第2話 輪の中の檻
午前九時を少し回った署内は、コーヒーの匂いと古い配線の熱の匂いが混じっていた。魔導犯罪課〈零係〉のフロアは建て増しと改装の継ぎ目でできていて、床板のレベルがところどころ半歯ぶんズレている。神代朔はそのわずかな段差を踏むたび、体内の拍が半拍だけ前につんのめるのを感じた。
昨日付けの辞令。初任務の爆発現場。狩野義一の確保。そして——署内の電源盤に仕込まれていた〈遅延起動〉の影。輪は、内側からも描ける。御堂課長の言葉が、まだ耳の後ろに残っている。
「おはよう、ゼロ」
机の向こうで鷹村沙耶が、紙コップを差し出した。封印刺青は袖に隠れて見えないが、指先の関節に残る細かな擦れが朝の光を跳ね返す。
「ありがとう」
「眠れてない顔。コーヒー飲める? 砂糖なしでしょ」
「飲める。砂糖は要らない」
朔はコーヒーをひと口飲み、口内の熱度で今日の自分の拍が何拍目から始まるかを確かめる。六。半。——まだ、あの〈六半〉の溝に指を掛けた感触が残っている。
「御堂課長は?」
「取調べ室。狩野、黙秘気味だけど揺らしてる。あ、ほら」
フロアのドアが開き、御堂が現れた。薄いファイルを二冊、小脇に抱えている。眉間の皺はいつもより一本、深い。
「お前ら、来い。今日の仕事は三つだ。ひとつ、狩野の供述整理。ふたつ、押収物の再鑑識。みっつ——署内導路の“戻り”点検。順番は逆だ。まず内側から潰す」
御堂はファイルを机に置き、短く指を鳴らした。朔の胸ポケットの中で、反射的に同じ拍が鳴る。
「昨夜の電源盤の仕込み、書き手は狩野じゃない。器用すぎる。鏡が滑らかだ。〈輪〉の外側にもう一人。内部協力者か、署内に“入れる手”。——どっちにせよ、戻りを全部あぶり出す。沙耶」
「了解。署内導路の系統図、広域で出すわ。安定器と避雷、全部」
「神代」
「はい」
「お前は“見えるもの”を拾え。音が出ないところの拍を、昨日みたいに噛ませる」
「……できます」
朔は椅子から立ち、書類棚の端に置いてある古い系統図を手に取った。紙の縁に指を滑らせると、ところどころでほんの微かな“逆立ち”を感じる。古い紙は、湿度を吸って膨らむリズムを持っている。そのリズムが、導路のリズムと重なっている箇所がある。そこが“戻り”の隠れ場所になりやすい。
「三階東の廊下、照明列の三番目と四番目の間。戻りが潜るスペースがある」
「早いね」沙耶がにやりと笑う。「じゃ、現場へ」
◇
三階東廊下。朝の紙の匂いと消毒液の匂いが薄く漂う。蛍光灯は均一に白く、しかし天井板の継ぎ目の一つだけがわずかに波打っている。沙耶が脚立に上がり、パネルを外す。朔は下から光の反射の“流れ”を見た。
「ここ。光が右に逃げる。導路の外回りが強い」
沙耶が手を伸ばし、封印刺青を指先だけ露出させる。詠唱の代わりに短い呼気。空気が硬くなり、埃の粒が可視化される。粒の流れが、天井裏のある一点で渦を巻き、そこに小さな空白——〈六半〉に似た溝——が生まれる。
「噛ませられる?」
「三でいける。……今」
朔が携行端末の追い式を軽く叩き、三拍を溝に差し込む。鈍いクリック音。見えない鎖がほどける手応え。沙耶が奥から小さな金具を引き抜いた。封止符を巻かれた薄い金輪だ。輪の縁に、微細な鏡文字。
「見事に“輪”ね」沙耶が鼻を鳴らす。「三階はこれで終わり。次、四階の給湯室」
「待って。輪の刻印、鏡の“滑らかさ”が——」
朔は指で輪の内側をなぞった。鏡面が嫌味なほど均一で、微細な傷の並びが一定の間隔で現れる。職人の手癖というより、工業的な精度。人間の“手”を感じない。
「手作業じゃない。工房がある。〈輪〉の部品をまとめて作ってる」
「工房ね……。この街で?」
「港の東。工業地区の音と同じ匂いがする」
御堂が腕時計をちらと見て、顎を引いた。「候補は後で洗う。まず署内を終わらせろ。——で、二つ目の仕事、押収物。港湾の保管倉庫から“檻”の残骸が届いてる。鑑識は“ただの金枠”と言ったが、俺は信じてない」
「行こう」
◇
警視庁押収品保管倉庫・第二。空調の低い唸りと、遠くで台車の軋む音。金属棚の列が規則正しく並ぶ中、ビニールで半包みされた金属枠が置かれていた。枠の角は四つ、微妙にズレていて、そのズレ方が朔の皮膚の内側の拍を刺激する。
「これが“檻”?」沙耶が眉をひそめる。「ただの古いコンテナフレームに見えるけど」
「檻にする気のない檻、って感じ。——“見せかけ”の率が高い」
朔は膝をつき、枠の角を爪で弾いた。チッ。第1話で聞いたのと似た、遅延癖のある音。だが、別の音も混じる。低い、湿った、布の繊維がこすれる音。金属の内側に布——否、膜。
「内側、薄膜の剥離跡。魔生体用の“匂い釣り”を塗布してた。レモノイド系——」
「昨日、言ってたやつね。柑橘の誘因触媒」
「はい。——あと、“爪痕”。ここ」
朔は枠の内側、目立たない位置の擦り傷を指した。金属の上をざりざりと滑る細い爪の痕。それが一定の周期で並んでいる。一、二、三、四、五……七。七で止まって、また一から。息継ぎのように規則正しい。
「七拍。生き物が檻を引っ掻く拍が七」
「そんなこと、あり得る?」
「誘因触媒の投与周期が七だと、内部の個体の“食いつき”も七に同調する。……ここ、触媒の“戻り”も残ってる。掃除が雑だ」
沙耶は腕を組み、枠の裏へ回った。「魔生体。サイズは?」
「猫。——大きくても、中型犬まで。細い爪の間隔と、床に落ちてる毛の繊維の太さ。それと、咀嚼痕。硬い小骨は噛み潰されてるけど、歯の尖りが甘い。成長途中か、人工育成」
倉庫の係員が近づいてきた。「追加で、同じロットの枠がもう一台入ってます。破損大で——」
通路の遠くで、金属の落ちる音がした。係員が慌てて振り向く。「すみません、見てきます」
朔は枠の角にもう一度指を当て、遅延癖の音を確かめた。七拍目が、ほんの半拍だけ遅れる。〈六半〉の亜種。誰かが、ここにも“踊らせる”仕掛けを残していった。
「御堂課長に、一応連絡を——」
朔がポケットから端末を取り出した瞬間、倉庫の照明が一度だけ、瞬いた。蛍光の唸りが半拍遅れる。体の奥で、拍がつんのめる。
「下がって!」
沙耶が叫び、朔の肩を引く。同時に、枠の内側から“何か”が跳ねた。透明ではない、しかし目がすべるほど薄い体。薄膜のような皮膚に、金属光沢の鱗がまばらに乗っている。猫のしなやかさと、蛇の滑りの混合。口腔の奥が二重ののど笛で鳴り、空気が歪んだ。
「……見える?」
「見える。“見せかけ”の檻の理由が、今わかった」
魔生体は音ではなく“拍”で跳ぶ。床板の継ぎ目の上で一度止まり、七拍目で弾く。その動きは、狩野の踵に似ていた。踊る起動文。踊る獲物。
「来るよ。——右!」
朔の声と同時に、沙耶が掌で風を握る。封印刺青が閃光を走らせ、空気が板のように固まる。魔生体の跳躍が半拍遅れ、空中で身体がよじれる。尾が床を打ち、灰が舞う。舞った灰の流れが、朔の目に導路を描く。
「遅延の溝、ここ。三を刺す」
朔が端末で溝に拍を入れ、沙耶が圧で押し込む。魔生体の喉笛がひゅ、と外れた音を出した。二重ののど笛の片方が“空回り”する。拍が崩れた。だが、次の瞬間、魔生体は舌の先で床を舐め、舐めた触媒の残渣に接触して、拍を自分で“戻した”。
「自動補正……? 学習型?」
「戻りを持ってる。輪の中で自分を合わせ直すタイプだ」
倉庫の通路の奥から係員の悲鳴が響いた。金属棚の向こうで、何かが落ち、転がる音。魔生体が舌の根元から透明に近い糸を吐き、金属棚の溝に“輪”を描いた。
「輪を作るな!」
沙耶が駆け、手刀のように風を切る。糸の輪が切断され、床に落ちた。朔は糸の残骸を見た。微細な鏡面。人の工房で作られた輪と同質だ。つまり——
「こいつ、“工房”で生まれてる」
「今は止める」沙耶の肩に汗が滲む。封印刺青が連続して光る。「——押さえ込み」
朔は呼吸を合わせ、六半の溝が立ち上がる寸前に、わざと“二”だけを先に入れた。不完全な拍。欠けた歯。魔生体ののど笛がそれに同調し、自分で欠けを埋めに来る。その瞬間、沙耶が圧を叩きつけた。二を三に変える前に、空気の板が喉元を押さえる。
空気が割れた音がして、魔生体の身体が床に叩きつけられた。鱗がばらばらと剥がれ、薄膜が裂ける。のど笛の二重の片方が沈黙し、もう片方が弱く喘ぐ。沙耶が封印用の符を投げ、輪のように生体の胴へ巻き付ける。
「確保!」
倉庫の奥から係員がこちらへ走ってきた。「す、すみません、棚が……勝手に——」
「勝手じゃない。輪を描かれた」朔は短く言う。「ここ、導路の戻りがある。倉庫全体、誰かが“踊れるように”整えてる」
御堂から端末に着信。「どうだ」
「小型の魔生体、確保。輪の糸を吐きます。——工房製の輪と同質。倉庫の導路に戻りの仕込みあり」
「……良くないな。狩野が留置で“沈んだ”。生命反応はあるが、意識が落ちた。医務室へ搬送する。——内から殴られた形跡はない」
「遅延?」
「おそらく。保管倉庫には、もう一台枠があるんだったな」
「はい。同ロット」
「そっちも“踊る”。気をつけろ。——すぐ応援を回す」
通話が切れ、朔は呼吸を整えた。魔生体の喉笛の音が、少しずつ低くなる。拍が消える代わりに、輪の糸が床に残った。糸を拾い、指先で軽く弾く。チッ。遅延の角。——誰かが、非常に滑らかな鏡で、都市のあちこちに輪を植えている。
「神代。大丈夫?」
「大丈夫。……あの糸、工業製。鏡が均一すぎる。〈輪〉の工房、やっぱりある」
「港の東、って言ってたね」
「音と匂いで、そう感じる。今日の風は南寄り。匂いが逆流してきてる」
沙耶が頷き、封印符にもう一枚追加する。「応援が来るまで、動かせない。——もう一台は?」
「同ロット。でも、破損大。……破損“だから”、輪を隠してるかもしれない」
朔は別の台車に載せられた金属枠へ向かった。こちらは角が潰れ、枠の一辺が曲がっている。破損の“乱れ”が逆に美しい。乱れは嘘をつかない。嘘をつくのは、整いすぎた鏡だ。
「ここ。曲がった辺の裏。——輪」
朔が指した継ぎ目に、薄い銀の輪が埋め込まれていた。破損の“ほつれ”で露出した形だ。輪の縁に、ごく小さな刻印。目。輪の目。
「“見ている”」沙耶の声が低くなる。「見張り付き、ってこと?」
「輪そのものが監視装置。こっちを“見る”。——署内の電源盤の〈遅延〉も、これが合図だった可能性がある」
朔が輪の縁を爪で弾こうとした瞬間、倉庫の奥の非常ベルがけたたましく鳴った。赤い点滅が壁を走り、空気の圧が変わる。御堂から再び通話。
「神代、沙耶。倉庫から離れろ。“外”が来た。輪の持ち主だ」
「“外”?」
「工房の手。——見られてる」
赤い点滅の間に、倉庫の出入口に白い作業服の人影が二つ立った。清掃員。足取りは軽く、踵の落ちる拍が“七”で止まる。昨日、署内の廊下で見たのと同じ歩幅。
「同じ奴らだ」沙耶が低く言い、体の重心を落とす。「二人とも“踊る”」
「合わせないで。——こっちの拍で行く」
朔は胸ポケットの中で指を鳴らし、三拍を二度、小さく刻んだ。侵入者たちの踵が、一瞬だけ迷う。拍が崩れた。薄い笑いが、作業服の下から漏れる。
「ゼロの音だ。いい耳だ」男の一人が言う。「ゼロの中心に、目はあるか?」
「見えるものなら」
朔が返す。二人は顔を合わせ、うなずき、踵を打った。七拍。倉庫の蛍光灯の唸りがまた半拍遅れる。輪の糸が、床から起き上がる。
「輪を増やす気——」
「増やす前に、切る」
沙耶が一歩で距離を詰め、掌を鳴らす。封印刺青が三度、短く光る。三拍。空気の板が糸を断ち切り、侵入者の足元の“輪”を潰す。朔は二人の靴の底の汚れの流れを見た。港の東——工場の粉塵。匂いは油と柑橘。やはり、そこだ。
「港東工業地区、第三倉庫群。——お前たちの工房」
「言葉遊びは嫌いか?」もう一人が笑う。「輪は場所ではなく、拍だ」
侵入者が袖口から薄い金輪を一つ、はじき出した。その輪は空中で七拍のうちに三度だけ角度を変え、床へ落ちる前に“縫い目”を作ろうとする。朔は息を吸い、六半の溝を自分で作った。拍の空白。輪は空白に落ち、ほどける。
「撤退」男の一人が短く言い、踵を二度、軽く打つ。七拍目で向きを変え、赤い点滅の中へ消えた。追うべきだ。だが、倉庫内には魔生体、押収物、輪の糸。追跡よりも“輪を切る”が先だ。
「逃したか」沙耶が唇を噛む。「でも、場所は絞れた。港東」
「はい。粉塵の粒の大きさと、匂いの戻りの角度。——風向き、今は南寄り」
御堂から三度目の通話。「生きてるか」
「生きてます。侵入者二。撤退。——港東の線、濃いです」
「よし。応援が入ったら押収物を移送、輪は全部封印。午後は港東へ行く。捜査令状は俺が取る。——それと、狩野の件」
朔は息を呑んだ。「どうなりました」
「医者の見立てでは自然昏睡。だが、喉の奥に“輪の傷”があった。糸の微細な鏡面で切った跡だ。——誰かが“見えるように”切った」
「口封じ、ですね」
「だが、完璧じゃない。奴はまだ、呼吸してる。目も——そのうち開く」
通話が切れ、倉庫の赤い点滅がようやく止んだ。魔生体の喉笛が、封印の下で浅く上下する。生きている。輪は、まだ切れる。
◇
午後。港東工業地区。煙突が等間隔に突き出た空の下、鈍い銀色の倉庫が並ぶ。海風が油と金属粉の匂いを運び、遠くで波が砕ける音がする。御堂が助手席で書類をめくり、沙耶がハンドルを握る。朔は後部座席で窓を少し開け、匂いの層を重ね合わせた。
「第三倉庫群の二列目、四番目。匂いの“戻り”が濃い」
「視える?」
「輪の糸の微粉末が、陽光で反射してる。——あそこ」
倉庫の壁の微妙な光の揺らぎ。鏡面の欠片が、風に乗って舞っては、また壁に貼り付く。御堂が頷き、無線で外周を回す隊に合図を出した。
「令状は通った。——突入は最小で行く。輪は、数で踏むな。拍を散らす」
扉が開く。内部は思ったよりも静かで、広い。床に等間隔で並んだ作業台。それぞれに固定された小さな治具。壁には細い金輪が無数に掛けられ、中央の柱には“目”の絵が描かれている。輪の目。見ている目。描線が滑らかだ。人の手の“呼吸”がない。
「工房」沙耶が吐息を漏らす。「誰もいない」
「姿を消すことも、輪の仕事のうちだ」
朔は作業台の一つに近づき、治具の上に残る細かい傷を指で辿った。間隔が一定。機械の運動の跡。だが、その上に、ほんのわずかに“人の癖”が乗っている。治具の角に微細な擦れ。踵を打つ癖のある人間が、ここに体重をかけた。
「踵の跡。七拍」
「狩野?」
「いや、別人。踵の“落とし方”が軽い。筋力の使い方が違う。……女性。体重が軽い」
御堂が中央の柱の“目”を見上げる。「ゼロ。目は、何を見てる」
「鏡の“向き”。——外じゃなく、内。輪はこの部屋の“中心”を見てる」
朔は部屋の中央へ歩き、床の僅かな光の溜まりを探した。輪の鏡が反射を“戻す”場所。そこに立ち、胸ポケットで指を鳴らす。三。三。二。——一を外す。空白が生まれる。
空気の中に、薄い線が浮かび上がった。輪の糸の通り道。そこに沿って、何かが置かれていた痕跡。小さな檻。魔生体のための“ベッド”。そして、その隣に——
「小型の通信陣。鏡面式の反射通信。——“目”は見てるだけじゃない。送ってる」
御堂が短く笑う。「便利な時代だ。ゼロ。壊せるか」
「拍を三で刻んで、六半に二を挟んで——」
朔が指を鳴らす。空気がひと呼吸だけ硬くなり、通信陣の鏡面にひびが走る。沙耶が掌で押し込み、ひびを割り広げる。鏡は割れ、反射は乱れ、輪は輪であることをやめた。
「送るのはやめてもらう」と御堂。「——拾うものを拾え。匂い、粉、刻印、音。全部だ」
朔は作業台の下から小さな金属片を一つ見つけた。輪の縁の切れ端。そこに、刻印。数字。“零”。輪に、ゼロ。嫌味か、挑発か、あるいは招待状。
「……ゼロ」
朔が呟くと、部屋の隅で小さく何かが鳴った。踵の音。七拍目で止まる。沙耶が反射的に振り向き、掌を半歩上げる。御堂は目だけで合図する。音の主は、扉の影から現れた。白い作業服。背は低い。髪は短く、靴の踵が軽い。女性だ。
「——歓迎の音合わせ、しに来たの」
彼女は笑わなかった。目は笑っていない。だが、踵が笑う。七拍目で、ほんの少しだけ、踵が甘える。
「オルビス会?」沙耶。
「輪は名前を持たない」と女は言う。「でも、あなたたちは名前を欲しがる。呼びやすいからね。——ゼロくん」
朔は胸の拍を落ち着け、指を鳴らした。三。三。二。女の踵が一瞬、迷う。だが、すぐに合わせてくる。三。三。二。彼女の足首には薄い輪の刺青があり、その輪の縁に“目”が一つ、彫られている。
「あなた、見るのが上手い。だから、見せに来た。——輪は、増やせる」
「増やさせない」沙耶が言い、半歩出る。御堂は手で制す。
「話せ。聴こう。その代わり、拍は俺の方で取る」
御堂が目だけで朔を見た。朔は頷き、女の踵より半拍遅い位置に“空白”を作る。踵がそこに落ちるたび、女の身体がわずかに揺れる。拍は会話の土台だ。土台をこちらで作る。
「輪は何のため」朔。
「見るため。繋ぐため。忘れさせるため。——それが“オルビス”の慈悲」
「忘れさせる?」
「見たものは、輪の外に落ちる。優しいでしょ」
「優しさの定義が違う」沙耶が吐き捨てる。「檻で魔生体を育てて、街に放って。人を殺して。どこが優しい」
女は肩をわずかにすくめた。「檻は、私たちのものじゃない。あなたたちのもの。——倉庫は、あなたたちの街。輪は、ただ“見た”。輪は、ただ“回した”」
「回したのは誰」御堂。
「目のある者。中心にいる者。ゼロ。——あなた」
朔の喉の奥で、短い笑いがひび割れた。彼女の言葉は挑発で、真実の影を持っている。輪の中心。空洞。そこに立ったのは昨日からずっと、自分だ。
「中心に立てるなら、輪を掴める」朔は静かに言う。「だから来た」
女は初めて、口角をほんの少しだけ動かした。「うん。だから——」
彼女の踵が七拍目を強く踏み、袖口から薄い輪が弾ける。同時に倉庫の天井で蛍光の唸りが半拍遅れる。朔は空白を先に作り、沙耶が空気の板を落とす。輪は割れ、足元に転がる。女は後ろへ跳ぶ。踵が軽い。逃走の拍だ。
「追うな」御堂が言う。「輪は“見せに来た”。狙いはこっちの拍だ。——今は拾え」
女は扉の影へ消えた。外周の隊が回り込むが、倉庫の裏には側溝と細い水路があり、彼女の踵は水の上でも軽かった。拍は波で隠される。輪は波の上でも回る。
「逃した……」
「いい。今日は“目”を見た。輪の工房を見た。拍を合わせられた。——ゼロ、どうだ」
朔は深く息を吸い、工房の空気の匂いと拍の残響を胸に溶かした。「……見える。輪の外径、内径。鏡の傷の間隔。工業ロットの刻印。——追える」
「追う。だが、急がない」御堂は柱の“目”を見上げ、笑いのない笑いを口元で転がした。「輪は転がる。転がる道は、床の癖で決まる。床は俺たちの方が知ってる」
◇
署へ戻る夕方、空は薄いオレンジと鉛色の境界を引き合っていた。零係のフロアに入ると、机の上に新しい紙束が置かれている。“緊急:留置管理報告”。狩野義一、意識不明。喉奥に切創。鏡面片、採取。輪の刻印、なし。
御堂は報告書を閉じ、静かに言った。「口は封じられた。だが、完全ではない。息があるうちは、拍がある」
「拍があるなら、踊れる」沙耶が椅子に腰を落とす。「今日は負けじゃない」
朔は窓際の席に座り、机の端にそっと指を置いた。窓の外ではクレーンが輪のように腕を回し、港の灯が一つ、また一つと点り始める。輪は、夜でも回る。目は、夜の方がよく見える。
机の引き出しの奥にあった先代の零係のメモを取り出し、新しいページを開いた。今日の拍を書き付ける。六半/三/二/外し。輪の外径。工房の座標。匂いの層。女の踵。刺青の輪。目。
(見えるものは、嘘をつかない)
胸ポケットの内側で、朔は指を鳴らした。七拍目を、意図的に外して。空白は、いつでもこちら側にある。輪の中心にある空洞は、こちらのものだ。
御堂がコートを椅子の背に掛け、窓の外を眺める。「明日、港東にもう一度入る。輪の工場に“点検”が入ることを、彼らは知っている。——だからこそ入る」
「了解」
「了解」
フロアの時計が七時を打つ。朔は時計の音に合わせず、自分の拍で机を二度、軽く叩いた。誰にも聞こえない音。だが、自分にはよく聞こえる。ゼロの音。輪の中心の音。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます