第4話 貯蔵庫(リザーヴ)
朝の庁舎は、雨前の湿り気を含んで低く鳴っていた。窓の外では雲が海から押し寄せ、コンテナクレーンの腕が鈍い色で止まっている。
零係のフロアに灯がともると、古い配線が熱を持ち、紙とインクの匂いが立ち上がった。
神代朔は窓際の席でノートを開く。ページの一番上に小さく書いてある。
ゼロ/七/六半/八
四つの記号の下に、少しだけ空白を残す。そこに何かの拍が来る気配がある。まだ名前はない。空白は、こちらのものだ。
「おはよう、ゼロ」
鷹村沙耶が紙コップを二つ置いた。封印刺青は袖の中、しかし関節の擦れは相変わらず鋭く光っている。
「今日は“正面口”よ。オルベ工機、行政監査入り」
「監査官は何人?」
「四。うち一人は“魔導安全基準”の専門家。頼りになる、はず」
“はず”に、朔はわずかに眉を傾けた。輪は、人の肩書きや善意の外側にある。拍さえ掴めば、誰でも踊らされる。
ドアが開き、御堂課長が灰色のスーツで入ってきた。目尻の皺が一本、昨夜より深い。
「行政監査の立会いは俺たちだ。だが、踊らされるな。正面口ほど床がよく磨かれている。滑るぞ」
「了解」
御堂は無言で指を鳴らした。朔の胸の内で、それに呼応して三拍が鳴る。空白が、一拍ぶん広がった。
◇
港東・オルベ工機。ロビーの鏡面ディスプレイには、公共事業の写真と「未来を映す鏡」のキャッチコピーが順繰りに現れる。
監査官たちはビジネスライクな笑みを崩さず、入館手続きを進めていた。胸につけたバッジが硬い音を立てる。うち一人、魔導安全基準の専門官・葛城が御堂に軽く会釈した。
「御協力に感謝します、御堂課長。製造記録の原本と、製造ラインのログを早急に拝見したい」
「こちらこそ。——誰かが“見せたいもの”しか見ない監査は御免だが、あんたは目がいいと聞いた」
「光栄です」
受付を通り、ガラスの廊下を進む。下のフロアで圧延ロールが回り、鏡の板がベルト上を流れていく。
品質管理担当の男が前に立ち、流れる口上で案内した。材料ロット、加圧、焼き鈍し、研磨、洗浄。語尾はいつも同じ高さで落ちる。呼吸は八で均等。人間らしさのない整い方。
「こちらが生産ラインBです。本日生産分の鏡面板には、監査立会いの印字が——」
空気が一拍だけ、硬くなった。
ベルトの端、鏡面に“目”がひとつ、滲む。反射のゆらぎに輪郭だけが浮かび、見下ろすようにこちらを“見る”。
監査官の一人が小さく肩を強張らせた。「あれは——光学的な——」
葛城が一歩前へ。「反射通信の兆候です。ライン、一度止めて——」
“目”が瞬き、葛城の言葉が八拍のどこかで途切れた。彼の喉がぴくりと動き、口が勝手に動いた。
「——管轄外だ。零係は、引け」
御堂の目が細くなる。葛城自身の声だが、拍が違う。吸い四、吐き四の呼吸のまま、言葉だけが八の“命令”に乗っている。
輪は、正面口を通って心に入る。立会いの制度ごと、拍で掴む。
「葛城さん」朔は穏やかな声で呼んだ。「あなたの呼吸は、ふだん四と四です。いま、最後の四が“満ちる”までに半拍分だけ、間が空きました」
葛城の目が朔に向き、一瞬だけ“人”が戻る。
朔は胸ポケットで指を鳴らす。三。二。空白。
八の列のうち、最後の“満ちるポイント”の手前に穴をあける。言葉の駆動がそこで引っかかる。
「——引け、の、ひとつ前で息を吸ってください」
葛城が息を吸う。空白が生まれ、言葉が落ちる。
沙耶が掌を上げ、封印の圧を目にかざす。鏡の“目”がわずかに歪み、輪郭が壊れる。ベルトは止まらない。が、“見る”力だけが剥がれた。
「……失礼」葛城は額の汗を拭い、小さく息を吐いた。「助かりました」
品質管理担当は微笑を貼り付けたまま、声だけを低くした。「機械的な反射による錯覚でしょう。当社は法令遵守を第一に——」
「いいから案内を続けろ」御堂の声は柔らかいのに、足元の床を一段低くする。「地下へ」
男の微笑が紙のように薄く波打った。
地下、という言葉に体重がかすかに乗る。踵が“七”で止まるのを、朔は見た。
◇
エレベーターが下りるにつれ、空気の匂いが変わった。油と金属はそのままに、柑橘の甘さが濃くなる。檻の内側で嗅いだ匂い。誘因触媒。
地下の扉は二重。監査の権限で開けられたのは一枚目だけだった。二枚目は磁気錠。品質管理担当がカードを翳す。
「安全のため、職人以外は通常入れません」
「職人?」御堂が受け取るように言う。「“工房の女”はいるか」
男の目が、初めてわずかに笑わなくなった。
扉が開く。冷気が頬を撫で、視界が“輪”で満たされた。
棚の列が、壁いっぱいに伸びる。
一本一本の棒状の芯に、薄い金輪が幾重にも通されている。銀の輪、金の輪、透明な輪。一本の芯に“七”で刻まれた仕様、別の芯に“八”で刻まれた仕様。棚の奥には、微細な“目”の刻印が埋められた箱。
「……貯蔵庫(リザーヴ)」沙耶が吐息に混ぜる。「輪の在庫、ってこと」
「未使用の輪です。公共の安全に寄与するための——」品質管理担当は言葉の体裁を保ったまま、声だけで後ずさる。「監査であれば、帳簿と照合していただけば——」
朔は最前列の輪に近づき、一本の最外縁へ爪をそっと触れた。チッ。
乾いた遅延の角に、違う音が混じる。鈍い鐘のような、長い余韻。七でも八でもない。——“満ち”の手前でさらに“呼び戻す”音。
空気が波立った。
棚という棚が、見えない息を吸う。輪が一斉に“鳴る”。八拍の律動に、重い、透明な拍が被さる。
朔の喉の奥で、感覚がつんのめる。空白が押しつぶされる。
「下がれ」御堂の声が低く落ち、隊員が一斉に一歩引く。
葛城が手帳を肩で押さえ、歯を食いしばった。「反応……! 遠隔の“指揮”が入ってます!」
輪の列の奥で、空気が縦に割れた。
“目”が空中にだけ浮かぶ。鏡面のない目。輪郭だけの目。
音はしないのに、八拍と、それより長い拍が部屋を満たした。
満ちる。満ちて、埋める。ゼロを潰す拍。
「ゼロ」
目は声を持たない。だが、朔にだけは、呼びかけが聞こえた気がした。
輪は空洞を憎む。中空は、輪を崩すから。ならば、埋める。満たす。満ちさせて、踊らせる。
朔は胸ポケットの内で指を鳴らそうとして、指を止めた。
いつもの三では、足りない。八の“満ちる”の手前に穴をあけても、穴ごと埋められる。
なら——穴を、拍の“外”に持ち出す。
朔はゆっくり息を吸い、指を動かす。
三。二。ゼロ。
音のない拍。数えようとしても数えられない拍。
空白を、ゼロの位置からさらに外へずらす。拍の列から逸脱させる。
沙耶の掌が、朔の動きに追いついた。封印の圧が、ゼロに“寄る”。
圧力が、音のない拍に重心を置く。
部屋の律動が一瞬だけ、居場所を見失った。
「——今!」
御堂の合図で、監査官の葛城が緊急停止の符を床へ叩きつける。
輪の芯を貫く導路が、数カ所で“切れる”。
八拍の列がばらけ、満ちる前に空気が抜けた。鏡のない“目”が薄く滲み、輪郭が崩れる。
重い沈黙。
朔は膝に手を当て、ゆっくりと息を吐く。
耳の奥でまだ八の残響が小さく跳ねる。その間に、ゼロの空白を一つ、二つ置いていく。空白が、拍の形を飲み込み、輪の牙を鈍らせた。
品質管理担当の男は、ひどく静かに汗をかいていた。
御堂がゆっくりと近づく。視線は柔らかいが、床の傾斜は問答無用にこちらへ傾く。
「帳簿を出せ。地図もだ。——どこから来て、どこへ出している」
男は唇を開け、閉じ、数秒の沈黙のあとに乾いた笑いを一つ落とした。
「うちは“映す”だけです。目は、見るだけ。輪は、回るだけ」
「回るだけの輪が、なぜ満ちようとする」
男は答えなかった。答えられなかった。
貯蔵庫の最奥から、かすかな靴音がした。
踵が軽い。七で止まる。
工房の女が、棚の影から半身を出した。白い作業服。足首に薄い輪の刺青。目は笑わないが、踵が笑う。
「よく来たね、ゼロくん」
沙耶が体重を落とし、御堂が手で制す。
女は掌を見せ、空(から)であることを示した。指先は少し荒れている。糸を扱う職人の手だ。
「今日は“見学”の続き。——輪は、ここで増える。でも、ここが“中心”じゃない」
「指揮者は別にいる」朔が言う。「八拍子の。あなたは踊り子で、職人」
女は首をわずかに傾けた。「踊り子にも、拍を配る役はある。七の群れを、八につなぐ。……ゼロは、ゼロをどこに置くの?」
朔は答えず、棚の一番手前の輪を爪で軽く弾いた。
音はしない。ゼロの位置に空白が置かれているからだ。
女の目が少しだけ細くなった。
「ふうん。——九は、好き?」
沙耶が微かに肩を跳ねさせた。「九?」
「満ちた先に、はみ出す拍。余白の拍。**溢れ(オーバーフロー)**の拍」
女は踵を一度だけ鳴らし、棚の影へ引いた。
御堂が追わない。監査官の二人が目で合図を交わし、出入口を固める。
葛城は震える指先で眼鏡の位置を直した。「ここは封印して押収。製造ラインは停止命令。——ですが」
「ですが?」御堂。
「監査官の一人が——いない」
はっと顔を上げる。さきほど“引け”と言わされた若い監査官だ。記録係。
朔の胸の拍がわずかに早くなる。
貯蔵庫の天井、配線のダクトの隙間に、小さな鏡面の欠片が貼られていた。目ではない。目の“背中”。見られていることを忘れさせる印。
「沙耶さん、右の側通路! 扉二枚先!」
同時に、非常ベルが遅れて鳴り始める。遅延の角。
側通路の扉が半分だけ開き、記録係の監査官が無表情で立っていた。
喉の奥に、薄い輪の糸。目は焦点を結ばない。八拍に掴まれている。
「止める」沙耶が走る。
朔はゼロの空白を先回りさせる。八の列の間に、二つ、三つ、穴をあける。
監査官の膝が折れ、手から端末が滑り、床に“輪の目”の刻印だけが残った。
御堂は深く息を吐いた。「人質取り、か。正面口らしい嫌らしさだ」
葛城が震える手で刻印を封じる。「……彼は戻りますか」
「戻る。今は“忘れさせられてる”だけだ」朔は短く言う。「忘れられた記憶は、ゼロに寄せれば戻る。——ゼロは、欠けじゃない」
貯蔵庫の輪は黙った。
だが、黙っていることこそが、拍の準備だ。
御堂が腕時計を見た。「押収手続きに入る。監査は継続。——だが、ここで終わりじゃない」
◇
夕刻。庁舎の窓は雨粒で曇り、港の灯がぼやけた輪になって揺れている。
零係のフロアで、沙耶がタオルで髪先を拭きながら、封印符の束を仕舞う。
「“九”って、何よ」
「余白」朔はノートを開き、朝の四つの下に、新しい行を引いた。「満ちた先の、はみ出し。計画にない拍。即興。八の“指揮”の外に出るための拍でもある」
「つまり、向こうが“九”を使ってきたら?」
「ゼロをもう一段、外に置く。——ゼロを動かす」
朔はペン先で“ゼロ”の文字に小さく矢印をつけた。中心固定ではなく、可動の中心。虚の核。
御堂がコートを椅子に掛け、雨の港を見た。
「監査官の失踪は半日以内にニュースになる。嫌でも見られる。目の土俵に乗せられるわけだ。……だが、土俵を作るのは誰だ?」
「床」朔が答える。「床の癖は、俺たちの街の傾き。署内にも、まだ戻りが残ってる」
沈黙。
御堂はふっと笑いもせずに笑いを口元で転がした。「ゼロ、明日の仕事は二つだ。一つ、署内の“忘れ”を洗う。二つ、オルベの帳簿から“九”の手がかりを拾う。正面口の上に、まだ“入口”がある」
「了解」
「了解」
フロアの時計が七時を打つ。
朔は時計の音に合わせず、机の端を二度だけ軽く叩いた。
無音の拍を、ゼロから一つ外へ滑らせる。
空白は、こちらのものだ。
◇
同じ頃、海の向こう。
廃れた劇場の客席に一人、黒い影が座っていた。舞台の上には何もない。
影は指揮棒を持たない。代わりに、沈黙を持つ。
八拍を掌の中で転がし、七拍を靴の踵で潰し、六半を笑いながら飲み込み、ゼロの空白を舌で味わう。
「九だ」
観客のいない劇場に、雨の音が拍子を打つ。
影の声は、輪の外へ投げられ、どこか別の輪の目がそれを拾った。
魔導犯罪課の零係 桃神かぐら @Kaguramomokami
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