魔導、と彼女は呼んでいる。


 もともと強い魔力を持って生まれる長命種エルフの中でも、幼い頃から彼女の才は飛び抜けていた。

 だが、あまりに読書好きが高じて魔導の修行が全く進んでいないのを見咎みとがめた学院の師が魔導書以外の蔵書を処分した途端、彼女の魔力は消失した。

 愛する蔵書と共に魔導師としての未来もまた失って絶望した彼女は学院から逃亡し……いや、確かに逃亡しようとしたのだけれども。

 気づけば彼女は魔導学師院の図書館にいて、蔵書を片っ端から読みあさっていた。

 それはもはや本能が彼女にそうさせた、ごうと呼ぶしかないものだったろう。


――実際、私はどうして自分がそんなところにいたのかすら自覚してなかったんだもの。


『それなのに、いや、それだからこそ、というべきか。』

 のちに、図書館で彼女を発見した学院の師は書き残している。

『未だかつて我ら魔導師の誰も成功したこともない秘術の数々を、彼女はいとも容易く、しかも無意識に操っていた――本を読むことで――魔導書でも呪文書でもない、ごく普通の俗な娯楽書が、わずかばかりに並んでいた狭い本棚の前で。その光景はあたかも魔導の神が書痴の姿をして我が前に現れたかのように私には思えた。』


 だがその論文はあまりにも情緒的かつ客観性に乏しいとしてリジェクトされ、種々の調査の結果、要するに彼女は本を読めば読むほど魔力が無尽蔵に増大する一方で、本を捨てれば魔力を喪失する特異体質の持ち主、というのが帝室魔導学師院の出した結論となったのだ。


――書痴魔導……! その無限の力をもってすれば私には何だってできる!


 自らを鼓舞するセリフを脳内で吐き散らかしながら、なんとか自宅にたどり着く。


――ククク、つまり、だ。本の重みで床が抜けるのではないかとか、異空間書庫で本が迷子にならないかとか、そんな心配はまるでいらない。すべてこの私の無尽蔵の魔導の才で解決だ! なぜなら私の身に宿る偉大なる魔力の源泉は、今までに読んできた膨大な数の本そのものであり、そして! ふはははは!


 本の詰まったトートバッグをどかん!とテーブルに置き、近所迷惑にならないように無言で盛大に高笑いして。

 ……ふと、真顔に戻る。


――だが一つ、弱点がある。


 本を読めば読むほど魔力が強まるのが書痴魔導の法則。

 だが本を捨てると、その魔力は永久に失われる。

 そのため、書痴魔導師は大量の蔵書を維持保管する魔力のためにも日々大量の本を買ってきて読み続けるという自転車操業のような輪廻の渦に囚われる宿命さだめなのであった。


――まっ、そんなのは私にとってはうれしい宿命でしかないんだけどねっ。


 ほくほくと、新刊書を抱えてソファに座ると驚くほどの速さで読み始めた。

 最近の文庫本は彼女の子供の頃と違って活字が大きめなのでだいたい一冊十五分、ライトノベルならば五分ちょっとで読了できる。読み終えた本はその場で彼女の魔導領域である異空間書庫に収納するが、室内に積み上げたままにすることもある。身近にたくさん本がある状況も好ましいのであえてそうすることも少なくない。特に……。

 

「あっ」


 思わず彼女の小さな唇から声が漏れる。

 顔をあげて見渡すと、彼女の魔力の波動に応じて周囲に積み上げられた読了本の中から何冊かが目の前にふわふわと飛んできた。

 参照してくれ、とばかりに該当するページが開かれる。


――うわ、そう繋がるのか。


 ここ数十年、彼女がずっと追いかけている作家のモーリー・ヒイロ氏は彼女と同じ長命種で、複数の長編シリーズ小説を刊行して全て大ヒットを飛ばしているが、それらの作品世界が実は全て共通のものだというのは界隈ではもはや常識だった。そのため、全く違うシリーズを読んでいたのに同じ登場人物が現れたり、完全に忘れていた頃に時代を超えて人工魔法生命体として子孫が出てきたりするため、手元に既刊作を置いて参照しないとわからなくなってしまうのだ。しかも……。


「えっ待って待ってじゃあこの子供があのお方だったってことは、あっちのシリーズよりも今作の方がずっと昔だったってことになるわけ!?」


 どかあっ、とソファの背に全体重を預ける。

 なんとなんと、この最終巻まで来て読者の認識をまるごとひっくり返して下さいましたよ作者様! しかもシリーズ二つぶんの質量で!


「……だからやっぱり読み終わったからって本は処分できないんじゃん……」

 

 本を読んだら読んだだけの魔力が宿り、処分したらした分だけ魔力は失われて永久に取り戻せないという書痴魔導の法則が果たして本当なのか、それを確かめる必要性を彼女は無意識のうちに排除しているのかも知れない。


 そうして時折、魔香草茶を飲んだり、自分で開発した眼精疲労回復ポーションを点眼したりしつつ、本の世界に没頭し続けていられる彼女の至福の時間もだが、ついに終わりを告げようとしていた。

 窓の外、ほんのわずかに東の空が白み始めている。

「ああ〜」

 本当はまだまだもっともっと読んでいたい! とばかりに未練たらしい声をあげながらベッドに倒れ込んだ。

 ばふっ、と大きな音を立てて枕に顔を埋めると同時に術式が自動展開する。

 わずか一時間寝るだけで、八時間熟睡したと同じだけの体力と魔力が回復するという、これもまた彼女の書痴魔導奥義の一つだった。


――いやいや、これでも本当はぜんぜん足りない。


 今日買ってきた本も全部は読めていないし、昨日の本も残っているし、それ以前の本だって……一度読んだけどまた読みたい本だっていくらでも書庫に眠っているし、だいたいまだ買ってないけど読みたい本が、私が読むべき本が世界にはまだまだいーっぱい、いーっぱいあるっていうのに……!

 それでも悲しい宮仕えの身、読みたい本を買うためにはちゃんと寝て(一時間も! それだけあったら何冊読めると思っているんだ私のバカ!)明日の(もう今日だな……)お仕事に備えなければならないのだ。

 ぐだぐだと脳内で愚痴を垂れ流す暇すらも与えられることなく、彼女の意識は強制的に魔術がもたらす眠りの中へと滑り落ちてゆく……。



 そうして、夢を見た。

「お前、またその本読んでるのか?」

 あきれた声の父が、まだ幼い彼女に尋ねる。

「……いったい何十回、いや何百回めだ? 何回読んだって中身は変わらんだろう? だいたい推理小説なんだから、もうわかりきったトリックを読んで面白いのか?」

「はい」

 父の方こそ何を言っているのだ? と思いつつも、彼女はうなづく。

 そう、いま読んでいるのは推理小説作家の登竜門として名高いあの「エドガー・アラン・ポー賞」の今年度の受賞作だった。

 のちにその人はベストセラー作家となり、ガリレイな探偵とか、Xで容疑者が献身するとか、マスカレードな宿屋とかで映像化作品も大ヒットするという、数ある乱歩賞作家の中でも屈指の大物となるのだが、それはもっとずっと先の話で。

 父が買ってきて読み終わったあとに貸してもらっ

たその人のデビュー作を、暇さえあれば彼女は繰り返し繰り返し読んでいるのだ。

「お父様も、またお読みになりたいんですか? なら、お返しします」

「いや、そうじゃなくて」

 ますます父の意図がわからなくて、彼女は首をかしげる。

「……まあ、お前が楽しいならいいんだが」

 去っていく父の背を見送る暇すらも惜しんで、彼女は再び本のページに目を落とした。

 そんな記憶の光景が、他にもたくさん、たくさん浮かび上がる。

 学校の図書館で、本棚の真ん前で絨毯敷きの床に座り込んだまま、すぐそばにあるはずの椅子に座るすらも惜しんで読んでいる彼女。

 祖母の家で、従兄弟らと遊ぶこともなく古い本棚にある亡くなった祖父の本を片っ端から読んでいる彼女。

 いやいや、もっとずっと幼い日、昼寝というのはただ横になってさえいればいいのだと思い込んで布団の中で本を読んでいて、「あなた、本当に本が好きなのね」と母に言われて初めて自分の書痴を自覚した彼女。

 そうして、気づいた。


――ああ、そうか。


 遥か昔の自分たちを、彼女はみんな抱きしめて。

 「よしよし」と、してあげた。


――これで私はよかったんだな。


 だから私はこんなにも、偉大なる書痴魔導師になれたのだったな、と。


(おしまい)


 

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書痴魔導師の長く短い夜 日暮奈津子 @higurashinatsuko

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