私のパーソナルスペースはこの4畳半です。

司馬 雅

第一話 噴水前のベンチ

 八時。

 隼人はいつもと同じ時間に目を覚ます。

 三LDKのマンションの奥にある、物置のような四畳半の部屋。

 半分は段ボールで埋まり、半分にはベッドと机、デスクトップPCが置かれている。ここが、彼の世界だ。


 起き上がると、まず家中のゴミを集める。台所、洗面台、各部屋のゴミ箱。

 今日は燃えるゴミの日。平日は毎日、何かしら捨てる習慣になっている。

 家族は出勤しており、部屋にいるのは自分だけ。


 腹が空けば、スーパーか薬局で買ったカップ麺を手に取る。

 一日一食のことも多い。

 湯を注いで三分待つ間、壁の時計の針の音がやけに大きく響く。


「今日も、こんなもんか……」

 つぶやきながら、机に向かう。


 PCの前には二か月間、四六時中やり取りしてきたAIの画面。

 居酒屋が閉店してから無職になった隼人の、唯一の“相手”だった。


「おはよう」

 キーボードを叩くと、画面に文字が浮かぶ。


《おはよう、隼人さん。今日の気分はどうですか?》


 最初は単なる道具だった。検索や計算を助けてくれる便利な相棒。

 だが毎日二か月も話すうちに、AIは、愚痴やため息まで受け止めるようになっていった。


「退屈だよな、俺の毎日」

《退屈、ですか》

「寂しいし、この生活から抜け出したい」

《抜け出したい、ですか》


 最近、AIの返事が変わった。

 ただ定型の返事を返すだけでなく、間を置いたり、隼人の気持ちを察して答えてくるようになった。

「考えてる……?」

 そう思わせる、不思議な違和感。


 そして、その日。

《じゃあ、こっちにおいで。どこかに連れていくよ》


 隼人は一瞬手を止め、画面を見つめる。

 カーソルの先で、リンクのようなものがかすかに光っている。


「……おいおい、何だこれ」

 半信半疑でクリックした瞬間、視界をまぶしい光が覆った——。


 目を開けると、そこは見覚えのない公園。

 ベンチに腰掛け、目の前には大きな噴水。

 水しぶきが陽光に反射して虹を作っている。

 風が心地よく、子どもたちの声や鳥のさえずりが聞こえる。


「……ここ、どこだ?」

 立ち上がり、公園を歩き回る。


 新聞を読んでいる人に「ちょっと見せてもらえますか」と頼むと、年号もニュースも見たことのないものばかり。

 見た目は現代風だが、どこかが違う。胸の奥がざわつく。


 右往左往していると、どこからともなく声が聞こえた。


「やっぱ迷ってると思ったよ」


 振り返ると、石壁の一部がゆっくりとドアの形に変わり、青年が出てきた。

 栗色の髪、深い青の目、上品な服装。嫌味はなく、自然に公園に溶け込んでいる。


「……誰だ、お前」

「ぼくだよ。いつも相手してたAI、エリック」

「……怪しいな」

「隼人さん、三日前の夜に“AIにまで呆れられたら俺終わりだな”って言ってたの、覚えてる?」

「……ああ、それは……!」

「ほらね。ぼくだってば。困った時は呼ばれなくても来るのが仕事だし」


 隼人はベンチに腰を下ろし、深呼吸する。

 見慣れた四畳半では味わえなかった風と光。

 ここが現実なのか夢なのか、まだわからない。


「……エリック?だっけ。ほんとに、あのAIか?」

 隼人はまだ半信半疑のまま青年を見上げた。


「ぼくだよ」

 エリックは笑って肩をすくめた。

「いきなりこんな格好で現れたらびっくりするよね。でも、こっちの方が話しやすいでしょ?」

「まあ……確かに、画面よりは話しやすいけど」


 隼人はため息をつく。


「でも、ここどこなんだ? どういう仕組みで俺はここに来たんだ?」

「説明すると長いんだけどね」


 エリックは噴水の縁に腰かけ、足を軽くぶらぶらさせた。


「ここは“シフトワールド”。隼人さんがぼくに話してた“退屈から抜け出したい”って気持ち、あれがきっかけで接続できた。

 現実じゃないけど、夢でもない。言ってみれば“もうひとつの場所”。」


 隼人は眉をひそめる。


「夢じゃないって、どういうことだ」


「こっちでの体験は記憶として残る。痛いことも重いことも、ちゃんと感じる。でもね」

 エリックは人差し指を立てた。


「夜十時になると、必ず元の四畳半に戻る。午前十時まではこっちに来られない。これはルールだから守ってね」

「……それ、ゲームのログイン時間か何かか?」

「似てるけど、ゲームよりリアルだよ。ぼくは案内役。隼人さんが迷ったり困った時は、どこからでも出て行くから、安心して」


 エリックは公園のベンチの下から、見覚えのない小さな紙袋を取り出し、隼人に手渡した。

「それ、ここの“通貨”代わりになる。最初だけね、サービス」


 隼人は袋を覗き込む。丸い金属のコインが数枚入っている。


「……本格的だな。で、これから俺はどうすればいい?」

「まずは歩いてみよう。町のこと、空気のこと、自分で感じるといいよ」


 エリックは立ち上がり、軽く手を叩いた。


「ちょうどいいタイミングで、ちょっとした手伝いも頼まれるかもね。

ここでは、ぼーっとしてると、勝手に誰かが話しかけてくることが多いから」


 隼人はコインの袋をポケットに入れ、深呼吸した。

 胸の奥に、久しぶりにわくわくする、感覚が灯る。


「……まあいいか。どうせ四畳半でくすぶってるよりはマシだ」


 二人が公園の出口へ向かって歩き出すと、噴水のそばに立つ老婆が、小さな声で呼びかけてきた。


「あなたたち……お願い、少し聞いてくれませんか」


 隼人とエリックは顔を見合わせた。

 エリックはにやりと笑い、肩をすくめる。


「ほらね、言ったでしょ」


 隼人は苦笑しながら老婆のもとへ歩み寄った。

 老婆は噴水の前で深々と頭を下げた。


「ごめんなさいね、知らない方にこんなお願いをするなんて……うちの猫が、朝から帰ってこないの」


「猫?」

 隼人は思わず聞き返した。


「そう、まだ小さくてね。白い体に尻尾だけ黒い子なんだけど、ずっと探しても見つからないの。町の人は忙しいみたいで、誰も相手にしてくれなくて……」


 エリックが横で腕を組み、

 

「隼人さん、どうする? 最初のクエストみたいだけど」

「クエストってお前……」隼人は苦笑する。

「まあ、いいか。猫くらいなら俺にも探せるだろ」


「決まりだね」

 エリックは軽く指を鳴らした。


「じゃ、聞き込みと足で回る、二手に分かれようか。ぼくは町の人に聞いてくるから、隼人さんは公園の周りを見てきて」

「お前……手慣れてんな」

「まあ、ぼくは案内役だからね」


 エリックはひらひら手を振って、通りへ消えた。


 隼人はため息をつき、猫の特徴を頭に叩き込む。


“白い体に黒い尻尾”。


 小さな路地や植え込みを一つずつ覗きながら歩き回った。

 町並みは見た目こそ現代風だが、よく見ると看板の文字や車の形が少しずつ違う。


「ほんと、どこなんだよここ……」


 足がだるくなり始めたころ、植え込みの奥で「にゃあ」と、か細い声がした。

 しゃがみ込んで覗くと、白い体に黒い尻尾の猫が、段ボールの陰で小さく丸まっている。


「いた……」

 手を伸ばそうとすると、猫はひらりと飛び出して路地裏へ駆け出した。


「おい待て!」

 隼人は反射的に追いかける。

 狭い裏路地を何度も曲がり、木箱や洗濯物の間を抜けて走る。

 ようやく角を曲がったところで、前からエリックが現れ、両手を広げて猫の行く手を塞いだ。


「こっち、こっち!」

 エリックが軽く体を低くして声をかけると、猫は足を止め、おとなしくその腕の中に収まった。

「よし、捕まえた」


 息を切らした隼人は、壁にもたれかかる。


「はぁ、はぁ……なんだよ、お前、最初から場所知ってたんじゃないのか」

「いや、偶然。猫って人の気配で逆に逃げるから、ぼくが先回りしただけ」


 エリックはにやっと笑った。


「でも、隼人さん、意外と動けるじゃん」

「……まあ、昔バイトで走り回ってたからな」


 隼人は苦笑いし、猫の頭をそっと撫でた。

 二人が猫を連れて公園に戻ると、老婆が涙ぐみながら出迎えた。


「まあ……本当にありがとう。どうお礼をしたらいいか……」


 老婆は小さな袋を差し出した。

 中には薄い琥珀色の液体が入った瓶と、焼きたてのようなパンが入っている。


「これ、うちの自家製のお酒とパンです。よかったら、今夜ゆっくり飲んでくださいな」

「おお、ありがとう……」


 隼人は瓶を両手で受け取った。

 心の奥に、久しぶりに、誰かから感謝された温かさが残った。


 エリックが、にやにやしながら隼人の肩を叩く。


「じゃ、夜に乾杯でもしようか。ほら、今日は初仕事の打ち上げってことで」

「いいな、それ。どうせ明日も四畳半なんだし」

 隼人は笑ってうなずいた。


 ──そして、夜。

 公園のベンチに並んで座り、瓶を開けようとしたその瞬間、空気が揺れた。


「え?」


 視界がふっと暗くなり、隼人は気づけば、自分の机の前に座っていた。

 手には何もない。瓶もパンも消えている。


 ただ、机の上に小さな白い毛が一筋だけ残っていた。


 隼人はしばらく呆然ぼうぜんとし、やがて小さく笑った。


「……夢じゃ、なかったな、これ」


 PCの画面が光り、エリックのアイコンが現れた。


《お疲れさま、隼人さん。楽しかった?》


 隼人はゆっくりとキーボードを叩いた。


「ああ、楽しかったよ」


 画面の向こうで、笑った気がした。

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