【200PV感謝!】姫サマだって密かに恋を謀る

そうじ職人

孫家の帰還

第0話 とある姫サマの想い

「あたしは、あの方に会いたいのよ!」

 屋敷の奥から、ひと際大きな声が響き渡る。


 名家の屋敷ともなると、奥の部屋には女官の部屋が連なる。

 もちろんひと際大きな最奥の部屋は、この屋敷の正室の居室である。


『七年男女不同席』


 男女は七歳にもなれば、みだりに竹で編まれた敷物(寝台)を共にしてはならない。

 これはみだらな同衾どうきんいましめる教えに他ならない。

 そして孔子こうしの唱えた儒教は、この時代の上流階級の規範とされている。


 それは、ここしゅ家にとっても当然のならいである。


 江東こうとうには『呉の四姓』と呼ばれる土着どちゃくの名士がいる。

 氏、りく氏、ちょう氏、そしてこの屋敷に住まうしゅ氏である。


 最奥の正室の部屋の手前には、唯一の跡取りの娘が住まう。

 名を朱紅紅フォンフォンという。


 紅紅フォンフォンの周りには、お付きの侍女が十名程が常にかしずく。

 その中でも妙齢の女性が、りんとした声でたしなめる。


紅紅フォンフォン姫サマも今年で七歳になられるのです。そのように殿方と気軽にお付き合いが出来る歳では無いのですよ」


「そんなことを言っても施ラン様とは、もう丸一年はお会いできていないのよ!」


 家には朱治しゅちの姉がとついでおり、その息子が施ランである。つまりは従兄妹いとこにあたる。

 もちろん家もまた、有数の名家である。


しゅ家もこの戦乱の世で、揚州ようしゅう刺史しし劉繇りゅうようと緊張状態にあります。他家との交流も容易たやすくできる時代ではないのです」

 妙齢の女性が、優しくたしなめるようにさとして聞かせる。


翠蓮すいれんは全く分かってないわ。だからじゃない! こんな時代だからこそ想いを伝え損なったら、永遠にその想いを伝える機会なんて無くなってしまうかも知れないわ」

 紅紅フォンフォンねた表情で、寝台に飛び込む。

 

 侍女頭じじょがしら翠蓮すいれんは首を横に振りながら、部屋につどう侍女たちを下らせる。

 紅紅フォンフォンは寝台の上で物思いにふける。


(施ラン様はいつだって、あたしのことを護ってくれてたわ。それって『好き』って感情が無ければ有り得ないわ)


 紅紅フォンフォンは過去の自分を振り返る。

 名家の姫サマとしては良く言えば活動的。平たく言えばジャジャ馬である。

 そんな行いを施ランはいつも寛容な態度で許してくれて、状況次第ではかばってもくれる。


(あんなに優しくて理解力があって、おまけにイケメンだわ! この想いだけは大事にしたい)


 紅紅フォンフォンは、そんな強い意志を秘める。



***

 

 時に、興平二年(195年)秋。

 後漢の末期。


 皇帝の劉協りゅうきょうは去る四年前には董卓とうたくの手により、本来の都である洛陽らくようから遥か西の長安ちょうあん遷都せんとされて半ば幽閉ゆうへいされてしまう。

 その後も権力欲に駆られた側近の有力者達は治世をかえりみずに毎年のように戦乱を繰りかえしては、その華やかな舞台から姿を消して行く。

 もはや帝位の威光は地に落ちていた。


 天下の覇権はえん氏の手に移りつつあり、その総領そうりょうたる袁紹えんしょうと義弟の袁術えんじゅつの対立を招く。

 特に最大の兵力を誇る袁紹えんしょう州を拠点に勢力の基盤を着々と固めつつあり、それに対抗するように袁術えんじゅつ寿春じゅしゅん県を拠点に帝位の簒奪さんだつ目論もくろむ。

 それに対抗できる者は限られるものの、各々独自に勢力の拡大を図りつつ天下の覇権を狙っている。


 曹操そうそうは数十万とも言われる青州兵せいしゅうへいを傘下に収めており、皇帝を奪還して漢帝位の復権と称して確固たる権力を握ろうと画策する。


 また劉備りゅうびは民衆の指示を受けてじょぼくとなり、下邳かひ郡を拠点に着実に勢力を固めつつある。


 そして江東の地では、先年戦没した孫堅そんけんの後を継いだ長男である孫策そんさく袁術えんじゅつの配下から脱する機会を虎視眈々こしたんたんと伺う。


 まさに群雄割拠する乱世の真っ只中である。



***



 当時の高貴な姫サマにとっては、読み書き礼儀作法を学んでいることは当然のこととされ、特に才女と名をせるには、詩歌しいか儒学じゅがくたしなむ必要がある。

 そして気品を際立たせるには、楽器の演奏や舞踊の心得こころえも重要である。


「もう飽きたわぁ」

 紅紅フォンフォンを上げる。


 今は舞踊の鍛錬の時間だ。

 稽古場には琴の奏者が、穏やかで優雅な音色を奏でる。


 中央の舞台では、紅紅フォンフォンが汗まみれになって鍛錬にいそしむ。


 小さな水瓶を頭に載せて、腰は低く保ちながら袖には重りが入れられている。

 舞踊にとって重要なのは、身体全体で『礼』を表すことである。

 礼とは最高の徳目とくもくにも挙げられる。

 それを姿勢や歩き方で体現して、更には袖の角度から指先の繊細な仕草、そして音楽に合わせた振り付けと視線の動きが優雅さを表現するのである。


「それでは、今日はここまでに致しましょう」

 翠蓮すいれんの言葉に、紅紅フォンフォンが床に崩れ落ちる。


 頭上に載せた水瓶は派手な音を立てて床を転がり、辺りを水浸しにする。

 翠蓮すいれんは額に指を抑えながら、速やかに侍女たちに床きを命じる。


「ねぇ、翠蓮すいれん。あたしの舞踊もだいぶさまになって来たと思わない?」


「まだまだ、やっと立って歩けるようになった赤子あかごのようですわ。舞踊はこの位舞うようにならなければ、他人ひと様にお見せできるものではありませんよ」

 そう言うと、舞台の端を演奏なしで静かに踊り始める。

 その姿を見ると、伴奏の琴の音どころかしょう胡弓こきゅうつづみの音さえも響き渡るような優雅な幻聴に襲われる。


(す、凄い! いつも思うけど、あんなふうに舞っている時の翠蓮すいれんはいつもの厳しい侍女頭じじょがしらとは思えないほど、妖艶な大人の女性を感じさせるわ)


 紅紅フォンフォンの視線が思わず釘付けになってるのを見ると、翠蓮すいれんはいつもの侍女頭じじょがしらの厳しい表情に戻って、その舞う姿も止める。

 

「汗で濡れた上に、水瓶を頭から引っくり返して水浸しですよ。早く湯殿ゆどのに行ってらっしゃい」

 翠蓮すいれんは侍女に指示して、湯殿ゆどのに付き添わせる。


「はぁっ、紅紅フォンフォン姫サマが一人前の淑女になるのは、いつのことに成るのかしら?」

 溜め息じりに、フッと小声でつぶやく。


(あたしも翠蓮すいれんのように舞えるようになったら、施ラン様のハートを射止められるようになるかしら?)


 紅紅フォンフォンは蒸気した頬を手拭いで覆いながら、湯殿ゆどのへと向かう。


 まだまだ残暑に、辺りは蝉の声が響き渡る。

 翠蓮すいれんも懐から手拭いを一枚取り出すと額の汗をひと拭きする。

 窓のから差し込む日差しは未だに高く、奥の山野さんやは新緑に染まっている。


 これからしゅ家にも激動の時代が訪れるとは、その時は誰も知る由も無い。

 


***



【人物註】

・朱紅紅:字は成人前で無い。朱治の一人娘で七歳。本作のヒロイン。

・朱治:字は「君理」。孫堅の配下。直前に呉郡都尉に任じられる。呉県県令と太守職を兼任。

・施然:字は成人前で未だ無い。朱治の姉の息子で十三歳。文武両道で名を馳せて跡継ぎ候補。

・翠蓮:紅紅付きの妙齢の侍女頭。歴代の朱家に仕えてきた一族。


【用語註】

・刺史:当初は朝廷から派遣される監察官であったが、州の長官として『州牧』と呼ばれる。

・都尉:朝廷から賜る郡の軍事を取り仕切る官位。

・古代中国の行政区:全国は十三州に区分され、その下に郡が置かれ、更に県に区分される。


【イラスト】

・本作扉絵:https://kakuyomu.jp/users/souji-syokunin/news/822139837232153807

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