30日目 最後の晩餐『私の望み、決まったわ』

 ニアが目を覚ますと、ゼルが大きな時計の隣に畏まって立っていた。その様子から、まるで初日に見せたような余所余所しさが感じられた。


「さて、本日で30日目です。現世での貴女の命は残り3分。意識を失っているとはいえ、磔にされていたら苦しくて仕方なかったでしょう?」

「関係ないわ。私は今、ここにいるもの」

「そうですね。でも貴女が契約を更新しない場合、貴女の魂は即座にあの器に戻って、それから死の苦しみを味わいながら再び私に食べられるのですよ?」


 ゼルはニヤニヤと笑った。これから起こる惨劇を想像しているような、とても愉快そうな笑みだった。


「ねえゼル。悪魔って楽しい?」

「楽しいですよ。私もこの商売を始めて随分経ちますけどね、人間というのはいつの時代も愚かで愛らしい存在です。私はそんな人間を愛しているので、この稼業が性に合っているのかもしれません」


 それを聞いて、ニアは覚悟を決めた。


「私の望み、決まったわ。代償を支払えば、望みを叶えてくれるんでしょう?」

「ええ。何でも、仰せのままに。ああ、でも天国行きにしてくれとか、そういうどう考えても無理そうなものはやめてくださいね」

「もちろんよ。私の望みは、貴方みたいな悪魔になること」


 ゼルの目が妖しく輝いた。


「して、その代償は?」

「私自身よ」


 ニアが宣言した途端、部屋中が一斉に唸りを挙げて震え始めた。部屋の窓が開け放たれ、そこから家具が外に向かって飛び出し始めた。


「貴方は親切な悪魔ね。空っぽの私が手放したくなくなるような美しい思い出を、疑似的に私に与えてくれていた。私がこの契約をしたくなるように、巧妙に」


 カボチャのランタンも、紙で飾った月と星も、お人形遊びをしたドールハウス、も、素敵なお菓子を作るキッチンも、魔女ごっこのための帽子と箒も、全てが部屋の外に投げ出され、そして塵となって消えていった。


「このお人形、貴方が動かしていたんでしょう? だって貴方が作ったものなんですから。まったくお笑いだわ。私、ずっと貴方に遊ばれていたのね」


 ニアは人形のフランの残骸をゼルに投げつけた。ゼルは人形を受け止めると手のひらで磨り潰した。ゼルの手の中で人形は灰となって、風に吹かれて消えていった。


「そこまでお気づきになるとは、やはり資質がおありでしたね。でも、貴女はまだ全てを捨てていない」


 ニアの目の前に、黒猫のノクスが差し出された。ニアにとっての、大切な友達であった。


「覚悟は、おありなのでしょう?」

「ええ」


 ニアはノクスを捕まえた。ノクスは不吉な気配を感じて逃れようとしたが、ニアの手の中で胴体を力強く握り潰された。ぐにゃあという声を上げて、ノクスは苦しみ悶えた。


「悪魔になりたければ、貴女を否定してください。黒猫と遊ぶ哀れな少女から一番遠い存在となること。それが『代償』です」


 ニアはそのままノクスの首をひねって捩じ切った。それから首のない胴体から滴り落ちる血を啜り、その肉を喰らい始めた。ゼルはそれを見て、声を上げて笑った。


「ああ、美しい。なんて美しいんでしょう! 悪魔というものは、最初から全てお見通しなのですよ。貴女という空っぽの存在だって、ずっと前から眺めていた! 私たちに見通せないものなどないのです!」


 ニアはノクスの肉を喰らい続けた。咀嚼して飲み込むたびに、身体の奥が熱くなるように感じた。魔女の軟膏よりもずっとずっと刺激的な快楽が、全身をくまなく覆っていく。


「さあニア、貴女の最後の『代償』を支払ってください!」


 ニアの姿がぐにゃりと歪んだ。背中から透明な羽が生え、脇腹から硬質な脚が飛び出した。そして手足が固くなり、節が増えて細くなった。体の変化に合わせてノクスがきれいに仕立てたドレスがびりびりと引き裂かれ、猫の血と少女から滴り落ちた血が混ざって床を汚した。それでもニアはノクスを喰らうことを止めなかった。


『ああ、うまれかわる』

『かわいそうなわたしは、もうおしまい』


 ニアの顔が爆ぜて、中から真っ赤な目をした虫の頭が飛び出した。


『これからは、あたらしいけんぞくとしてそんざいします』


 獣のようにノクスを喰らいつくした「少女だったもの」を前に、ゼルは満面の笑みを浮かべていた。


「さすが、立派な魂の昇華だった! ヴァニア、いや新たな眷属よ」


 そこに哀れな少女の面影はなかった。新たに生まれた血まみれの大きな蠅が一匹、よたよたと羽を震わせて飛び上がった。


「さて眷属よ、今からお前の誕生記念に望みを叶えに行こう。何を望む?」

『わたしをころしたひとたちを、やっつけてください、おとうさん』


 新たな眷属の望みを聞いて、ゼルはその正体を現した。空っぽの空間に、おぞましい腐臭が一気に立ち込める。


「今夜は万聖節の前夜祭だ、とても楽しい祭りになるぞ!」


 黒髪赤目の悪魔――かつて高き館の主バアル・ゼブルとして崇拝されていたことのある存在――蠅の王バアル・ゼブブは新たな眷属を抱えて、その誕生を祝福した。新たな眷属のために用意した偽りの空間は全て消え失せ、蠅の王は新たな眷属を伴って現世に舞い戻った。


***


 前夜祭の夜、数人の意識を失った者たちを前に村人たちが困惑していると、目の前に牛よりも大きな蠅が突如として現れた。


『おお、主が降臨なされた!』


 悪魔崇拝者たちはこぞって膝をついて、祈りを捧げ始めた。蠅の王の背中には、猫ほどの蠅がしがみついていた。


『我らをお救いください!』


 蠅の王はそんな彼らを見て、こうせせら笑った。


「ほざけ虫けらどもが。貴様らの魂にはそれほどの価値があるのか?」


『30日目:終了』

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