鈍色の底
リス(lys)
🚃
「地下鉄が好きなんだ。だからこの沿線に家を借りた」
ロングシートに僕と隣り合って座っている彼は、こちらに顔を向けることもなく「ふぅん」だか「へぇ」だか聞き取れない曖昧な返事をした。
車両には乗客がほとんどいない。
静かで、車体の軋む音がいやに耳についた。
「でも地下鉄ってさぁ、景色も見えないし乗っててつまんないだろ」
正面にある窓の外は当然真っ黒で、中吊り広告を眺めながらそう言う彼と、彼の左に座る僕が反射して映し出されていた。
「それがいいんだよ、なんていうか……景色を楽しむでもなくただ運ばれていく感じ、純粋な移動手段としての乗り物感、というか」
窓ガラスに映る彼は顎に手を当てて僅かに首をひねり、「うん……?」と微妙な反応をした。つい言葉を重ねてしまう。
「……別に鉄道オタクってわけじゃない。この街に来るまで地下鉄って乗ったことなかったし。そもそも地下鉄事業者って日本に10社しか無いんだよ。……あ、でもたった数駅分しか地下区間がないのに広義の地下鉄とされる路線には乗ったことある。地下鉄って、実は法令上は厳密な定義って無くて、」
「いや、オタクじゃん」
彼が笑ってこちらに顔を向ける。少し呆れたような、でもどこか面白がるような表情は、あの頃と何も変わっていなかった。
僕はそんな彼の顔を間近で見て体温が上がり、それを悟られぬように小さく「ごめん」と呟いて顔を逸らす。
僕だって、あの頃と何一つ、変わっていやしなかった。
♢
「……何年も連絡とってなかったのに。突然会いに来たりして、なんかあった?」
努めて軽い調子で彼に問う。
僕と彼は高校、大学が同じだった。
就職を機に住んでいた街を離れてからは、わざわざ連絡を取り合うこともなかった。……男同士の友情なんて、そんなものだろう。
だが数日前、突然彼から久々に会おうと連絡が来たのだった。
「この間本屋で偶然見つけてさ。見た瞬間に、学生の時のことをバーッて思い出して。あれもちょうど今頃の、秋の始まりの夕方だった。お前、教室でこれ読んでただろ? タイトルがなんか、印象に残ってたんだよなぁ」
彼はそう言って、肩から下げたサコッシュから文庫本をのぞかせた。
――恒川光太郎、『秋の牢獄』。
主人公の女子大生が秋の1日を繰り返してしまう、幻想的で美しいホラー短編だ。
それは正に、僕が学生時代から何度も何度も読んだお気に入りの小説だった。
「……そんなことあったかな。覚えてないや」
嘘だ。
僕ははっきりとその日のことを覚えている。彼が僕の顔をのぞき込んで「なに読んでんの」と少し笑って言った顔も、部活終わりの彼の汗の匂いも、朱に染まる教室も、ひやりと冷たい風も、揺れるカーテンも、全部。
「あったんだよ、そんなことが。その時オレ思ったんだよな。あー、このまま時間止まんねーかな、って」
息が詰まる。動揺を彼に悟られないよう、爪が食い込むほど拳を握りしめる。
彼は屈託なく笑いながら、懐かしい思い出話に花を咲かせているだけだ。ただそれだけなのに、僕の指先からは血の気が引き、急速に冷えていった。
期待か、あるいは恐れなのか、僕にもよく分からない。
「オレにもなんでか分かんないけど、卒業も進学もせずに今日が続けばいいのにな、って思ったんだよ、その時。お前のよく分かんない話聞くの、結構楽しかったし」
僕だって、そうだ。なんの理由も約束もなく君と居られる日々に、どれほど永遠を願ったことか。
僕は「ああ」と相槌を打ったつもりだったが、掠れた自分の声は呻き声にしか聞こえなかった。
「……ちょっとこっち方面に用事があったんだ。そういえばお前もこの辺りに就職してたはず、って思い出してさ。折角だから会っとこうと思っただけなんだけどな」
言いながら、彼はおそらく無意識に自身の左手を見つめ、薬指を撫でる。
その指には、光るものがあった。
それは、彼が手にした幸福の証だ。
僕が知らないところで、彼は確かに、柔らかな幸せをその腕に抱いている。
その事実に、不思議と安堵している自分に気付く。
期待したり、諦めたり、過去に囚われ続ける日々に、僕はもううんざりしていたのだろう。
僕と彼は同じように永遠を望んでいたけれど、僕と彼が見ていた景色は、決して同じものではなかった。
そんなこと、初めから分かっていたことだ。
「結婚、してたんだ。なんで言わないんだよ。……おめでとう」
上手く笑えたはずだ。
彼はなぜか、少しホッとしたような表情で「ありがと」と呟いた。
もしかしたら、彼はほんの少し、僕の気持ちに気付いていたのかもしれないと、そう思った。
今さらもうどうでもいいことだ。
「……あ〜、昔の友達に会うのも良いな、子供に戻れたみたいで。ていうかたまには地元帰ってこいよ。駅前めっちゃ綺麗になったの知ってるか? でけぇ駅ビル出来てさぁ、……」
彼の愛する人はどんな人なんだろう。
無邪気に、学生時代みたいに話す彼の声を聞きながら、彼と彼女の幸福を、祈った。
♢
線路はどこまでも続かない。
1日は繰り返さないし、秋は瞬く間に過ぎて、冬が来て、今年が終わる。
生命も、文明も、宇宙にすら終焉は来るのだ。
永遠なんてどこにもないし、それを願うことに意味も無い。
でも、だから、彼の隣で地下鉄に揺られるこの瞬間を、鉄と油と埃の匂いごと、僕は脳裏に焼き付けようとしていた。
風景の変わらない地下深くを、友人と定義された僕たちを乗せて、地下鉄はいつまでも走り続ける。
空想する僕とヘラヘラ話す彼が、触れそうで決して触れない距離のまま、ガタゴトと、揺られている。
やがては地上に出ることを、僕はもう、恐れてはいなかった。
(了)
鈍色の底 リス(lys) @20250214lys
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